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華夏神話  作者: 芒果 (Mango)
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初恋

人々の意志とは裏腹に季節は巡る。春が続いて暖かい風と心地よい陽気に心行くまで夢見心地にいられればどんなにいいことか。木々が葉を真紅に燃やしながら秋の実りを得続けることが出来れば飢えも凍える冬をも知らずに生きていくことが出来る。


季節は東方の春から始まり四方を駆け巡り、北方の冬で終わりを告げる。天地を創造したころ、女媧は東方の春を青く、南方の夏を朱に、西方の秋を白に、そして北方の冬を玄色に染め上げた。青春とはまさに人生の始まりを指しており、人生の終わりを迎える玄冬まで運命に抗いそして従いその生を全うするのである。


王霊を伴って有熊に戻った軒轅を見て宮殿に集まった一同は驚いた。顔だけではなく全身が傷だらけなのである。それは呉伏も同じで、同行している王霊も頬に大きなあざを作っていた。


少典は何事かと驚き、そして傷だらけの軒轅と警備隊長の呉伏を見るや否や警備兵たちはいきり立った。少典も自分が息子をこのような目にあわされたので怒りが込み上げていた。


軒轅は警備兵たちを制し、父王の前へと行きまずは王霊率いる商族を新たな有熊の一員として紹介すると、王霊は少典へと頭を下げて臣従の意を示した。その後、王霊は大量の鉄を少典へと差し出すと、一同は腰を抜かさんばかりに驚いたのであった。


「お、おい軒轅よ。どうなっておる?大鴻よ、儂はどうにも理解できぬぞ!!!」


「はい、少典様。どうやら軒轅殿は商族を臣従させた上に鉄まで献上させたようです。」


「う…うむ、そういうことのようじゃが、しかし、重明鳥を追いかけて出て行っただけでなぜこのようなことが起こる?」


「父上、この王霊と商族は有熊に臣従し、その証拠として我々が必要な鉄も献上いたしました。この商族の処遇は私に一存していただけませんか?」


「う、うむ、そうか……。まあ、お前がそういうのであればそうするがよい。」


少典は言った。そして驚いている少典の横にいた大鴻は少典に小声で、


「それにしても軒轅殿の面構えが変わりましたな。」


というと、少典はがっはっはと笑い出し、確かにそうだと頷くと、


「軒轅よ、その顔。お前も男前になったぞ。がっはっは。」


と笑い飛ばし、それ以上の詳細は聞かず息子のやりたい様にさせようと思った。


昨日南風を司る禺疆が眠りから目覚めたのか、春を告げる南からの強風が吹いた。その微かに暖気を帯びた南風が次第に暖かくなっていくのを予感させると共に、米の種蒔きまでまだ多少余裕があり兵士が集まりやすいこの時期を見計らって少典は出陣を決めた。


空から太陽が優しく照り付け、春の温かい風に乗せられ蝶々が舞う中で行軍が行われていた。兵士は皆心地よさを感じながらも心中では相柳への恐怖がぬぐい消せなかった。


軒轅けんえんと有熊の領主である少典しょうてんの一軍は、現在相柳のいる場所に最も近い翠清すいせいの地へと向かっており、そこで各部族の軍勢と合流する手はずとなっていた。


「クゥ~。」


という喉を鳴らすような鳴き声が空から聞こえており、時々軒轅の元へと降りていき膏液を餌としてもらっていた。重明鳥も軒轅の行く先へと付いて来たのであった。


重明鳥は悪獣や悪鳥、そして悪鬼など邪悪な存在を打ち払う力を持つというが、商族との一件もあり、不思議を超えて神秘的に感じていたのだ。


相変わらず重明鳥の行く先々では狼や梟と言った悪獣が我先にと逃げ出し、山間部では虎も逃げ出していた。このため、少典達の行軍は野生動物から襲撃されることもなく安全な行軍となっていた。兵士の多くは不思議なことだと思いつつも安全には越したことがないため特に気にも留めずに先へと進んでいった。

 

