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華夏神話  作者: 芒果 (Mango)
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中原巡幸

 黄帝は宮殿の庭先で空を見上げていた。


 空は雲一つなく青く、春先の暖かい日差しが心地よかった。これまで空を見上げる心の余裕も時間もなく、ひたすら政治に没頭してきた。様々な領主や商人、農民たちが毎日のように宮殿にやってきては問題ごとを黄帝に訴えてきていたからだ。

 黄帝は一つ一つ問題を解決し、時には現場に出向き最適な解決方法を探した。このような黄帝の帝王らしからぬ民の近くに寄り添った政治は民たちに大いに受け入れられ尊ばれた。そして民たちは黄帝の治世が変わることなく続いてほしいと心から願ったのであったのだ。

 

 黄帝は様々な政治の仕組みを考え出した。その一つに官僚機構の整備があった。有熊国が大きくなるにつれて家臣の数も増えていったため、仕事の細分化が行われたのであった。そしてそれぞれの官職が一目でわかるように軒冕けんべんを創り出した。軒冕とは身分の高い者が乗る車と身分に応じてかぶる冠のことであり、この車を引くための二本の棒をながえとした。 

 自分の名前の軒轅をそれぞれの名称に使用したのだ。

 中央の官職名には雲が付き、宗族を管理する官職を青雲と、軍事を司る官職を縉雲しんうんとした。さらに左右の大監を設置して諸侯の監視にあたらせた。


 国家体制が固まり政治が安定すると蚩尤との死闘で疲弊してしまった民衆の経済が回復し、人々の生活は次第に豊かになっていった。そして有熊の名声は遠方まで轟いており、都には様々な交易品が集まり中原でも最も大きな都へと発展を遂げていた。

 常先が作った車は荷物の運搬量を大幅に増やし、車を円滑に通すために街道を整備した。この事業は農民たちの仕事が乏しい冬場に主に行われ、農民たちの収入源となっていた。

 しかし、有熊には中原の各地から人々が集まるので、円滑な商売のためには問題が多々あった。その一つが重さや容積の単位が各地で異なることや各地で話される言葉が異なっていることなどである。

 各地の交渉の腕に自信のある商人たちは、有熊の繁栄を聞き、とりあえず有熊に商品を持っていくと何かしら儲けが得られるのではないかという打算などが働いた。

 このような打算が強引な商売につながり様々な問題を起こし、時には喧嘩などの傷害に発展した。

 黄帝達にとっては有熊で商売を行うことは大歓迎だが、商人たちに基本的な規則を守ってもらわなければならないのであった。

 しかし、言葉も文字も通じない相手に規則を覚えてもらうことは不可能に近く、頭の痛い問題であった。

 

 ある日、年老いた大鴻は黄帝と都の様子について語り合っていた。大鴻はこの混沌とした様子を見て、重さや容積、長さの単位を有熊のみではなく中原中で統一することを提案していた。また、言葉は無理にしろ、文字もある程度統一させる必要も感じていた。

 しかし、この度量衡は有熊及び有熊の周辺諸国では普及していたが、有熊から離れれば離れるほどバラバラになっていった。文字に関しては文字自体がない国が大半であったのでまずは文字を教える必要があったのだ。他にも暦や数字なども統一する必要があり周辺諸国にどのように伝えていくか思案に暮れていたのだ。

 大鴻は度量衡の統一や文字の普及などは有熊の発展、引いては華夏族の繁栄にとって重要な課題であると感じており、このことは黄帝はじめとして重臣たちも同意していた。

 しかし、これらを諸侯たちに一方的に押し付けると反発を受ける恐れがあったため、有熊の度量衡や文字を受け入れるかどうかは諸侯たちの自発性に任せているのであるが、遠方では有熊の威光も届かず何事もないようにこれまで使用されてきた度量衡を使用していた。


 また、稲作を始めとした農業も技術発展により有熊及びその周辺諸国では高い生産性が得られていたが、遠方の国々ではいまだ生産性は低く、飢えている民衆が多くみられた。

 これは有熊にとっては高い生産性を背景に自国を強国に保ち続けることが出来る利点があるが、平和となった現在では黄帝は飢えている民衆を見ることが何よりも辛かった。このため黄帝は稲作をはじめとして農業技術及び鉄製の農機具などの製造方法を遠方に伝え、この見返りとして有熊の度量衡や文字を受け入れてもらうようにしたらどうかと考えた。

