刑天舞干戚
遠くになりつつある刑天の喚き声を聞きながら風伯は空を見つめていた。
空には三本足の金烏が太陽の中で盛んに熱を発しており、大地を照らし生き物に命を与えていた。
「生きとるか?」
風伯は傍で倒れている雨師に問いかけた。
「何とか生きとるわい…。しかし、このままじゃ終われんのう、相棒よ。」
と雨師は答えた。
「蚩尤殿が死んでしまってからわしの心を繋ぎとめる存在はもはやおらんと思っとったが、同じ時代に蚩尤殿に匹敵する人間が現れるとは思いもせんかったわ。」
と雨師は続けて言った。
「ふむ、そうじゃの。わしらも大昔の人間の頃は自分達が特別な存在じゃったと思うとった。現にお主もわしも神になり天候を操り気ままに生きておる。しかし、蚩尤殿以外にわしらを越える存在が現れるとは夢にも思わんかった。それが蚩尤殿と同時代に現れた上に蚩尤殿を倒してしまったのだ。何とも因果ではないか。」
と風伯は言うと、その風伯に同意し雨師はこう言った。
「わしらが陛下に臣従したのは自然の摂理であろうと思うとる。神をも従わせる人間が現れて戦い敗れたのならその人間に従う、当然の成り行きじゃった。そのわしらを従わせた陛下が今戦っておられるのにこの体たらくじゃぁ陛下に会わせる顔がないわい。」
と雨師は口元に笑みを浮かべて言った。風伯も微かに微笑むと風が吹き上空は少しずつ厚い雲で覆われ始め太陽の陽射しを遮っていた。刑天の一撃で重傷を負った風伯と雨師が力を振り絞り静かに術を唱えだしていたのである。
一方の刑天と戦っている黄帝と力牧は犠牲を避けるために人々のいる宮殿や都から刑天を引き離そうとして次第に宮殿の裏手の姫水の方へと移動していた。
刑天は相変わらず力任せに巨大な斧である戚を振り回し、そのたびに土しぶきが飛び散っていた。大地には穴が開き木々はなぎ倒されて刑天が通った後には地面は破壊されていた。
「陛下、この辺りでいががでしょうか?」
と力牧は黄帝に聞いた。風伯の起こした風は次第に強くなり黄帝と力牧の着ている絹の衣をなびかせていた。
周囲に人や田畑がないことを確認して、この場所なら人にも作物にも被害は出ないだろうと思うと、
「ふむ、ではやるか。そう言えば、もうお主とも長い付き合いじゃな。こうして戦場で共に居るとお主程安心できる人間もおらんは。」
と黄帝は笑いながら力牧に言った。
力牧は腕力や素早さに加えて、鋭い洞察力や相手の動きから次の動作を読むことなど戦闘に対する天性の素質を持っていたので、身体能力以上の高い戦闘力を見せることが出来たのであった。力牧は微笑むと大声を上げて刑天に斬りかかった。力牧の斬撃は刑天の胸元を斬りつけたが、薄皮一枚を斬るにとどまっていた。
これ以上の攻撃は力牧の鉄の剣の寿命を縮めてしまうので剣を庇いながらの攻撃でもあったのだ。力牧の剣は怪力の力牧に合わせて肉厚であったが、それでも少しずつ刃こぼれを起こし、曲がってきており刑天の硬い身体を斬り続けたらいずれ折れてしまうのは目に見えていた。
刑天は渾身とは言い難い力牧の攻撃にはもはや気にも留めず、獲物である黄帝に斬りかかっていた。黄帝は軒轅剣の加護により身体能力が常人以上に高まっており、身軽に攻撃を躱してはいたが、それでも力牧ほどの速度はなく攻撃を躱すだけで精いっぱいで刑天の懐に入り込むことはできずにいた。
力牧は刑天の背後に回り背後から斬りかかると、これに反応した刑天に一瞬の隙が出来た。その隙を見逃さずに黄帝は刑天に斬撃を浴びせると剣先が干を持っている刑天の左腕にかすった。すると剣が触った部位はくっきりと斬れており、軒轅剣が刑天に対して有効な武器であることを黄帝も力牧も瞬時に理解した。
「いける!」
両者は刑天の攻撃の隙を見て目を合わせると、互いに同じ考えであることは容易に理解でき、力牧は如何に黄帝に刑天を攻撃させるかに移行し援護に徹していた。しかし、幾ら斬りつけても刑天は大した反応は見せずに絶え間なく戚を振り回しており、黄帝が一撃必殺の攻撃を行うだけの隙を作ることは至難の業であった。
黄帝の表情に次第に疲労が見え始めていた。万事休すかと思われたとき、黄帝と力牧の名を呼ぶ声が聞こえてきた。有熊の守備隊長の呉伏が貔貅に乗り落星弓を持って戦場に駆けつけてきたのだ。
呉伏は死を恐れずに刑天の近くにいた力牧へ貔貅と共に駆けていき力牧に落星弓と弓を手渡すと、何とそのまま走っている貔貅から飛び降りてしまったのだ。生身の人間がこの場所で機動力のある貔貅から降りることは刑天の餌食となってしまうだけの自殺行為であった。
