第8話「別れの夜」
王都に霊園は、城下町、三層、八層と三箇所にある。
規模でいうと八層は一番小さいが、溢れ出る気品がある。
八層で眠ることを許される人物は限られるが、数々の武功を残した初代【獅子剣の主】がこの場所以外にいるとは考えられない。
緑が生い茂る庭に、白の墓石が立ち並ぶ風景は圧巻だ。
しかし師は、堅苦しい貴族と眠るのは嫌がりそうだ。
想像すると、ラルズは少し笑った。
ここはおいそれと立ち入ることを許されない上に、今は深夜。
人目につく心配はないと考えていたのだが、驚いた。
人が居た。
それも数は二人で、二頭の馬が彼らの姿を覆っているので顔まではわからない。
師の名前を探すところから始めるつもりだったのだが、出鼻をくじかれたラルズは困ったように眉を寄せた。
ラルズの姿を見た者の反応は様々だろうが、そこに善の感情があるとは思えなかったのだ。
だが、心の奥底で眠っていた豪胆なラルズが、ようやく起き上がってきた。
恩師への別れ際に、王女殿下が他者にびくびくして機を窺うなんて、それこそ師はがっかりするだろう。
開き直ると楽になり、馬を進ませた。
そして墓石を探し始めてすぐに、その必要はなくなった。
霊園にいた男たちがラルズに気づき、こちらに目を向けたからだ。
「ラルズか」
ラルズを呼び捨てにし、敬う素振りを見せない男は一人しかいない。
闇に溶け込む黒の髪は長くも短くもなく、空色の瞳は暗闇では鋭さを増した。
一年前まではあどけなさが残る顔つきだったのに、たった一年で勇猛な戦士に変貌している。
ラルズの背も低いほうではないが、それでも彼とは見上げるほどの開きがある。
日中に王女の部屋を破壊しつくしたスピライトを前に、萎縮することに慣れてしまったラルズはこそばゆい心境だった。
「ラルズ殿下、お久しぶりです」
スピライトの隣では頭を大きく下げる男がいた。
長い銀髪は月明かりを吸収し、艶感を強調している。
リックとは、ラルズも心中を吐きだせる間柄だった。
獅子のスピールズも、ドランと離すのが可哀相だったので、ラルズは単身で王都へ向かったのだ。
魂影の儀式を行なうにあたって獅子をそばに置くほうが体面を保てたのだが……。
当時のスピライトだけがご満悦な表情を浮かべていたのが癪で記憶に残っている。
「僕は先に失礼させてもらいます」
リックは気を利かせたように馬に飛び乗った。
彼はラルズが引き止めるよりも先に霊園から去っていった。
急に二人きりになったことで体に熱を帯びるも、肝心なときに夜風は吹かず、火照った体を冷却してくれることはなかった。
「何やってんだ。まさか馬から降りられないほど、か弱い女になったわけじゃないよな」
言われて、ラルズの中で止まっていた時間が半ば呆れるように動き出した。
地に足をつけると、墓石の前で胸に手をあてて、黙祷する。
謝罪と感謝を心の中で存分に伝え、師のやすらかな眠りを祈ると、目を開けた。
「今日は、ごめんなさい」
開口一番に、謝った。
上目を使って彼を見ると、青い目を丸くして唖然としていたのが気に障る。
「何よ」
刺々しく言ってしまったが、スピライトは少し笑っただけだった。
「いや、お前に謝られるなんて初めてだったからな。俺は喧嘩して殴りあった後は結構、謝ってたけど」
「わたしも当時は森での生活が長かったし、先に殴りかかるような気性だったから気にしなかったけど。あなた、実はとんでもないことしてたのね」
「そのうち俺が罰せられると思って、仲良くしてくれた奴は少なかったな」
未来の女王の顔面に殴りかかれる男はネージュフェルト大陸広しといえど、スピライトぐらいのものだろう。
今も、この男は思い出し笑いをしている。
無論、さすがのスピライトもラルズが手を出さない限りは堪える度量があった。
きっと、ラルズが自分より弱い者には手をあげないのと同様に、彼も一定のルールを敷いていたのだろう。
女だろうが殴られたら殴りかえす……的な。
そんなスピライトだから……。
謙られることが苦手だったラルズが友となり、家族となり、唯一、女になれる相手だった。
その彼は、唐突に言った。
「ラルズ。お前ろくに剣を振ってないだろ」