 大鴻は農業の発展や鉄器の普及により周辺諸国が力をつける恐れがあるという考えが頭をよぎり一瞬戸惑ったが、技術はいずれ伝搬するものであり、いずれにせよ将来的には世が乱れる恐れがある。しかし、飢えているものは今現在苦しんでいるのである。将来のことは将来の帝に任せ、今生きる人々を救うことこそが黄帝の役目なのである。大鴻はこれは黄帝の徳であると理解して黄帝のこの考えに従った。

 しかし、その後の黄帝の発言は意外なものであった。それは黄帝自らが諸国を回り、諸侯たちと直接面会するというのである。あまりの危険と大鴻の老齢により自分が黄帝に同行できないことを考えて反対しようとしたが、これもまた黄帝の偉大な徳であろう、黄帝の天下の人々を想う気持ちを感じ取り黄帝を命の危険にさらす行為に対する断腸の思いと、黄帝の持つ高い徳の板挟みとなりもはや大鴻にはこの判断が正しいのか間違っているのか判断がつかなかった。このため、黄帝の思いの通りにやるのが人々の平和のためであろう、ともはや無事で帰って来てくれるようにと崑崙山の天神達に向かい祈るのみであった。

 大鴻は幼い頃の正義感に満ちた黄帝を思い出していた。父の少典に喰ってかかり、手を焼いたものであったが、大きくなり幾多の戦いを切り抜けて生き残ってきたにもかかわらず、心の奥底では優しさは失わずに成長していたのであった。この黄帝の優しを感じ取り、歳をとったためか涙もろくなっていることもあって、大鴻の目からは涙が流れ落ちていた。


 この大規模な巡行は史上初の出来事であろう。大鴻はこの黄帝の巡幸の準備が自分の最後の奉公になるであろうと思っていた。この頃には足もよく動かず、歯も抜けてしまい健康状態は悪化しつつあったのだ。この頃の大鴻は70歳ほどであり、当時としては稀に見る長寿であった。

 大鴻はその優しさと博識さ、そして驕らない人柄により若者たちから慕われていた。大鴻ももともと子供たちに医学を教えていたので子供たちを教え導くことは好きであり、進んで黄帝や家臣の子弟たちに医学や思想、そして黄帝の行ってきた政策などを楽しんで教えていた。

 子供たちやその親は、黄帝を育て上げた大鴻に自分の子供を学ばせることは光栄の極みであり、子供たちもよく学んだ。これは学校の下敷きとなり、その後力牧が剣術を、そして風后も戦術を教え、十巫達により巫術も教えられた。さらに常先が農業や金属冶金技術などを教え、有熊の人材育成を行う場となっていた。特に才能がある子供たちは様々な役職に取り立てられ、有熊の発展を支える礎となっていた。

 この学校には周辺の諸侯たちの子弟も通うようになり、黄帝もそれを受け入れた。子供の頃に顔見知りになっておくことは外交上有益であったからである。

 黄帝も時々学校へ顔をだし、大鴻から教わった医術について講義を行うことがあり、伝説中の人物の講義にこの日ばかりは子供たちの目が変わり、大鴻を苦笑させた。

 黄帝は陰陽説に基づく製薬の基本である七情和合の原則などを教えた。七情和合は異なる薬を混ぜると拮抗や亢進を起こすので、これらを起こさないようにするための原則であり、これらの基本ができてからこそ一人前に医師であると認められた。

 この頃になると大鴻たち有熊の医師達と共にそれまでの医術の知識を書き留めた書物を記している。これは後世には黄帝内経となり語り継がれた。


 女たちのためにも学校は開かれた。この頃、嫘祖による絹を使った縫製技術が進歩しており、着物が作られるようになっており有熊の重要な産業となりつつあった。絹の評判は非常に高く、その滑らかな肌触りと艶のある生地に多くの人々は魅了されていたのであった。

 嫘祖は有熊の女たちにこの絹の布の作り方を教え、宮殿から少し離れた平地に桑畑を作っており、その一角に大きな家を建てて絹工場とし、その隣には育てた蚕を湯で煮て糸を取り出す工場が併設されていた。

 この頃になると、有熊の重臣たちやその妻子衣服は絹製となり、その風貌を一目見るだけで有熊の重臣であることが分かり、民衆から羨望の眼差しで見られていたのであった。

 産業のさらなる発展のため、諸国へとの交易用の絹を生産する絹工場を増やす予定であり、そのための学校でもあった。黄帝は絹を作るのを女だけの仕事とした。当時としては絹を作る仕事は男には似つかわしくない仕事だと思われていたことに加えて、早くに夫を亡くした女などに仕事を与えて生活を維持させるという目的もあった。

