第6話「兄妹 後編」
本来は執務室だった部屋。
ソファーに腰を下ろし、テーブルに置いた酒をあおっている男は俺より一つ年上で、少し高い背丈をしていた。
彼の銀髪は妹より短いが男としては長く、襟足を肩にまで垂らしていた。
燃えるような赤い瞳に闘志はなく、揺れて波紋を作る酒しか映っていない。
中性的な顔立ちだが、衣服に覆われていない腕はよく鍛えられている。
それを見れば男だとはっきりわかるが、特徴がなければどうだろうか。
彼は頬をだらしない赤に染めながらこっちを見て、手をぶらりとさせた。
「おかえりスピライト。共に持てるだけの酒を持ち、天国へ旅立とうじゃないか。リリイ、酒を用意してやってくれ」
……なぜ俺まで死ぬことになっているのだろうか。
しかし「はい」と返事をしたリリイは兄を窘めることはしないようで、そそくさと部屋を後にした。
彼女のことだ。気を利かせてくれたのだろう。
「最後の晩餐はやっぱり君と決め込まないとね」
調子のいいことを言って酔っ払うリックに、皮肉で返してやる。
「ラルズに叱咤されるまで俺をはぶにしてた張本人が、よく言えるな」
はは、と笑ったリックに、俺も軽く笑みを浮かべた。
「僕は君が修練場にくる二年前から鍛錬してたのに、数日剣を振っただけの年下にこっぴどくやられたら、そりゃ七歳の子供は面白くないさ。付け加えて君は無限に難癖をつけれてしまう奴だったしさ。それよりも、七歳の僕が心を入れ替えた早さを褒めたい。僕は子供の頃からできた人間だったと思うよ」
「……まあ、お前にできた妹がいることには感謝してる。リリイがよくしてくれるから、生活力が皆無でも何とかなってるし」
「なんで妹にしか感謝の気持ちがないんだ。君を家に招いたのは僕なんだけどね……」
ふん、と子供のように鼻を曲げて酒を飲むリック。
これでも俺が一番の信頼を置く人間……というより、俺が友人と呼べる人間は少ない。
リックはしきりに杯に口をつけながら、「ああ」と思い出したように目を上げた。
「その妹、リリイのことだけど、どう思う?」
は――と、目を細めて訝しむが、リックは平淡だった。
「どう思うも何も、いい子だろう」
「そうじゃなくて、嫁にしたいとか思うか?」
「酔いすぎだぞ。俺はお前の妄言だと片付けるから構わないが、こんな兄の采配で嫁ぐことになったらリリイが哀れだ」
そもそも、嫁だとかそんなことを考える時間はもうないだろうし無用な心配だ。
しかしリリイはいい女の条件をすべて揃えている。
リックの一言をいいことに貴族が手を出す可能性もなきにしもあらず。
「違うって、君に訊けってリリイがうるさいんだ。じゃないと酒に毒を混ぜるとか言いだすし……。あれ、これって言ったらだめなんだっけかぁ」
とろんと据わった目で酒を持つ男はいよいよ、踏み込んではならない領域に突入したらしい。
話半分に聞く俺を無視して、延々と語り続ける。
「最初はなーんも思ってなかったみたいだけど、初陣のときにさ、リリイも弓兵として前線に出てただろ。竜が後衛を荒らしに来て、矢は鱗を通らないし、さすがにもうだめだって思ったらしいよ。そんな中で剣を片手に竜を殺す男を見れば、親愛が恋慕に変わるのも無理ないのかもね。まあ、リリイは見てくれはいいけど、やめといたほうがいいよ。ああ見えて猫かぶってるだけだし、二人だけの時なんて――」
瞬間、ゴツッと鈍い音が鳴った。
音の発生源はリックの頭部で、鉄の杯が派手に彼の額を叩き割っていた。
恐る恐る振り向くと、冷笑を浮かべるリリイの姿があった。
「お、おい。こんな奴でも脳みそは必要だし、頭が割れたら死ぬぞ……」
「天国へ逝きたいなら、お酒を飲むより獅子の餌になるほうが近道だと、スピライト様もお思いになりませんか?」
ぶるりと震えてしまい、言及することは敵わない。
リックが息を吹き返すことをそこそこに祈って、リリイが用意してくれた夕食を取るのだった。