びくりと、様々な思いがラルズの中で錯綜して身を震わせた。
一番の心配は、幻滅されてしまったのかと思ったのだ。
スピライトは強引にラルズの腕を掴んで、たぐり寄せるようにして凝視した。
「筋肉が減って、まあ、女らしくなったもんだ。男勝りの女だったし、均一がとれたような気もするけど」
口を開けば失礼な言動をとる相手だ。
ラルズも次第に昔に戻り始め、弾くようにして腕を振り払った。
品定めするように目を細めて、スピライトを眺める。
「あなたは、少し背が伸びたかな」
本当は格好よく、男らしくなったと褒めたかった。
しかしラルズは自分が素直じゃないことを悲しいほどに承知していたので、これでも精一杯含ませたつもりだった。
しかし別段、スピライトは含みを受け取ったように思えない。
「お前も伸びただろ」
そっけなく、そう言っただけだった。
ラルズが吐いた息は、溜息と捉えられてもしょうがないほどに長かった。
次にスピライトは「そうだ」と思い出したように口にした。
「先生が死ぬ前に、稽古で一本とったことがあるんだぞ。お前はどうせ、知らなかっただろ」
「……嘘よ」
「ほんとだっての」
自慢するようだったが、真実だったら賞賛に値する。
【獅子剣の主】と称されたくらいだから、リウス・プレヴィアは剣技において天才だった。
齢五十を超えても衰えを知らず、師の剣技はどこまでも上り詰めていくようだった。
そんな強豪に、十五歳そこらの男が勝ったという。
それはもう、天才などという言葉で賞賛する領域を超えている。
でも、常人なら信じようもないが、それがスピライトなら不思議と頷いてしまう貫禄はあった。
「結局わたしは、一度も勝てなかった」
「お前は天国へ行く為の酒を蓄えてたから、あの世で手合わせすりゃいいさ」
「……何の話?」
「悪い。こっちの話だ」
自重するように口を結んだスピライトに首を傾げる。
よくわからないが、勘違いが生じていることはわかった。
今、ラルズが勝てなかったといった対象はスピライトだ。
魂影の担い手になった暁には、【獅子剣の主】の称号は戴く予定だった。
しかしやはり、スピライトが【獅子剣の主】を掲げるほうがラルズの中でもしっくりくる。
しばし無言の時が流れて、ラルズは口を開いた。
「今、戦況はどうなってるの?」
これまた情けないことに、ラルズを刺激しないようにと、何も伝えないことを徹底されていた。
これが多々あるストレスの中でも大きな割合を占めている。
スピライトは質問に対して、淡々と言った。
「国境付近にあった最後の都市が制圧されたのがひと月前だ。今じゃもう、アルドロ王国の北部領土はヴェルト平原までと、随分減ってるんだ」
師が亡くなった頃だろうか。
ヴェルト平原は広大で、北から南までおよそ千フェルードの距離がある。
とはいえその中心にここ、王都シュテルンヴァイスが存在するのだ。
正直ラルズの戦況予想は大きく外れていた。
帝国の進行はいささか早すぎないだろうか。
怪訝がって顎に手を置くと、スピライトは気づいて疑念に答えてくれる。
「国境のトライド山脈は万年雪だから、半年は何とか敵の進行を食い止めてた。けど、次第に帝国が掌握した都市を拠点に兵の輸送を安定させて、ついに前線が決壊したんだ。更には、ヴェルト平原の北部城を治める城主が竜に寝返った。俺たち敗残兵は城を追い出されて、命からがら王都へ帰還ってわけさ。ルーウェン王に獅子の心がどうたら説いてた奴らなのに、笑えるだろ」
蔑み笑いを浮かべたスピライトに気の利いた返事はできそうにない。
ヴェルト平原の北部がすでに帝国の手中にあるとすれば、
「待って、帝国軍は今、どこまで……」
「王都を攻めようとすれば、すぐ手の届く範囲にはいるだろう。でも、王都は城塞として一級品だし、攻城のために山を越えてくる帝国兵が集まるのを待ってる。寝返ったアルドロ兵が大多数を占める軍隊を動かす度胸はさすがにないだろうさ」
スピライトが言うには、休戦明けからアルドロ軍も、敵の海竜をかなり殺しているようだ。
それが膨大な犠牲を払った結果だとはいえ、帝国も空襲に頼りきりにするのを危惧したと見える、とのこと。