 女一人でも子供を育てて行けるように、手に職を持たせるという意味合いもあったのだ。このため、男が絹を作る事を認めず、その仕事を女たちに独占的に与えたのだ。このため、絹を作るのは女たちの仕事となった。


 春になり暖かくなると、黄帝は巡幸へと出発した。黄帝は万が一の供えて、跡取りとして長男の少昊しょうこうを大鴻と風后に託していた。息子たちの少昊と昌意しょういも成長しており、母親譲りの端正な顔立ちと、父親譲りの利発さを持っており、民の人気、特に女性たちからの人気は非常に高かった。このため、黄帝よりも黄帝の息子たちを一目見ようと多くの女性たちが集まっていたのも事実であった。

 黄帝の出発するときには鳳凰がやってきて、曲を奏で舞を舞った。この鳳凰を呼び寄せたのは何と少昊であり、霊獣と心を通わす不思議な能力は黄帝から受け継がれたものであった。少昊は特に鳥とよく心を通わせており鳳凰の他にも鸞鳥らんちょう滅蒙鳥めつもうちょう、そして重明鳥ちょうめいちょうなども少昊の元によく集まっていた。

 鳳凰の奏でるその曲は黄帝の巡幸を祝うかのようであり、その曲に呼び寄せられるようにどこからともなく龍もやってきた。出発の様子を見物していた有熊の人々は龍鳳呈祥りゅうほうていしょうの様子にこの巡幸はおめでたいと口々に噂した。

 黄帝の傍には涿鹿で共に戦った貔貅ひきゅうが常におり、黄帝の警護をしていた。そして、大臣となっていた力牧も黄帝の護衛についており、万全の警備体制を敷いていた。また、こちらも大臣となっていた常先や農業及び冶金技術を持つ技術者たちも同行しており、行く先々で技術を教える体勢を整えていた。霊山十巫の中からも数名同行しており、巫術により旅の安全を守ると共に、神性の高い者が見つかれば自分たちの弟子にして育てようとしていた。

 黄帝達はまずは有熊周辺の諸侯たちの元へと行き、様々な問題点を話し合った。周辺諸国は少典の時代から有熊と共に戦ってきた国が多かったので、黄帝は歓迎され友好的に迎えられた。

 黄帝の提案は農業や冶金技術を発展させると共に交易も促進させるので、概ね受け入れられた。しかし、やはり大鴻同様に、有熊の影響があまり及んでいない遠方の諸侯たちに技術を教えることは得策とは言えないという点では懸念があった。

 しかし、以前より黄帝に接してきた諸侯たちは誰しもが黄帝は自分達とは違う人間だ、と感じていたため黄帝がそのように考えるのであれば、異存はなかった。


 諸侯たちの中には懐かしい顔ぶれも多く、翠清の領主はもうだいぶ年を取っていたが黄帝の少年時代を懐かしみ、年を取り父親の少典しょうてんに似てきた黄帝に目を細めていた。娘の桂花けいかの産んだ息子たちもすっかり成長しており、母親譲りで武芸に秀でていることを自慢げに話していた。桂花は女であったので武芸を磨くことを快くは思っていなかった領主でも、男であれば大いに喜んだ。戦いに強いということは国を統率するためにも必要な要素であるからである。

 父親との盟友であり、黄帝とは戦友でもあるため話は尽きずに様々な事柄を話し合った。


 翠清を離れ、有熊から遠ざかると次第に言葉に訛りを強く感じるようになり、さらに知らない単語が出てきた。文法も少しずつ異なっていたため、現地で言葉のわかる通訳を探しながらの旅であった。

 相手の領主は大抵は黄帝の名前を聞いたことがあるので、黄帝だと名乗れば大抵話はすんなりと進んだ。巡幸の速度は遅かったので、黄帝が諸国を回っているといううわさが広がる方が早かったためであった。また、次の行く先には訪問中の諸侯の紹介とともにあらかじめ黄帝が訪問することが伝えられていたために、多くの諸侯たちは国境付近で黄帝を出迎えていた。

 意外であったのが、黄帝よりも恐れられていたのは実は力牧で、涿鹿の戦いでは巨猿と巨人を一人で倒してしまったとうわさが広まっており、実物の力牧の傷だらけの身体とその堂々たる体躯を見るだけで誰もが戦意を喪失してしまっていた。そのような化け物とは誰も戦いたくはなかったのである。


