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華夏神話  作者: 芒果 (Mango)
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封禅之儀

 太極より生まれしこの世の全ては混沌より陰と陽に別れ、土、火、水、木、金という要素により紡ぎだされて形を成した。




 深く瞑想し、漆黒の帳の中で静かに魂魄の来た道筋を辿っていくと、万物は一つでつながっていることを自身の魂魄を通して知り、頭の中で碧の触れ合うような乾いた音色が心の隅々まで響き渡り、それは冬に池の表面に張った氷に亀裂が入るのに似た音であり、魂魄が触れ合うときに奏でられるこの音色が整列している兵士たちの心の中に鳴り響いて心地よく皆が陶酔していた。




 古代の人々は人々は穀物を育みその恵みの喜びを神々と分かち合い、天と地にその収穫の感謝を捧げていたが、最後に行ったのは炎帝神農氏であると言われている。しかし、当時は文字が無かったため、現在にはその詳細は残っていなかった。神農氏の直系にあたる炎帝榆罔も封禅の儀に対しては祖先が行った儀式であることを伝え聞かされている程度であった。




 黄帝は泰山の山頂に立ち、眼下に果てしなく広がる原野を見ていた。




 冬の晴れ間の柔らかな日差しの下、空気は澄んでおり泰山の頂からは遠くの山々まで見渡せ、その景色を美しいと感じた。冬でも葉を落とさない木々の葉の緑色が目に飛び込んでいた。黄帝はその緑の微妙に色に違いを見ながら人間と同じようにただ緑と言っても様々な色があるのだなどと取り留めのない思考が頭をよぎっていた。


 一行は泰山に登りいよいよ封禅の儀が始まろうとしていた。太古から行われてきた儀式であるが、途絶えてからもう久しかった。


 中原随一の巫術師となっていた女丑の澄んだ歌声に合わせて女丑の十人の弟子である十巫達も歌を歌った。この頃には十巫達の個々の巫術の技量は非常に高くなっており、霊山十巫や神医とも呼ばれていた。




 周囲には有熊の重臣や天下の諸侯、そして風伯や雨師と言った神の姿もあった。一本足の鳥である畢方ひっぽうや騰蛇とうだなどの霊獣もおり、皆黄帝の後ろに付き従っていた。




 封禅の封とは天を祀り天の功に報いることを指し、禅とは地を祭り地の功に報いる儀式を言う。


 この儀式は天と大地の恵みを受けて生きる人間たちが、天神と山神を祭るというのが本来のあるべき姿であった。


 参列者は皆心晴れやかで落ち着いており、自分達の祖先が遠い昔に行ってきたこの儀式に皆どことなく懐かしさを感じていた。




 時は少々さかのぼるが、蚩尤との戦いを終えて戦後処理も大体終わり、有熊に平穏が訪れた時であった。




 ある日、東海から珍しい魚がとれたとのことで干し物にされて送られてきた。この魚を見て大鴻は比目魚という祥瑞だと言い、目出たいことだと喜んだ。


 翌日西方から鳥が飛んできた。その鳥は羽が一本と足が一本しかない鳥が合わさり一緒になって飛んでいた。黄帝はこれを見て何故だか懐かしい気持ちになった。女丑がこの鳥を見て比翼鳥であると、今は亡き翠清の巫術師の老婆の話の中で描写した内容を思い出しながら言った。それは以前に黄帝と桂花により作り出された比翼鳥であった。今までどこにいたのかわからないが、黄帝の下にひょっこりと戻ってきたのだ。




 この出来事を皮切りに、有熊周辺に様々な霊獣たちが現れた。龍たちをはじめとして鳳鳥が飛び、これに合わせるように黄帝の騎乗となっている貔貅や嫘祖の飼っている麒麟も外へと出ていき、この瑞獣達に加わっていた。有熊の人々は目出度く縁起がいいと喜んだ。


 雨の日の前には商羊が現れ舞を舞い、その後、白い虎や玄冥など様々な吉祥物が自然と現れ、その総数は18にも及んだ。


 そして秋になると郁山では久々に黍きびが育ち、北里では禾あわが豊作であった。また、江淮からは御座などに使用される三脊茅草も大量に献上されていた。




 秋も終わるころに有熊に久しぶりに白澤がやってきた。白澤は有熊の様子を見てにっこりとほほ笑むと、封禅の儀式に相応しいと黄帝に向かって言った。この白澤の一言に黄帝は感慨無量となり封禅の儀式を行うことを決めたのであった。


