第9話「出兵」
見晴らしのよいヴェルト平原の草木は、春の夕暮れによって薄紅色に染まっていた。
しかし俺たちは自然と調和することはなかった。
一万を超えるアルドロ軍が幕舎を築いて駐屯しているのだ。
先ほどまではわずかに青臭さが立ち込めていたが、今となっては鉄と獣の臭いに変わり果てている。
現在根城にしている狭い幕舎の中には、俺の他にもう一人いた。
鈍く光る鎧を身につけるリックだ。
彼は椅子に腰を下ろし、傍に控えるドランを撫でながら盛大に溜息をついた。
「まったく、君には呆れたよ。一人で帰った僕を見てリリイが膨れっ面だったけど、朝になると上機嫌になってるからなにかと思えば……君もまもなく戻ってたのか」
スピールズもドランの隣にいるので、三人から叱責された気分だ。
俺が着ている漆黒の鎧は青年の枠から飛び出すような威厳高さなのに、所持者と同調するように光沢を失った気がした。
「王女と喋ってただけで呆れられることもないだろ」
「この期に及んで、普通に喋ってた君がすごいよ。生きてまた王都へ帰れると思っているならまだしもね。まあ、この場合はラルズ殿下にも問題はあるか……」
リックがどこか、ラルズに対して陰口を叩くのは初めてではないだろうか。
俺も普段ならば、馬鹿のくせに考えすぎだと一蹴してこの場から立ち去るものだが……。
なかなか、そうはいかなかった。
昨晩に限っては己の情けなさに心底落胆した。
帝国の海竜にも屈しない自負があるのに、心情を吐きだす勇気はなかった。
「君が傷心した殿下の元へ顔を出せず、なよなよする姿を見るのはうんざりしてたんだ。やっと解消されたかと思ったのに、長いため息を聞かされる僕の身にもなってくれ」
反論できない。
王宮に乗り込む口実がなかったらどうなっていたか。
これを戦の前に空想するのは身を滅ぼしかねない。
「仕方ないだろ。あいつに呼ばれなかったんだから」
呟き、逃げるように低い天井を仰いだ。
ラルズとの身分差を痛感したのは、ここ一年の間である。
王都へ参上した時は、先生を贔屓にしてくれたルーウェン王は亡くなっていたし、他の騎士と同列の扱いを受けた。
当時の俺は面会を申し込めないほどに立場が弱かった。
……いや、違う。
何度言い訳してきたのか、情けない。
俺と違ってラルズは時折王都に戻っていたが、当時はあまり気にしていなかった。
彼女がどんな身分でも、修練場で俺たちは対等だったからだ。
だからこそ、現実を目の前にした時に俺はショックを受けてしまった。
俺は呼ばれる人間であって、あいつは呼びつける人間だ。
そう考えた自分が不甲斐ない。
俺はラルズが引き籠ってしまったことに責任を感じている。
今まで無茶を通して生きてきた俺が面会を希望しなかったら、ラルズはどう思うだろうか。
あの追い込まれた精神状態だ。
魂影が顕現しなかったことで俺たちにまで蔑まれているとか、有り得ないことも考えてしまうだろう。
ふと、対面から重苦しい視線を感じた。
俺は観念してリックと目線と合わせる。
彼はまだ俺をいじめたいのだ。
「一言交わせば解ける誤解も、君と殿下はひとしきり殴り合う工程を踏む必要があったから、不器用なのは重々承知さ。でも、似てるからこそ、分からないものか? 殿下もまさか君が身分の差に怯んでるとは思わないし、何で来てくれないの、とお考えだったんだろ。――って、もう百は言って聞かせたはずだけど」
確かに、耳にたこができるくらい繰り返された説教だ。
それに今日ほど辛辣な声色を放たれたことはなかった。
俺はぐうの音もでずに髪を掻き乱した。
その瞬間、無数の馬蹄が風に乗って幕舎まで入り込んできた。
間髪いれずに見慣れない兵が顔を出す。
俺とリックは訝し気に顔を見合わせて立ち上がり、表に出た。
案内されたのは一際大きい絹織りの幕舎だった。
主に戦術会議で使用されているので、設置された黒の長テーブルにはここら一帯の地図が敷かれていた。
そうそうたる顔ぶれの指揮官に一礼する。
その中に、俺の見覚えのない熟年が居た。