翠清の都は有熊の都から北西に200里ほど離れた場所にありその領地は有熊と隣接していた。徒歩で三日ほどの行程である。過去には領地の境界線を巡っていざこざを起こしたことがあったが、最近では比較的友好な関係が続いていた。翠清の領主と少典は炎帝の命に従い出陣し炎帝の下で共に戦った気心知れた戦友でもあったからだ。


少典が翠清の都に到着するとまだ他の部族は殆ど到着していなかったため暫く休息をとることになった。少典は翠清に近かったためいち早く到着したのであった。


「おう、久しぶりではないか少典よ!」


有熊の軍勢の中にいた少典を見つけた翠清の領主が少典に声をかけた。二人は久しぶりに会ったこともあり会話が弾み、時間が出来た兵士たちは長旅の疲れをいやすようにその場に座り込んで休息を取り始めた。

 

翠清の都は有熊ほどではないが、それなりの規模を持っている都であり商業も活発に行われていた。都には家が密集しており、多くの人々がそこで生活を営んでいたのだ。


少典は翠清の領主に軒轅と大鴻を紹介した。その後少典は軍や相柳、米など様々な話をするために翠清の領主の屋敷へと行った。軒轅と大鴻は屋敷には入らずに外で手持無沙汰で待っていた。


すると、老婆が一人屋敷から出てきた。小柄で腰が曲がり、顔には深いしわが何本も刻まれているよぼよぼの姿であった。老婆は軒轅を見ると近寄り顔をじっと見つめると、唐突に、


「お主は有熊の倅か?」


と尋ねた。軒轅はどぎまぎしながらそうだと答えると、


「なるほど噂に聞く有熊の小僧はお主であったか、噂通りの男じゃの。なるほど、重明鳥か。ふうん、これは不思議な徳を持っておる。このような人間に生きているうちにで会えるとはのぅ。ふぉっふぉっふぉ。」


と笑いながら通り過ぎて行った。この時、重明鳥は老婆が近づいても軒轅以外の人の時のように威嚇することはなく大人しかった。また、軒轅もその老婆に不思議な力、それもかなり大きな力のようなものを感じ取っており、どういう人物なのか気になった。この時、軒轅の近くにいた大鴻が、


「あの方は有名な翠清の巫術師ふじゅつしでしょう。その巫術により冥界の神託を得ることができると聞いたことがあります。」


と説明した。


「巫術師……ですか。」


軒轅はこれまでにも巫術師という名を耳にしたことはあり、有熊でも何度か巫術師と名乗る者に会ったことがあった。しかし、どうにも巫術には馴染めないでいた。ひたすら祈るだけでただの儀式に感じていたが、その老婆に対してはそれまで巫術師には感じたことのない不思議な感覚を覚えていた。

 

老婆が去った後も軒轅は屋敷の傍の岩に腰かけて少典を待っていた。すると突然後ろから軒轅に向かって叫ぶ声が聞こえた。

 

軒轅は驚き後ろを振り返ると、そこには髪を頭上でぐるぐる巻きにして枯草で乱雑に結び、男の着る着物を来て手には竹の棒を持っている少女がいた。歳の頃は軒轅よりわずかに下であろうか、つかつかと歩み寄り手に持っていた竹の棒を軒轅に突き付け、


「おい、お前!その岩から降りろ、その岩は私の場所だ!!」


とすごい剣幕で捲し立てた。これには軒轅も驚き岩から降りて、


「貴女の場所とは知らずに座ってしまったようです。お許しください。」


と、丁寧な謝罪の言葉を述べた。すると少女は、


「ふん、男のくせに謝るとは情けない。悔しくないのか?」


と言った。軒轅は自分も子供であることを棚に上げて、子供の言うことにいちいち腹を立てるのもばからしく聞き流していた。しかし、さらに少女は軒轅の腰にある鉄製の剣を見て、