 有熊の大臣となっていた大鴻は大喜びで古の帝たちが行った封禅の儀を調べ、封禅に必要な物と封禅の方法について黄帝に報告をした。


 大鴻の調査によると、供え物には郁山で採れた黍と北里で育った禾を盛り、地面に敷く敷物は江淮で採れた三脊茅草を編んで作るという。


 そしてまずは山頂に壇を築き天を祀り泰山を封じ、その後に山を下りて梁父山に壇を築き梁父山を禅するという順序であった。


 大鴻は早速天下の諸侯に翌年の初夏に封禅の儀を実施すると伝えた。すると、諸侯たちから様々な祝いの品が送られてきて黄帝の封禅に対して歓迎の意を表したのだ。




 封禅の儀の準備は着々と進んでいた。年が明けると大鴻を中心の女丑を始めとした巫術師たちにより儀式の細部にまで話し合われ、段取りが組まれていった。


 儀式は細部にわたりこだわりが見られており、黄帝の乗る車や着物、檀の大きさや天地へと報告する内容と文章、そして登山の道や従者の配置、座の位置や素材など全ての事柄に対して詳細な検討がなされ、適切な素材、配置が決められていった。


 春になる頃には儀式に必要な材料を調達するために各国へと使者を送り、秋には必要な分だけ譲ってもらえるようにと使者に伝えた。




 夏になると、何故だかわからないが風伯と雨師が何も言わずに突然有熊を離れ出て行ってしまった。風伯も雨師も何も言わなかったので黄帝も彼らがどこへ行ったのかわからず、臣たちは蚩尤達から帰順した彼らをまた裏切ったのであろうと口々に話し合った。


 しばらくすると、有熊を拠点として東方との交易を行う商人たちから妙な噂を聞くようになった。それは突然巨大な旋風が吹き、木々がなぎ倒され吹き飛ばされてしまい、その後大雨が降り木々が無くなった場所は雨で固められて平地となり、長く続く道を作り出していた、という内容であった。


 黄帝は俄に信じられなかったが、風后は実際に涿鹿の戦いで目撃した風伯と雨師の強力な術をもってすれば可能であろうと感じ、風伯と雨師の仕業であろうと口々に話していた。実際、彼らは泰山への道を作るために有熊を離れたのであった。


 秋になると風伯と雨師はひょっこりと帰ってきて何食わぬ顔でこれまで通り宮殿へと居座り、気ままに雨や風を有熊周辺に起こしていた。




 茜色の空に赤とんぼが飛び交う中、郁山の黍きびや北里の禾あわ、江淮の三脊茅草などが続々と送られてきた。大鴻は女丑や常先たちと早速祭品や御座、黄帝の乗る車などを作り始めた。


 冬に差し掛かる頃には諸侯たちが続々と有熊に集まり、泰山へ向けて移動を開始した。


 その行列には龍や鳳鳥、畢方なども混じっており、その様子は道行く先々の人々の後々までの語り草となっていった。




 泰山は冀州城より南東へ300里ほど離れた場所にあった。泰山への道は風伯と雨師が作っておいたので移動は円滑であり、有熊からは10日ほどで到着した。


 泰山に到着すると、大鴻の指示に従い泰山の頂と梁父山の麓に壇を築き、壇の周囲には五色の土が盛られ、登れるように階段が設置されていた。壇の幅は1丈2尺で高さ9尺、下には玉やこれまでの業績を刻んだ石板などが埋められた。泰山山頂に作られた壇は登封壇、梁父山の麓の壇は降禅壇、泰山の麓に作られた壇は封禅壇と名付けられた。


 また、神々を祀る祭品の玉器は太行山で産出される碧を使用して作られた。




 黄帝は壇の準備を横目に、封禅の儀に備えて身を清めるための斎戒を始めた。斎戒は七日に及び、旧暦の十二月二十二日に泰山の東南の麓で燔柴を行いこれにより立ち上る煙を合図に封禅の儀が始まった。




 黄帝は帝の乗る車である輦れんに乗り、泰山の頂上へと続く道を貔貅に引かれて登って行った。風伯と雨師により整えられた道の両脇には中原の兵たちが整列し、六匹の蛟龍と畢方を従え、前には虎と狼がおり騰蛇は地に伏せ、鳳鳥は上空を舞っていた。




 頂上へ到着すると、黄帝は黄色の衣を羽織り、輦から出て山頂を見下ろした。




 眼前には五色の土で囲まれた登封壇があり、壇の上には太行山の碧で作られた器があり郁山での黍きびと北里の禾あわが盛られ、そして壇の下には江淮の三脊茅草を編んで作られた御座が敷いてあり、壇の正面には階段が設置されていた。


 壇の後方には天下の諸侯たちが整列し、瑞獣達が壇の周囲を取り囲み、多くの人々が見守る中で黄帝はゆっくりと一段一段登壇した。


 壇の上に登り終えると天に向かって稽首けいしゅの礼をとり、天に天下太平の報告をした。すると壇の上空には壇を囲むように天神達が現れて黄帝の口上を聞いていた。天神達の表情には微かな笑顔を浮かべていたという。