黄帝も力牧も呉伏に向かって大声で逃げろと叫んだが、次の瞬間両者は全てを理解した。呉伏は落星弓を力牧に届けた後、貔貅を黄帝の元へ届けたかったのであった。そして自分を庇って戦闘の邪魔にならないように力牧と黄帝から距離を取った位置に降りたのだが、運悪くその場所は刑天のすぐそばであったのだ。
貔貅は呉伏の思いを感じ取り、呉伏の望み通りに呉伏を降ろした後、まっすぐに黄帝の元へと駆けて行った。
貔貅を降りた呉伏は地面に転がり込んだ。起き上がって一目散に逃げようとしたがその時、最悪なことに刑天と目が合ってしまった。その瞬間、視界に入った呉伏を刑天は斬りつけており、呉伏は背中を深々と斬られてしまった。
「呉伏……!貴様ぁ、よくも呉伏を、許さんぞ!」
この状況を見て力牧は大声で怒り狂った。力牧にとっては呉伏は戦場で共に戦い心を通わせることのできた数少ない友であったのだ。その友が目の前で斬られたのである、力牧にこの様な感情があったのかと、黄帝も少し驚きつつ黄帝は呉伏が命がけで届けてくれた貔貅に乗り剣を構えた。貔貅は刑天の周りをぐるぐると駆け回り、その速度には刑天もついていけずに闇雲に戚を振り回し、激しい戚の攻撃はむなしく空を切り、地面に激突するたびに大きな音をたてていた。
力牧は倒れている呉伏を尻目に落星弓を振り絞り、刑天に狙いを定めて矢を放った。矢は吸い込まれるように戚を持っている刑天の右腕に命中し刑天の動きが止まった。落星弓の破壊力が刑天の再生力を上回ったのだ。
その瞬間を見逃さずに、貔貅は後方から刑天に突撃し跳びあがった。
貔貅に跨っている黄帝は軒轅剣を刑天の首めがけて振り下ろすと、刑天の首を切り落としてしまい、首は胴体から離れて遠くまで飛んでいき地面に落ちそのまま転がってしまった。
首を失った胴体はしばらく暴れたが、その内大人しくなり何やら探し始める仕草をしだした。膝をつき、両手で地面をさするようなしぐさである。恐らく無くした首を探しているのであろうか。しかし、首が見当たらないことを悟ると立ち上がり、戚と干を天に掲げて止まってしまった。
「死んだか……?」
黄帝は貔貅に聞いた。貔貅は
「いえ、まだ神性を感じます。死んでいないようですね。しかし、一体何者だったのでしょうか?」
と言った。そこに虫の息の呉伏を抱え上げていた力牧が、
「陛下、あれは恐らく刑天でしょう。あの手に持っている巨大な鉄の戚は刑天の物です。」
と言った。黄帝も貔貅も驚き、粗暴な一面があったがその対局とも言える一面も持っており、鳳鳥と共に曲を奏で風流を解し、優雅さを漂わせていた刑天の変わり果ててしまった姿を驚きとともに見て、悲しみと哀れみを感じていた。
力牧は刑天にも呉伏同様に涿鹿の地で共に戦った戦友としての思いがあった。一抹の悲しさが胸をよぎり、刑天をこのような目に合わせた人物に徐々に怒りが込み上げてきた。
「しかし、なぜあのような姿になってしまったのだ?」
というと、貔貅が、
「何者かに術をかけられたのでしょう。以前涿鹿で戦った三苗の術に似ているようですね。三苗は南方へと逃げてきましたし、果たして一体誰が?」
と言った。これを聞いて黄帝の心中には不安がよぎった。
「私は中原の民の幸せを願い戦い続けてきた。しかし……、その戦いで新たに敵を生んでいった事も確かなのだな……。」
と、悲しげに呟いた。このような負の連鎖が終わることなく続いて行くのかもしれないと思うと悲しみが胸中に込み上げ子供のころから護衛として自分に尽くしてくれた呉伏の死と共に感情が涙となり頬を伝った。また、自分の代でこの連鎖を止められないであろうということも薄々感づいており、自分の子孫たちに禍根を残してしまったことを申し訳なく思った。
遠くで雷鳴が鳴り響いていた。しばらく刑天の様子を見ていると刑天の腹が不気味に蠢き出し、横に割れてしまい口が出来てしまった。
「陛下、あれをご覧ください……。」
と、貔貅がその異様さを見て言うと、刑天の胴体はさらに両乳が目となり大きく見開き黄帝達を見つめたのであった。腹が人の顔になってしまったのである、余りの異様な光景にさすがの黄帝もたじろき手を出せずにいた。
すると刑天の胴体は、戚と干を天に掲げながらゆっくりと動き出し舞いを舞い出したのであった。
「なんと…。首を失ってもその闘志は失わんという訳か。」
黄帝は絶句し、その首を失ってもさらに戦いを続けようとする刑天の不撓不屈の姿勢に驚愕し畏敬の念すら感じていた。
しかし、そのままにしておくこともできず決着をつけるために腕の中で息を引き取った呉伏の亡骸を静かに地面に置き、力牧が立ち上がった。
「陛下、私がとどめを指しましょう。」
