第4話「過去」
時は四十年ほど遡る。
広大なネージュフェルト大陸。
そこは中部に連なる山脈より南半分は常夏、北半分は雪世界と二極化する気候にあった。
その南を領土とする大国はアルドロ王国であり、通称は獅子の国だ。
対して、北の国々を戦によって束ねたのは、竜帝国とも呼ばれるサーライン帝国。
太古から争っていた王国と帝国だったが、決着がついたことは一度もなかった。
その原因は、両国の境目にある万年雪のトライド山脈である。
アルドロ王国は暖かい気候から家畜と作物がよく育つ豊かな国だったが、永遠の冬に覆われた帝国領は食糧不足が深刻化していた。
帝国の特色である海竜は貴重な戦力だが、飢えて死ぬというみじめな最期を迎えることも多々あった。
雪原戦闘に慣れないアルドロ軍と、十分な糧食を持たない帝国軍。
帝国は海戦に重きを置いていたので、国境付近では小規模な争いが続いていた。
しかし変化が起きる。
サーライン帝国はとうとう北部全ての国を併合した。
そして国境とはいえ、雪山は帝国の領域。
トライド山脈に数多の道を築き上げると、全勢力を投入した。
隙をつくような帝国の強襲から、戦争はさらに激化する。
両者の一歩も譲らないせめぎ合いは、今度ばかりは獅子か竜が絶滅するまで終わらないと噂されていた。
三十年にも及ぶ熾烈な争いの末、アルドロ王国の国王は次々と戦死し、代替わりした。
ここでまた変化が起きる。
残った血筋である『第七十五代国王ルーウェン・アルドロ』がいた。
彼は、王族が掲げた「いかなるときも雄々しい獅子の心を持て」「竜に屈することは許されない」という信念を曲げ、帝国に休戦を訴えかけた。
国境沿いの領土を幾ばくかサーライン帝国に譲渡するという決定に、アルドロ国民は声を荒げた。
「竜に屈するのか!」
と、王を臆病者と罵る者も多かったが、王の決定は変わらず、一応は休戦が結ばれた。
そして、休戦後。
先の大戦で数々の武勲を立てた男がいた。
彼はリウス・プレヴィアという壮年の剣士だった。
まずルーウェン王は【獅子剣の主】という名誉を与えたが、これには重臣たちが黙っていない。
「武芸においては王が絶対的でなければならないという慣習を自ら否定した上、王家の宝剣を差し出すなど常軌を逸しておりますぞ!」
諫言は王の耳に入ってこなかった。
武人としての才に恵まれなかったルーウェン王は開き直っていたのだ。
「私程度の剣技では獅子剣を腐らせてしまう。そうなれば、獅子の神アスレーヴェが黙っておらん」
と言われれば、臣下もそれ以上は口を出せなかった。
アスレーヴェとは、アルドロ王国の守り神だ。
それは偶像ではなく、確固たる存在として顕現するのだ。
王族の魂に宿るそれを、魂影という。
魂影の担い手、と呼ばれる資格を有するのは王族の血縁者だけ。
担い手の肉体が全盛期を過ぎれば力は失われ、次に魂影の誓いを立てた子供に受け継がれていく。
体がある程度熟していないと儀式は行えず、基準は大体十五歳前後だと言われている。
サーライン帝国では海竜シーベルクが守り神として崇められている。
帝国の皇帝である魂影の担い手も、海竜の神シーベルクをその身に纏い、戦うのだ。
その力は絶大で、相手の血筋を絶やしたほうが勝利するのは自明の理であった。
担い手の消失は国の滅びに直結する。
それを物語る一幕として、傑物の担い手同士が激突した都市は吹き飛び、二人の闘いの余波で数十万の犠牲が出たとも伝えられている。
しかしルーウェン王は担い手であるのに、武術に秀でなかった。
だから最後の最後まで担い手として任命されなかったのだ。
アルドロ国民は次の国王に期待するしかなかったが、次なる魂影の担い手については国家機密であった。
騎士階級ですらルーウェン王の娘であるラルズを知らなかった。
それに、まさか子供が一人しかいないとも思っていなかった。