「ん?それは鉄の剣か?お前はその剣を使えるのか?ふん、どうせ使いこなせないのだろう。そうだ、勝負で勝ったらその剣を私にくれ。」


見下したような笑みを浮かべて軒轅を頭ごなしに弱虫であると決めつけて言い放った。これには軒轅も腹に据えかね、


「わかりました、お手合わせ願いましょう。」


と言い少女との剣術の試合を行うこととなった。この様子に大鴻はやれやれと思っていたが、お互い引きさがりそうにないのでそのままやらせることにした。


軒轅も竹の棒を持ち、上段に構えた。三丈(6メートル)ほど先に少女がいた。

 

少女は唐突に走り込み跳躍しながら一回転して勢いをつけて軒轅の頭上めがけて木の棒を振り下ろした。少女の非力を回転力をつけることで補ったのだ。天性の身体のバネを持っており、バランス感覚にも優れた非常に高度な剣技であった。軒轅は突然の凄まじい打ち込みに驚いたが、少典が仕込んだ剣は咄嗟の攻撃にも何とか対応できていた。


「本気を出さないとやられる…。」


そう思うと軒轅の目つきが変わり、軒轅は上段に構えた竹の棒の先を斜め下に落として少女の打ち込みを何とか受け流した。少女は驚くほど身軽で打ち込みは正確に急所を狙ってきた。

 

少女は着地し腰を落としており、その体勢から軒轅の脇腹めがけて薙ぎ払った。軒轅は後方に飛びのき棒を躱した。天性の素質を持っている上に、かなりの鍛錬を積んでいることはその剣筋から容易に判断できる。

 

すると少女は軒轅の動きを読んでいたかのように前方へと飛び出して軒轅の喉元めがけて突いた。これも首を振ることで何とかかわしたが体勢を崩してしまいよろめいた。


「どさっ…。」


勢い余った少女がぶつかり重なり合うように共に地面に倒れ込んだ。


土煙が立ち両者は折り重なったまましばらく動けなかった。長い時間が経過したように思われたが、やがて少女はゆっくりと起き上がろうとした時、軒轅と目が合った。

 

軒轅はまだあどけなさを残していたが附宝譲りの優しい顔立ちをしていた。少女の目はしばらく軒轅から離れず見つめていた。軒轅が少女の重みを感じながら立ち上がりたいのでどいてくれと言うとハッと我に返り急に眼をそらし顔を赤らめてそそくさと立ち上がった。

 

軒轅は乱暴な少女だと思いながらまだやるかと尋ねたが、そわそわして視線が定まっていない少女に戦う気はもう無いようであった。


「やれやれ、何だったのだ、一体?まるで嵐のようだ。」


少女は顔を背けその場を逃げるように立ち去り、その様子を見て嵐が来てすぐさま去って行くようだと軒轅は思った。


これ以降、翠清の都には周辺の部族たちが続々と集まっていた。軒轅たちが到着した翌日には五つの部族が到着していた。兵たちは手には弓を持っており、扱いにも慣れているようであった。各部族の兵の数はバラバラであった。有熊など人口の多い部族は300人ほどいたが少ない部族では50人足らずで、予定では1500人程集まるはずであった。

 

軒轅は翠清の領主の屋敷のすぐ脇の平地に野営していた。少典は続々と到着する部族の出迎えを翠清の領主と共に行っていた。軒轅も時折部族の首領に挨拶のために会いに行った。ある時、いつものように挨拶をしていると翠清の領主の脇で綺麗に着飾った少女がいた。


少女は軒轅と目が合うと顔を赤らめて急に目をそらした。軒轅は大方翠清の領主の娘であろうとあまり気にも留めずに首領たちに挨拶をした。


「き、昨日は済まなかった。あ、あのう、その…許してほしぃ…。」


一通り挨拶が住むと少女が軒轅の下へやってきて昨日の出来事について有熊の領主の息子だったとは知らずについついけしかけてしまった事を俯きながら蚊の鳴くような小さな声で謝罪した。


「あ、あなたは昨日の!」


その時軒轅はその少女が昨日剣の勝負をした少女であることに初めて気が付いた。


それまで男のように剣術の稽古をし原野を走り回り、同年代の男には剣術では負けたことはなかった。この活発過ぎるおてんばな娘は翠清の領主にとっては頭痛の種でもあった。


この少女にとっては今回は初めてするお洒落であった。あの剣の勝負以降、急に軒轅を意識しだし少しでも綺麗に見せようとして母親に頼んで服や装飾品を用意してもらったのであった。