「まあ、さすがに俺たちも受け身を取り続けるわけじゃない。次の戦はこっちから仕掛ける。と言いたいところだが、精鋭の兵士たちはこの期に及んで王都の守護を続けるらしい。出兵するのは敗残兵の俺たちとヴェルト平原に残った城の兵だけだから、戦争というより、削りにいく感覚だな」
めちゃくちゃだ。
もはやここまで来て、アスレーヴェの心変わりを待てるほどラルズの気は長くない。
誰に何と言われようと戦場に赴かねばならない。
どうせ散る運命なら、仲間と共に、勇猛に砕けるべきだ。
「次はいつ出るの?」
「夜が明けたらだ」
「……あ、明日ぁ!?」
「ああ」
頑なに情報を解禁しなかった宰相に怒りが募る。
が、それとは別種の怒りの感情が、ラルズの胸で暴れていた。
それにしても、何なんだこの男は。
スピライトは、これが最後の別れになるかもしれないというのに、ここまで淡々と、淡白でいられたのか。
そして、ラルズは思った。
(……もしかして、わたしの一人相撲なの……?」
怒りがすっと冷めると、今度は恥ずかしくなって赤面に変わり、最後は心に穴があいたように呆然とした。
訝しむスピライトが「どうした?」とラルズの額を突いたことで、ぱちりと目をしばたいて覚醒する。
「急いで、準備しないと」
馬に跨ろうと身を翻したが、スピライトはラルズの肩を掴んで引き止めた。
その行動にどうしようもなく苛立って、ラルズは跳ね上がった眉を隠しもせず振り返った。
「何なのっ――!」
鈍感な男に怒りと呆れを抱いていたラルズは殺気立ったが、スピライトは至って真顔だった。
「お前は王宮にいろ」
「何でっ、あなたは、部屋に篭っていたわたしに腹を立ててたんでしょう!」
「もう怒ってない。だって今お前は、剣を持ってここにいるだろ」
「そんな屁理屈」
冷たく言い放ったのに、スピライトは一切揺るがない。
それどころかラルズが落ち着くのを辛抱強く待って、子供を諭すように話しだす。
「お前はアルドロ王国の希望だ。いくら剣技に優れていようと、魂影の担い手には勝てないと先生が証明した。もう王家の血が流れてるのはこの世でラルズ一人だし、お前が死ねば、本当の意味でこの国は滅びるんだ」
そんなの分かっている。
父は病にやられ、子を設けることができなかった。
しかしラルズの妊娠は推奨されていない。
魂影の儀式を行えるのはある程度体が成熟してからなので、それまで帝国の攻撃を耐え忍ぶのは現実的ではない。
奇跡が起こって獅子の神が降り立った際に子を孕んでいれば、闘いどころではないだろう。
ラルズとしても、魂影が力を貸してくれる可能性が少しでもあると目に見えるのなら待機するのはやぶさかではない。
しかしそれは泡のような希望だ。
「あなたは、わたしが今さら、担い手になれるとでも思ってるの?」
「いや、俺は正直ダメなんじゃないかと思ってる」
歯に衣着せぬ物言いにラルズはどちらかというと呆れたが、スピライトは続ける。
「でも、可能性があるなら諦めたらダメだ。お前は民から糾弾されても、そんな薄情な奴らの今後を案じてる。その生まれ持った大きな愛は、誰も変わりになれない。でも、折れてしまった牙の変わりはあるんだぞ」
黒馬の鞍に飛び乗りながら言い切った男に、ラルズは性懲りもなく、頬を白桃のように染めた。が、
「――って、先生が言ってた」
真っ白な肌に戻るのは早かった。
少しうつむいたラルズに、スピライトは背を向ける。
彼はそのまま強い声色でこの場を閉じた。
「ラルズ。お前の牙の変わりは、俺で充分だろう」
最後に優しい目元をさらして、スピライトは颯爽と去っていった。
そこに漂う哀愁はなかったのに、ラルズは目を伏せた。
(そんなことを言われたら、動けないじゃない……)
誰よりも強い男にここまで言わせてラルズが動けば、それは裏切りにも似た行為じゃないだろうか。
でも、スピライトの離れゆく背中を目で追いかけながら考えたのは、そのような理屈ではなかった。
何故、これが最後になるかもしれないのに、想いを伝える勇気と可愛げのある心が、自分にはないのだろうか。
愛馬に跨り、師の墓石を一瞥すると、ラルズは霊園を後にした。
ようやく夜風が吹き始めた頃には、体はすでに冷え切っていた。