と呉伏の亡骸を見ながら力牧は言った。呉伏が文字通り命を懸けて運んでくれた落星弓である分だけの矢を叩き込むつもりであった。それが亡き戦友への最後の手向けであると思ったのであった。
戦友の腕の中で息を引き取った呉伏の表情は意外にも穏やで幸せそうであった。黄帝は、最後に尊敬する戦友と共に戦い戦場で散っていったのだ、戦士として思い残すことはないであろう、と思った。
力牧も戦場で死ねた呉伏を少し羨ましいと思いつつ、落星弓に矢をつがえて刑天めがけて引き絞った。
刑天はなおも舞いを舞い続けていたが、戚を天に向かって高く掲げた瞬間に閃光と共に辺り一面に爆音が轟いた。刑天の鉄製の戚に落雷したのであった。その凄まじい衝撃と音に後方に吹き飛ばされた黄帝達であったが、すぐに立ち上がると一体何が起こったのかと状況を確認した。
「陛下、ご無事でしょうか?少々荒っぽいことをしてしまいましたがご容赦ください。」
と言いながら、よろめいた風伯と雨師が黄帝の元へと近寄ってきており、その姿を見た黄帝は何が起こったのかを理解した。彼らが神仙術で雷を作り出したのであった。
「おお、飛廉に萍翳、無事でなによりだ。あれはお主らの雷であったか。助かったぞ。」
と黄帝は風伯と雨師に声をかけた。刑天の体は黒焦げになり、動かなかった。風伯と雨師の渾身の落雷であった。両者とも天候を操るという神仙術の中でも最上級の術の使い手である、威力は雷神雷公の起こす雷に十分匹敵していた。
刑天の体は落雷により回復機能も完全に破壊されてしまっており、次第にボロボロと崩れ落ちだし最終的には灰となり、その場に積もってしまった。
そして次第に収まりつつあったがそれでもまだ強い風に吹かれて散り散りに飛んで行ってしまい、後には何も残らなかった。
刑天の最後を見届けたちょうどその時、遠くから大勢の叫び声が聞こえてきた。軍勢を整えた風后が救援に駆け付けたのである。
「陛下、ご無事でしょうか、お怪我はありませんか?」
風后は黄帝の元に走ってきて、息を切らせながら心配そうに黄帝を見つめていた。
「最後に舞いを舞うとは、刑天らしい最後であったな。」
黄帝は悲しげにそう力牧に呟くと、風后の元へと近寄り無事を告げた後に、風后たちに護られながら宮殿へと戻って行った。
戦いの後には木々がなぎ倒され戚の一撃で穴が開いてしまった大地と、巨大な戚と干のみが残されていた。神性が暴走してしまった刑天はいずれ身体が神性に耐え切れずに崩壊してしまったであろう。なぜこのような事態になってしまったのか分からなかったが、刑天の死により戦いは終わったが一同の後味は悪かった。
戦いの後、黄帝は残った刑天の頭部を十巫達に捜索させたが遂には見つからなかった。頭部は何かに導かれるように転がっていったために、有熊から大分離れた場所までたどり着いていたのだ。きやがてある場所へとたどり着いて、その場所で力を蓄えだした。そして、刑天の頭部の傍らには黒い魑魅魍魎ともとれる不気味な生き物が蠢いていており、その周囲には紅い楓の葉が数枚落ちていた。
刑天の戦い以降、中原にはもはや黄帝に歯向かう部族も魑魅魍魎も霊獣もいなかった。中原から離れた大荒も同様で中原に攻め込むことはなく平和な時が流れた。もちろん部族間の小競り合いなどは時々起こったが大規模な戦いになる前に黄帝に相談することで双方が矛を収めたのであった。
そして、この先何年も戦いらしい戦いは起こることもなく、民衆は次第に統治者の存在を感じなくなっていった。世が乱れていると統治者は表に出て対処せざるを得なくなるが、徳により世が治まると表に出る必要のなくなった統治者はいないも同然となる。これが大道であり、黄帝の治世はすでにこの大道の域に到達していたのだ。
黄帝も黄帝の臣たちもそして民たちもこの時間を存分に楽しみ、幸せを分かち合いかみしめていた。
大道の時はゆったりと流れ、作物が育たない地方があれば作物が多く育った地方の領主たちが分け与え、人々は飢えることは無くなり、絹の着物は人々を優しく包み込み、そして鉄製の道具で作られた家は人々を凍える寒さから守った。そして衣食住が満たされた人々は黄帝に倣い徳を以って互いに接するようになったのだ。年上の者、地位が高い者は年下の者、地位が低い者へと仁の心を持ち優しく接し、時には義の心を以って守った。また、年下の者や地位の低い者は礼を尽くしてそれに応じた。人の親となった者は子供に生き方と共に礼節を教え、子供たちは大人に礼を以て接し、智を以って勉学に励み、信を以ってその友に接した。この様にして大道の世は過ぎ去っていったのだ。