このような気持ちになったのは少女にとって生まれて初めてであったが、戸惑いよりも軒轅に対する関心の方が勝り自然と外見を気にするようになったのだ。


「あ、あのう、母上。髪を結ぶ紐が欲しいんだけど…。」


と普段の少女らしくないおどおどした口調で母親に尋ねると、母親は、


「何を言ってるの、あなたいつもその辺の草や何かで結んでいるじゃない?」


というと、少女は、


「草は切れやすいので丈夫なのが欲しい…なか?」


と歯切れの悪い答えをすると、


「ははーん、それじゃあ着る服はその男の着る麻布でいいのかい?」


と訝しんで聞いた。すると少女は、


「服はどうでもいぃ…けど…できれば別のやつ…何というか、できれば綺麗な…の。」


と顔を真っ赤にしながら答えた。母親は男勝りの娘が綺麗な格好をしたいと突然言い出したので驚いたが、そこは母親の勘で少女も思春期を迎えているのだと自分の少女時代を思い出しながら思ったのであった。

 

淡い恋心は少女の性格も変えつつあり、少しでも軒轅に綺麗に見せようと思いつつもそれまでの男勝りの性格を突然変える事も出来ずにその思いをいまだに受け入れ切れていない少女の相反する感情があった。


顔を背け恥じらい時折軒轅をちらりと見ながら話す別人のような少女を見て軒轅は驚き目を丸くした。


「ふん、お前なんか今度はやっつけてやるから覚悟しておけ!」


と、恥じらった表情を見せたのは一瞬で、すぐに昨日の少女の男勝りの表情に戻ってしまい照れを隠すようについつい悪態をついてしまっていた。


「あはは、変わったのは外見だけだったようだね。」


と軒轅は少女を見ながら笑って言った。日焼けして浅黒い肌をしているがよく見てみると大きな二重の目とほほ笑むとえくぼがあり少女は端正な顔立ちをしていた。


「そんなことは…。中身も変わったよ…。」


と今度はしおらしくなり、軒轅は少女の二面性に戸惑いつつもその美しい顔立ちとその顔が作り出す恥じらいと意地の悪い表情を交互に見ながら軒轅は胸が高鳴るのを感じ、急に少女を意識しだした。


少女は屋敷に住んでいたので屋敷のすぐ脇に宿営していた軒轅の下へたびたび訪れるようになった。

 

最初は通りがかっただけだとそっけなく言いながらも軒轅に食べさせようと翠清の名物である蒸した粟を丸めたものに蜂蜜と大豆の粉を振りかけた粟蜜と言う甘い食べ物を自分で作って持って来ていた。

 

この食べ物を作るコツは少々塩を入れて甘みを引き立てることであったが、料理など食べることが専門であった少女は塩加減が分からない上に味見もしなかったので塩辛くなってしまい、蜂蜜の甘さなどどこかへ行ってしまっていた。

 

それを食べた軒轅は思わず顔をしかめた…が、その時の軒轅の目には少女の不安げな表情が映し出されており、口の中一杯に塩の辛さが広がりながらも不味いとは口が裂けても言えなかったのであった。

 

軒轅が全て食べきり美味しかったと言うと少女は天にも昇る気持ちで喜びを表情や手足、言葉など全身で表現して見せた。

 

勝気な少女であったが次第に軒轅の前ではしおらしくなっていった。軒轅は勝気な性格から次第に軒轅に従順になっていく少女の変化に戸惑いながらも、女性と話すことはこんなにも楽しいことだとは思わず時間を忘れてついつい長話をしてしまった。軒轅は件の少女とはすっかり打ち解けていた。少女の名は桂花けいかと言った。


五日目になると大方の部族が到着していた。相柳討伐に参加した部族は21で総勢は1800名であった。予想よりも多く兵が集まったので少典達は一安心した。相柳の被害と恐怖が各部族を戦いへと駆り立てたのであった。1800人は当時として大規模な軍勢である。