男は不敵な笑みを浮かべて歩み寄ってくる。
「そなたがリウスの後釜、スピライトか。大層な武勲についてまわるのが十六の若造だと聞いて、熊のような大男に違いないと戦々恐々としていたが……。これまた、負けん気の強そうな男前だな」
熟年は老いによって灰色になった髪を揺らし、よく手入れされている顎髭をさすった。
なぜか嬉しそうにする熟年に対して、俺の困惑は晴れそうになく、顔を強張らせてしまう。
わかりやすく不躾な態度をとってから、この幕舎にいるのだから相応の人物なのだろうと鈍い思考を働かせた。
「ええと……あなたは、誰でしょうか」
心の中では挨拶を整理して用意したのに、口から出た言葉はたどたどしく、無作法なのは隠しようもない。
ほう、と男が目を細めると、背後のリックが慌てて口を挟んだ。
「申し訳ございません。この者は森深くの修練場で育った身の上ですので、世間知らずといいますか……もちろん、敬いの心は持ち合わせているのですが、行儀が追いついておりません」
……こいつは、変わり身がうまい。
そもそも俺と違ってきちんと王女を敬い、かしずいていたのだ。
つまりこういう場においては、リックと俺の立場は逆転する。
頭を下げたままのリックに、男は「怒ったわけではない」と安心させるように前置いた。
「私は南東領土を預かり、海岸地帯の城に駐屯していたので見慣れぬとも無理はない。しかし他大陸の魂影国家を牽制する余裕が失われた以上、今後は顔を合わせることになるだろう。申し遅れたが、私はフォルド・ブランシュだ。過去、リウスは私の騎馬隊に所属していた」
その名前には聞き覚えがあった。
俺はようやく頭を下げて、リックは胸に手を当てて敬意を示した。
大陸外の魂影国家の睨みを任されている人物の権威は宰相に匹敵する。
アルドロ王国において海岸地帯は重要拠点だ。
なにせ敵は海竜を率いているので、海戦では絶対に勝てない。
つまり、こちらとしては防衛することしか許されないのだ。
そんな重要拠点を任されている大物が、負け戦に部下を率いて現れたのか。
「そう畏まらなくてもいい」
笑いながら言ったフォルドは、指揮官たちをずらりと見回した。
「そなたの武勲に智略はなく、この場でも得意ではないと聞き及んだ。だが獅子を従え、竜を屠れる勇者が隊を率いていないなど冗談にもほどがある。老婆心ながら、他の獅子に踏みつけられているのではないかと思ってな」
こんな物言いをされては、もちろんここにいる指揮官はたまったものじゃない。
急ぎ訂正しようと言葉を選んでいる最中に、リックが言上した。
「閣下。お言葉ですが、スピライトは戦術を練るどころか、上官の命令に従うことも難儀するというありさまです。初陣では竜を殺し、騎馬を百は沈めましたが、それは短気な彼が隊から離れた単独行動であり、命令違反の結果です。それを武勲とし、名誉を与えてくださった指揮官どのには敬服いたします」
まくしたてたリックに、俺も「はい」と乗っかった。
紛れもない事実だ。
規律を乱す俺を処罰するのは簡単なのに、ここにいる者たちは功績にしてくれている。
フォルドはしばし俺たちを見定めた。
すると真実と見抜いたようで、指揮官たちに振り返った。
「そなたたちの名誉を穢そうとしたことを深く謝罪しよう。いやはや、老いとは怖いな。目は曇り、つい若者をかわいがってしまう」
一番の権力者が頭を下げれば、指揮官たちが咎めることはなかった。
……もう俺が居ても邪魔になるだけだろう。
退出しようとすると、「待て」と静止される。
「会議に出席し、己の脳みそを働かせて思考するがいい。思えば十六の若輩に智略まで期待するなどとどうかしていた。優秀な兵には、まず学ばせる場を作ってやらねば」
フォルドの決定にこの場にいる者は誰も反論しなかった。
そもそも彼らにしたって、俺が隊を率いるに値する人間であればと心底思っている。
しかし命令違反を繰り返す男に部下を与えても、違反する兵が増えるだけである。
俺とリックは目を見交わせるとフォルドの背後霊となり、会議に耳を傾けた。