第20話「王都 後編」
「ラルズ殿下」
リックは王宮に馬で乗りつけてきた。
ラルズを呼んだ声音から苦しさを感じさせる。
馬の手綱は彼の妹が握っており、馬から降りるときも衛兵の手を借りていた。
体中を痛めている動きに、ラルズは思わず自分から駆け寄った。
その時、一頭の獅子がラルズに飛びかかった。
「スピールズ! 無事だったのね」
唸ってラルズの顔を舐める獅子の頬を撫でていると、彼の青い瞳から漂う悲壮感に気づいてしまう。
その背後で痛々しそうに膝をついたリックと、それを支える妹に、ラルズは跳ね起きて衛兵を呼んだ。
「すぐに医者を連れてきて」
「いえ、ラルズ殿下。私は大丈夫です。それよりも――」
「だめよ。手当てしながらでも話はできるわ」
リックが頭を下げて返すと、衛兵は椅子を運び入れて医者を連れてきた。
できることなら宰相を含む全ての人間を追い出したい。
しかし彼の報告が戦局に影響するかもしれないとラルズは我慢し、話を聞いた。
その五分後。
ラルズは疲れた表情であごに手をやって、思考の彼方にいた。
「そんなの、めちゃくちゃじゃない……」
スピライトを最後に目撃した兵がいたそうだ。
リックが聞き伝えにした情報は、この場にいる者はもちろん、彼をよく知っているラルズですら唸るものだった。
「にわかには信じられませんが、私が気を失っている間の詳細に齟齬がないので……それにスピライトなら、まあ、ありえないことでもないでしょう」
先ほどまで脱臼していた肩を押さえ、リックが苦い顔で言った。
「殿下、そのような人伝ての話を信用してはなりません。皇帝を退け、竜にしがみついて空まで追いかけたなど、名誉のために盛りたてているに違いありません」
沈黙を命じたはずの宰相はいらない口を挟んでくる。
「あなたはスピライトを知らないから想像できないだけよ」
「わかりました。仮にそうだったとしましょう。それで、どうなさるおつもりか。暴れた竜は彼方へ飛び去ったそうですが、死体を回収するのに、この状況下で兵を動かすと?」
ラルズ一派は沈黙するが、もちろん、頭の固い人間を説得するのが面倒なだけだった。
そんな中で、リックが口を開く。
「殿下。あのスピライトが竜に食われて死ぬなど考えにくいことでありますが、さすがの彼も、無傷で地上に降り立ったとは思えません。帝国軍が押し寄せる前に、彼を捜索する兵を何人かお貸しください。それが適わなくとも、私たちに許可をいただければ文句もありません」
妹とともに頭を下げるリックに、ラルズが反対するわけもない。
むしろ、自ら出向きたい。と考えて悪くないと思った。
「わたしも行くわ」
これにはさすがの兄妹も目を丸くしたが、そんなこともよりもうるさいのは貴族たちである。
「なりません! 殿下の身に何かあれば、アルドロ王国の長い歴史が潰えます!」
心底そうは思っていないだろうに、宰相は怒鳴り散らしていた。
「ここまできたらもう隠れてる場所なんてないし、その気もないわ。王宮の瓦礫に埋もれて死ぬなんてごめんよ」
「まさか、そのような事態には陥りません。殿下は私とともに、南方の城塞へ南下してもらいます」
「……は?」
思わず半開きになった口からすっとんきょうな声がもれた。
「殿下を戦地に置くわけにはいきません。すなわち、戦場となる王都にいてもらっては困るのです。殿下さえご無事であれば、籠城の末に王都が陥落したとしても、クラークの圧政に不満を持つ北部と提携することも――」
「ちょっと待ちなさい。あなた、何を言ってるの」
「至極真っ当な意見です」
「……そういう汚い魂胆が透けているから、頭上で見張りの竜が飛んでいるのよ」
「なに、殿下を装った女を各方面に散らし、竜を引きつけたところで、我らは逃亡兵を装って南へ――」
「そんなことに言及したんじゃない!」
「ひいっ――」
胸倉を掴んでひとしきり睨んだあと突き飛ばすと、宰相はようやく黙り込んだ。
殺気立ったラルズから誰もが一歩引く。
しかしリックは逆に説き伏せるように、沈着な声で言った。
「お言葉ですが、私もラルズ殿下がスピライトの捜索に行くのは間違っていると、そう思います」
「あなたまで、なんで」
「スピライトは確かに、兵たちに希望を与えていました。しかし民の希望になりえるのは殿下だけでございましょう。上からものを言うようで恐縮ですが、殿下が胸壁に立ち、剣を振るえば、獅子の心は野に留まり続けます」
リックは友と接するように笑いかけた。
「私も先日まで、勘違いしてました。各所で狸が獅子に化けているのでややこしいことこのうえないですが、まだまだこの国も捨てたものではありませんよ。必ずスピライトとともに帰還しますので、それまでご辛抱を」
リックはさりげなく、宰相を冷たい瞳で一瞥した。
そして最後にラルズと向き合って恭しく頭を下げると、スピールズに目を向けた。
「ラルズ殿下を頼むぞ」
「グオォ」
スピールズはドランと別れを惜しみながらも、ラルズの傍を離れなかった。
リックは薄ら微笑むと、妹と共に馬に跨り、王宮を去っていった。
その背を見送るラルズに、宰相が懲りずに諫言する。
「ラルズ殿下、何度も言うようですが……」
「戦地から遠ざかる大義名分にわたしを使うのは、もうやめて」
ラルズは振り向きもせずに言った。
そのまま王宮から出ると、空を仰いだ。
海竜が竜傷弓の射程圏外を飛び、ラルズが脱走しないかと監視を怠らない。
救いは王都へ戻る敗残兵と、南からの微力な援軍を追い回さないところだろうか。
警戒しているのか、ちょっとばかし数が増えても問題ないとたかをくくっているのか。
見渡す限りに広がるヴェルト平原の豊かな緑は、じきに燃え上がり、青の香りはなくなり、煙がたちこめるのだろう。
ラルズはスピライトの無事を天に祈るように目を瞑った。
次に開けた時には、ラルズの翡翠の瞳に一年振りの闘志が宿っていた。