その夜早速軍議が開かれ、武勇に優れた少典が総大将となった。少典はこれまで集めた相柳に関する情報を説明し、相柳と浮遊を引き離した後に相柳を隘路におびき寄せて鴆鳥の毒を塗った鉄の矢じりの矢で総攻撃を行う作戦を改めて提案した。他にいい作戦も無く全員この作戦に同意した。しかし、肝心の浮遊を相柳から引き離す作戦に関しては軍議中ではいい案が出ずに現地で臨機応変に行うこととなった。


作戦が決まると翠清の領主は夜更けにも関わらずこの戦いの行方を占うために卜占の準備を始めた。

 

占いには亀の甲羅が使用され、その甲羅を火にくべて焼くとひびが入りそのひびの入り方で吉凶を占うこの時代によく行われていた亀甲占いである。

 

陽が落ちて辺りが薄暗くなるとあらかじめ用意されていた祭壇に火が灯され、領主の屋敷で会った老婆が祭祀用の亀の甲羅を持ってやってきた。

 

祭壇は土を盛り高くした土台に木材を四角に組み上げ中央部分に薪を入れて火力を強くし、周囲には人が入ってこないように麻縄で囲いがなされていた。また火の周りには誰が座る訳でもないが座が敷かれていた。

 

祭壇の火は中央部分の薪に燃え移り次第に大きくなりまるで漆黒の中に小さな太陽があるように辺りを薄らと照らし始めた。火の勢いが強くなると、周囲の面々の表情や輪郭を浮かび上がらせていた。時々薪が爆ぜてそのたびに火の粉が舞い上がっていて、その絶え間なく変化する炎に爆ぜる火の粉を見て軒轅は美しいと思った。


老婆が神へ祈りの言葉を捧げたことを皮切りに占いの儀式が始まった。

 

老婆は火の前にうずくまり小さな声で祈りをささげていた。老婆の背後には祭壇の炎で照らしだされた影が細長く伸びており、炎の光が殆ど届かない場所では周囲の影と同化してしていた。

 

軒轅と桂花は火を囲むように老婆の左側の祭壇の前に立っていた。桂花は薄暗い場所なので誰にも見られないだろうと出来る限り軒轅に身体を近づけて密着させていた。頭は軒轅の方にもたれ掛かり、軒轅の手をそっと握っていた。軒轅は桂花の体重を自身に感じながらその重みが心地よかったのであった。


祭壇からは大きな火柱が上がっておりオレンジ色の光が周囲を照らしていた。その光が桂花の顔をうっすらと浮かび上がらせると、隣にいた軒轅は桂花を見つめた。軒轅の視線に気づいた桂花は軒轅の瞳を見つめ、瞳に炎が反射し映っていることを見ながら恥ずかしげにうつむき視線を下げた。

 

軒轅は自分の頬を方にもたれ掛かっている桂花の頭の上に置き、手をさらに握り返した。夜間に感じる不安と祭壇の炎と神秘的な儀式の美しさが混ざり合って2人に甘美な感情をもたらしていた。


老婆の祈りが終わるといよいよ亀の甲羅が火にくべられた。火にくべられた刹那、軒轅には亀と蛇とが合わさったような大きな生き物がうっすらと輝きながら目に入った。その生き物は亀の甲羅を持っているが、尻尾と頭は蛇である異様な姿であった。色は黒くゆっくりと火の中へ歩いて行きやがて消えてしまった。


隣にいた桂花もその亀のような漆黒の生き物が見えて思わず声を上げていた。

 

軒轅は一体何を見たのかよくは判らなかったが、その生き物が見えたのは軒轅と桂花だけではなかったようで、立ち会っていた領主や重臣たちの中の僅か数人が同様に声を上げていたのだ。