 黄帝の巡幸は黄河に沿って上流へと向かい、崑崙山付近を南下して今度は長江沿いに下流へと降っていくという順序であった。長江を東へと進み海へ出てか今度は北へと向かい、黄河を渡って九黎の地にまで赴いた。九黎族はすでに戦意を喪失していたのであるが、どうしても黄帝を受け入れられず蚩尤に帰順する者たちは三苗族を追うようにして洞庭湖の南方の山岳地帯を目指して移動していったのだ。

 しかし、蚩尤がいなくなったために、戦争が終結したので自分たちが生きるのに精いっぱいな民たちにとっては米の生産を始めとして農業技術を教えてくれた黄帝には感謝の気持ちを持っていたのであった。そして、東方の蛮族と看做されていた九黎族も交易を通して次第に華夏族と近い関係となっていった。

 

 この巡幸で最後に訪れたのが炎帝榆罔の国であった。炎帝は涿鹿の戦い以降戦意を失っており、全く戦争をしなくなっていた。戦争をしなくなったのは黄帝の影響も強かったが、年齢による影響も顔に刻まれた深い皺から読み取れた。

 人とはなかなか変われない生き物である。特に君主として育ち、その威光を周辺諸国に見せつけることを生きがいにし、そしてそれを実行しうる実力も兼ね備えている人物である、そうそう変われるものではなかった。現に榆罔は悩み続けていた。偉大な人物として黄帝を受け入れられなかったのだ。否、心の中ではすでに受け入れていたのであるが、それを認めたくないと言った方が正しかった。

 一方で受け入れれば楽になることもわかっていた。しかし、それは榆罔の戦場で積み上げてきた誇りが許さなかったのであった。しかし、黄帝が巡幸で榆罔の国を訪れたときには、すでに黄帝による巡幸の噂が広がっておりその評判も同時に耳にしていた。

 そして、久しぶりに会った黄帝を目の前にすると、それまでの葛藤は全て吹き飛ぶようであった。長旅で疲れ果てているようであったが、その表情には満足さが現れており、自分の天命に背かずに人生を全うしている男の表情に見えた。一方の自分とは何と矮小な存在であったことか。

 榆罔は黄帝に自然と頭を下げて臣下の礼を取っていた。

 

 この様子に内心不満であったのが榆罔の腹心、天下無双と名高い勇士、刑天けいてんであった。刑天は激しい気性を持ち欲望に忠実に各国を制圧していく榆罔が好きであった。しかし、今目の前にいる榆罔は以前とは別人の完全に牙を抜かれてしまった老人である。刑天にはこれが堪らなく寂しかったのだ。

 榆罔と共に戦場を駆け抜け、敵対する部族を制圧する。この瞬間にこそ喜びを感じていた。

 戦争をしなくなった現在では刑天には不満が募っていた。久しぶりに共に戦い戦場で心を通わせた力牧に会ったことは嬉しかったのではあるが、内心は無性に寂しかった。実際に力牧もその寂しさがよくわかった。力牧自身も戦場でしか生きている実感を掴めないような人間だからであり、乱世でこそ生きる場所を見つけられるが平和が訪れると自分のような人間はもはや必要とされずまた平和な時代が退屈となっていた。

 これも時代の流れであり、仕方がないのではあるがそれだけではどうしても割り切れなかった。

 そのような刑天の心理を見抜き、獲物を狙うかの如く遠くから見守っている老婆がいた。そして機会を伺い老婆は刑天に語り掛け、刑天の話を聞きその心理を吐き出させるように仕向けていったのだ。この後、刑天はまるで狐に取り付かれたように次第に凶暴さを増していったのだ。


 黄帝の巡幸は3年かかり、有熊へと無事戻ってきた。度量衡は遠方まで広がったが、普及されるかどうかまだ不明ではあったが最低限、有熊とその周辺諸国との交易を行う上では必要不可欠であることは遠方の諸侯たちにも理解してもらった。

 また、巡幸では米作りや鉄器作りの技術を有熊でも教えていると言ったために、諸国から多くの人たちが有熊にやってきたのだ。有熊は国際色豊かな都市へと発展していき、中原の果ての大荒たいこうと呼ばれる地方からも多くの人たちが訪れていたのだ。その人々も各地の物品を持ち寄ってきたので、次第に陶器を始め、絵画や装飾、建築などの文化も花開き、有熊は中原で最も栄えている都市として栄華を極めていた。


 黄帝43歳の有熊の繁栄と重なるような盛夏であった。

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