食事を終えると、俺はリックの住処から外に出た。
そのまま坂道まで歩み寄り、柵にもたれかかる。
シュテルンヴァイスの建造物は白色の輝きを帯びて鮮麗だ。
それでも俺は、アスレーヴェの森に差し込む月明かりや樹木の香りが好きだった。
しかし、この満天の星空だけは別だろう。
限りなく天に近い高度から見上げるとなんだか星さえも掴めそうだ。
「いてて……」
ふいに、頭に包帯をぐるりと巻いたリックが姿を見せた。
彼は痛みに耐えるように顔をしかめながらも俺の隣に並び立つ。
「明日にはここを発って馬を早駆けさせるのに、シャレにならないぞ……これは……」
「リリイからすれば、もうシャレで済まないことをお前は面白おかしく口走ったんだ」
ハン、と鼻を鳴らしたリックに反省の色は見えない。
「僕だって、酔狂で口にしたわけじゃないさ。若干、本気で口走った節はあるよ」
「本気なら問題だな。明日にはここを発って、天国に逝くんだろ?」
というか別に、俺は嫁をもらうことなんて考えていないのだが……。
気づけばリックは途端に真剣な眼差しになっており、果てが見えないヴェルト平原を見つめていた。
「自分が死ぬと思ってるのに、妹が生き残る希望をどうやって抱けばいい。でも、君が守ってくれるなら別だ。戦いの最中に馬で消え去って、ひっそりと暮らすくらいは現実的じゃないか」
「敵に背を向けて逃げろっていうのかよ」
言いながら先生の最期を思い出し、どの口が言うのかと心で自嘲した。
「そうだよ。でも僕が君の立場だったら絶対にできない。だからやっぱり酔狂だな。そもそもリリイが戦に脅えるような妹であれば、もっと可愛げがあるはずだし。――まあ、開き直って、共に死にゆくまでか」
リックの瞳に闘志が宿った。
結局のところ、答えはひとつなのだ。
しかし俺は分かっているのに更なる安心感を欲しがり、侮辱ととられても仕方ないことを訊いてしまった。
「ラルズを恨んでるか?」
「まさか」
即答したリックの忠義に申し訳なくなる。
彼は「まあ、リリイはどうだか分からないけどさ」と付け加えて続けた。
「民が悪いんだ。竜に脅えたルーウェンの娘はアスレーヴェに見限られたなんて、バカらしい。殿下はこの糾弾の中でも剣を取りたいに違いない。でも、自分が表に出れば混乱を招くだけだと己を押し殺していらっしゃる。手のひらを返して悪態をつくのが獅子の国の在り方なら滅びてしまえばいいと、最近はよく思うよ」
リックは一際鋭い眼光で吐き捨てた。
ルーウェン王はラルズが十五歳になる前に亡くなった。
その後――ラルズが魂影の誓いを立てるも、獅子の神は降臨しなかったのだ。
その事で、アスレーヴェを崇める教会の人間がアルドロ王国から離別した。
万を超える教会騎士が国から消え、アルドロ王国の戦力は激減する。
更には重臣の一人が帝国側に寝返ったのをきっかけに、サーライン帝国が休戦を解いた。
敵が本格的な侵略に乗り出してからは、およそ半年になるだろうか。
今日、腹を立てて王宮に乗り込んだのは、先生の追悼式にすら出られないラルズがあまりにも痛々しかったからだ。
皆に会わせる顔がないとか、きっとあいつなりに考えたんだろう。
でも――俺たちまでラルズを非難すると思っているのかと、切なくなったのだ。
先生は戦地でもよく言っていた。
『ルーウェン王は素晴らしいお方だった。獅子の牙は持たなかったが、愛を備えていた。ラルズ殿下は両方を備えているが、時に牙は折れることもある。その時は我らが牙となればいい』
俺たちの牙はきっと、竜の爪に比べれば貧相なものだ。
でも、闘うのだ。
そこにあるのが死だとしても――、
「皇帝、クラーク・オールディス……」
確固たる殺意を重い声に乗せて、風と共に飛ばした。
師への土産は奴の首を。
敵わぬなら四肢を。
四肢がだめなら指を。
それもだめなら爪を。
鎧を。
何一つ手傷を与えられなかったら、怨霊になって呪ってやる。
先生を殺した、魂に竜を宿す男を。