 天神達にとっては封禅の儀は神農氏以来であり、長いこと行われていなかった。神農氏以前では伏羲ふっきや無懐氏むかいしなどが行ったが、もはや古い記憶のかなたにかすんでいた。




 黄帝の口上を聞きながら、参列した天下の諸侯たちの胸中には様々な思いが去来していた。諸侯の中にはかつて黄帝と敵対していた者も少なからずいたが、皆黄帝の封禅を受け入れ自分のことのように誇らしく思っていた。




 参列者の前列には有熊の四大臣が控えており、それぞれの思いが表情に現れていた。


 特に大鴻の思いは強く、終始涙が止まらなかった。大鴻は黄帝の師であったが、大鴻自身は黄帝の師とさせてもらったという思いが強かった。なぜなら黄帝は自分が師でなくとも一人で立派な帝に育ったであろうとひしひしと感じていたからである。


 それよりも、黄帝と言う稀代の人物の傍に仕えることが出来たことがこの上のない幸福であった。その黄帝が自分のことを師と呼んでくれるのである、これほどの幸せがあろうか。


 その日大鴻の眼が渇くことはなかった。




 常先の表情はただ笑顔であった。幼少のころから黄帝を兄として慕ってきたのであるが、その黄帝が今や中原の頂点に立ち、神々に向かって封禅の儀を行っているのである。常先の性格は大人になっても変わっておらず、ただただ純粋に黄帝に対する憧れがその表情にあったのだ。




 風后は相変わらず無表情であったが、胸中は今にも飛び跳ねそうなくらい喜びでいっぱいであった。


 風后は牧畜を行う部族の長の息子であった。子供の時分より家畜の群れを見ながら、兵たちが動く戦争を想像していた。これは風后の幼少期の悲しい体験に起因していた。




 風后の部族は近隣の部族と諍いを起こし、昔からの因縁も相まって戦争に発展した。戦闘は風后の部族の領地のすぐ近くの平野部で行わており、風后は怖いもの見たさと父たち部族の男たちの安否への不安により年頃の悪童たちと共にこっそりとその戦闘を見に行ったのであった。


 その戦闘は風后の部族の敗北で終わり、父はその戦闘で戦死した上に、部族の財産は敵対部族達に略奪された。


 敗戦をいち早く見ていた風后たちは泣きながら走って村へ戻り、人々に敗戦を伝え、急いで逃げるように言った。部族の長達の家族を始め少数は逃げ出したが、大多数はその場に残ったのだ。逃げるにも行き場所が無かったからである。


 風后たちは母方の部族を頼り逃げ延びて、母の部族の庇護のもとに育った。とはいっても余計な食い扶持となっていたために風后一家への風当たりは強く、風后はすぐさま牧畜を行い働いた。しかし、あの戦闘の光景が頭から離れず、また今の状況を想い、いつか父と部族の敵を取ろうと心に決めていたのである。そしてどうすれば戦争に勝てるのか、と言うことを常に考えるようになっていった。


 そんな風后は今では天下に並ぶもの無き軍師として称えられおり、後世にも多大なる影響を与え続けるのであった。この時の風后の胸中には幼少期の悲しい思い出が去来していたが、もはや遠い記憶となっていった。




 一方で浮かない表情をしていたのが力牧であった。力牧は今では中原最強の武人として名を馳せていた。しかし、天下太平になるともはや心の底から湧いてくる戦闘の喜びを満たすことが出来ず、これからは退屈な人生が残されていると思ったからであった。


 周辺諸国は力牧と戦うことを考えると有熊に対して反乱など起こそうという気持ちは起きなかったので、力牧の存在そのものが抑止力となっていて平和な時が流れていた。


 しかし、常に戦場の空気に触れていることを望む力牧には物足りない日々であり、昔のように山賊狩りに戻ろうかとおぼろげながら考えていた。




 泰山を封じた後、黄帝たちは泰山を下山して翌日には梁父山へと行き、麓に作られた降禅壇で昨日と同様に今度は山神たちへ五穀豊穣を報告して梁父山を禅した。ここでも多くの山神が現れて、黄帝の報告を聞いていた。




 天の神々に天下太平を報告し、地の神々には五穀豊穣を報告することで封禅の儀が滞りなく終了すると、黄帝は最後に泰山の麓に作られた封禅壇へと登壇し、人々に対して封禅の儀式が終了したこと及び、天下太平、五穀豊穣の報告をした。


 黄帝が封禅の儀が終了したと人々に報告を行うと、辺りには割れんばかりの歓声が起こった。人々は戦乱の世にうんざりしており、天下太平を望んでいたのであった。その太平の世が訪れたのである。喜びの歓声が泰山から始まり周辺諸国へと伝搬していった。




黄帝38歳の冬であり、この時封禅の儀を行うという西王母との約束は果たされたのである。

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