しかし、巫術師の老婆は軒轅がその生き物を見たことに気が付いており正面にいる軒轅に向かって言った。


「ふぉっふぉっふぉ、あれが見えたか。あれが見えるということはお主は神性を持って生まれてきたのじゃ。それに、ただの神性ではなくお主は土徳を持っているようじゃな。初めて会うた時に気になっていたが、なるほどそういうことか。ん?あれか?あれは玄冥げんめいと言って冥界へ詣でることができる神獣じゃ。玄冥が冥界から戻ってきたら甲羅のヒビを通して神託を得ることができるんじゃのう、ふぉっふぉっふぉ。」


軒轅は神性や土徳など聞きなれない言葉を聞いて戸惑っていた。そして、老婆は軒轅が見た生き物は実在すると言い、さらにその生き物の名を玄冥と言ったのだ。


玄とは黒という意味があり冥は冥界を意味する。冥と武という漢字の発音はこの当時は同じであったので玄冥は後に玄武げんぶと呼ばれるようになり北方の守護神となったのはこの時から大分時間が経った後であった。


桂花は不思議そうに軒轅を見た。老婆の言ったことはよく理解できなかったが、この時不思議な雰囲気を持つ軒轅に心を奪われていた。

 

商族の頭目、王霊との戦いでもそうであったが、軒轅は薄々自分には人とは違った能力があることには気が付いていた。そしてその能力は神性と呼ばれていたのだ。


周囲もこの老婆の土徳と言う言葉にざわついた。稀に神性を持って生まれてくるものがいたが、土徳はその中でもとりわけ高い神性を持ち高い徳を獲得すると言われている。


他にも火徳、木徳、金徳、水徳があると言われているが、これまでに火徳を持つ人物のみがこの世に生を受けていた。その人物が偉大な帝であった初代炎帝の神農氏であった。神農氏は農業を発明し市を開き嘗百草により薬を作った人物であった。

 

神農氏には非常に強い神性が現れており、手足は半透明で顔は龍に似ていたと言う。不思議な能力も多く持っており、その能力を人々のために惜しみなく使った。このため神農氏は炎帝として後世にまで称えられる存在となっていたのである。

 

神農氏は人々のために薬草を探している最中に毒草を食べて中毒死してしまったが、軒轅の時代は神農氏の死後以降500年程経過しており、この時代に土徳を持った軒轅が生まれてきたのであったが、この時代になると神農氏は既に伝説と化しており物語中の存在であるとみなされていた。


巫術師の老婆は軒轅にこれまでにない不思議な感覚を持ったが一方で思っていた程の高い神性は感じなかった。そのため初めて会ったときには土徳かどうかはっきりとはわからなかったが、その神性と共に高い徳を感じ取り軒轅が土徳を持っていると理解したのだ。


しかし、伝説や物語に詳しい一部の領主は土徳などは迷信に過ぎないと一笑に付していた。実際に土徳や火徳など五徳を持っている人物を他に見たことが無いので当然と言えば当然の反応であった。


しばらくすると火の中がうっすらと青色に輝き、燐光に包まれた玄冥が冥界から戻って来て火の中からゆっくりと出てきた。そして、そのまま甲羅へと近寄り甲羅に触れた瞬間に静寂を切り裂くような乾いた音がした。甲羅にひびが入ったのだ。すると辺りは静まり返り、老婆は火から甲羅を取り出してそのひびを詳細に観察しだしたのであった。

 

しばらくすると、翠清の領主が神託を聞きに老婆の下へ行き、祭壇の下で跪いた。老婆は周囲にも聞こえる大きな声で神託を告げた。


「今、冥界の神々が神託を下さった。今回の戦には吉祥が見られる。冥界の神々は皆が力を合わせて戦えば必ず勝てるとおっしゃっておるぞ!」


この神託を聞いて周囲にいた領主たちから安堵の声が漏れると共に歓声が上がった。


しかし、老婆には甲羅のひびを通して玄冥は相柳との戦い以外にも別の未来を見ていた。それは占いの場で仲睦まじく寄り添っていた軒轅と桂花との悲しい別れであった。

 

しかし、このことを老婆は生涯口にすることはなかった。


軒轅17歳の誕生日を迎えたばかりの春であった。

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