危機的状況を把握していた重臣たちは休戦に賛成した者も多い。
帝国に勘付かれる前にルーウェン王がたくさんの子を作り、再び王家の血を再興させればいいと。
なので、戦争を望まない王の意向に、ひとまずは宰相も口を挟まなくなった。
しかしさすがのルーウェン王も、【獅子剣の主】という称号を与えたリウスが平民では面倒事が多くなると、褒美として由緒正しき家柄の嫁や金品を用意した。
それをリウスは恭しく断り、願望を一つだけ口にした。
「余生は、我が身を救い育んでくれたアルドロ剣術に捧げたい。兵士を引退し、隠居することをお許しいただけませんか」
その心意気に国王はいたく感心し、条件付きで承諾した。
それは、資質に恵まれた子供にも剣を教示することだった。
獅子の神が眠ると言われるアスレーヴェの森に修練場を築きあげると、将来有望な貴族の子が送り込まれることになった。
そこにはルーウェン王の娘であるラルズの姿もあった。
民から糾弾されたルーウェン王は一人娘を避難させる思惑だった。
そして自分とは違い、未来の担い手として民からの信頼を勝ち取れるようにと願っていた。
そしてラルズは、ルーウェン王から武芸の才をすべて吸い取って生まれてきた天才だともてはやされるようになる。
ラルズが修練を積み始めて一年になり、六歳になったある日のこと。
リウスもすっかり剣の師であることが板についてきていた。
そんな彼は弟子たちから「就寝中に竜が襲ってきても顔色ひとつ変えないだろう……」と、噂されるほどに常の勇猛さをふるっていた。
しかしこの日――、
リウスが瞠目するところを皆が目撃することになる。
アスレーヴェの森に築かれた修練場に、六歳程度の少年が迷い込んできたのだ。
少年の黒髪の下にある青の瞳は鋭く、見慣れない衣服で身を包んでいたが泥だらけになっていた。
げっそりと痩せた少年は口を動かしたが、
「――……――……――」
「言葉を知らないのか」
教養がないのはボロボロの風貌から見え透けていたが、リウスはただ驚いた。
修練場は飢餓した少年がおいそれと訪れることのできる場所ではなかった。
「一人で抜けてきたというのか、このアスレーヴェの森を」
ここは獅子の森と渾名されるほどに、獅子の群れがひしめいている。
いくら獅子を守り神として崇めていようが、この森に巣くう獅子には関係ない。
こうべを垂れる人間など餌とみなし、容赦なく食らいつく。
リウスは少年から煥発する天質を嗅ぎつけた。
すぐに受け容れる用意を始めるが、無論、周囲からは反対の声が上がる。
「素性の知れない者を姫さまの傍に置き、剣を教示するなど――」
しかし、リウスのひと睨みで弟子たちは黙り込んだ。
「私は貴族の子供ではなく、才ある若き者に剣を教えろと王より命を授かったのだ。だがそうだな。少年よ、ひとつ誓いを立ててくれ」
「……?」
言葉が理解できず、要領を得ていない少年にリウスは語りかける。
「私はお前が立派になるまで飯を食わし、剣を教えると獅子アスレーヴェの名のもとに誓おう。そしてお前はアルドロ王国に忠誠を誓う。どうだ?」
「――――」
この時の少年はとにかく頷けば、空腹で悲鳴をあげる腹を満たせると思っていただけだった。
しかしこの誓いは、日々を過ごし、言葉を知る度に少年の心に残る。
破っても呪いが降りかかるわけでもない、ただの口約束だというのに。
リウスはどうせ少年には親もいなければ名もないと考えた。
いい名をつけてやろうと思考に唸りだしたのだが、少年はリウスがはっきり聞き取れる言葉を発した。
「ふむ、スピライトか。よかったな、私の考えていた名前よりよっぽどいい」
この日から、修練場で飛び交う会話は変貌した。
同年代で姫さまに敵う者はいないという声は聞かなくなった。
代わりに、修練場でスピライトに敵う者はいないと噂されるようになる――。