雷華と刑天
ああ、大分傷も癒えてきたぞ。女丑か、久しぶりだ。涿鹿の戦い以来ではないか。して今日はどのような御用かな。まさか見舞いに来ただけではあるまいて。ん、九尾狐の雷華の事について知りたいのか。……そうか、あの者にもな、思い出したくない辛い過去があるのだ。あの者の主は……、もう気の遠くなるほど大昔の事だな、そうだ、風華と言った、思い出したぞ風華だ、そう仙人の娘であった。幼いころから大層な神性を持っていた娘であったな。……うむ、光があれば影があるように、陽があれば陰もある。お主の主の黄帝は土徳を持っているが、その反対も実は存在しているのだ。お主なら分かるであろう、そう、土徳が人々に秩序をもたらすように、反対に人々に禍をもたらす作用を風華は生まれながらにして持っていたのだ。それに気が付いた仙人たちは、断腸の思いで決断したのだ。風華が大禍に育つ前に殺してしまおうと。雷華はその時のことを、そしてそれ以降人間の事を恨みつづけているのだ。ああ、雷華は大好きであった主が何の罪もないのに殺されてしまったのだ、人間を恨むのも無理はないのかもしれんな。以降は仙人の前から消え去ってしまった。まさか九尾狐になって今まで生きていようとは。儂も長いこと生きているが雷華が九尾狐になっていたことに驚いたぞ。
九尾狐の雷華は彷徨っていた。
今の雷華を支えているのは自分、そして同胞をここまで追い込んだ華夏の民に対する憎しみであった。
雷華は子供の頃、風華と言う人間、そのころは仙人と呼ばれていたが、と仲が良かった。物事の理は土徳のように良い方に収束する場合があるように、逆の場合も存在する。生まれながらにその業を背負ってしまったのがこの風華であった。
風華は成長するに従って自分の業に従い生きる道を選ぶようになり、雷華や他の魑魅魍魎たちと共に次第に他の仙人たちと距離を取るようになって行った。
風華の未来に待つのは戦乱の世である、戦乱を治める徳もあれば戦乱を起こし人類に混乱をもたらす業もある。風華の成長を見続けていた仙人たちはある時その業に気づいたのだ。
仙人たちは風華をどうするか何日も話し合い、やがて一つの結論に達した。それは、風華の業を拭い去るための儀式を行うと共に、風華を生贄として神々に捧げることであったのだ。
これにより風華は捕らえられて生贄とされてしまったのだ。仙人たちはこのことを悲劇として長い間風華を祀り続けたが、これに納得が出来なかったのが雷華など風華と共にあった魑魅魍魎たちである。彼らは以降、人間たちを恨んで生きて行ったのだ。
雷華は遠い昔の記憶を思い起こしながら、一人風華を失った悲しみを思い出していた。
雷華はこの時、九尾虎の陸吾との戦いで力を使い果たしてしまっており、回復には長い時間がかかっていた。雷華の変化の術は以前のような効力はなく、全身に疥癬があるみすぼらしい老婆の姿となり今にも倒れそうに歩いていた。そんな雷華の姿を見て人々は雷華を避けた。これは雷華にとって幸いで、人間との余計な諍いを避けることが出来たのであった。
雷華は当てもなく歩いていたが、その力はもはや人間以下であり人間を食べようにも襲うことすらできなかった。変化の術では九本ある尻尾を隠すのが精いっぱいであり、見た目にまでは気を遣うことはできなかった。
雷華は涿鹿周辺の街や村を歩きまわり食料を得つつ、天神陸吾から受けた傷を少しずつ回復させると共に失われた神性を少しずつ回復させていったのであった。
しかし、一度失った神性を取り戻すことは難しく、通常なら死んでしまうような傷を負ってもなお生き続けるための生命維持に神性の多くを使用しているので、傷の回復を待つ必要があり、さらに天神から受けた傷はその特殊な攻撃により治りが遅く、以前と同じ程度にまで回復するためには100年以上はかかると思われた。
当てもなくさまよっている雷華はある時榆罔の都へとたどり着いたのだ。榆罔の都は涿鹿の戦い以降は比較的穏やかで、長い戦争が終わって徐々に疲弊から回復しつつあった。人々の表情には笑顔が見えるようになり、街には次第に活気が見られるようになっていた。
榆罔の都は神農氏以来栄えており、人口も多かった。人の波に紛れて身を隠したい雷華にとっては絶好の隠れ家であった。そのため、雷華はこの都にしばらく住み着こうと、人々が住む家々の隙間など薄暗い場所に身を寄せ、時々食料を得つつ時の経過により傷が癒えて回復するのをじっと待っていた。
心地よい陽気のある日、雷華は普段通り陽の光にあたっていた。皮膚の疥癬に陽の光をあてて乾燥させると共に、太陽の光に含まれる紫外線で疥癬を殺菌し治療するためでもあった。
すると、目の前を通り過ぎる大男に目が留まった。その大男は背中に巨大な鉄の斧を背負っていたが、内心には強い不満が渦巻いているのを感じ取ったからだ。さらに、人間の中では非常に高い神性を持っており、その容貌と相まって個人でも格段に高い戦闘力を有しているのはすぐに分かった。
この大男を見るや否や雷華の口元にはどす黒い笑みが浮かぶと共に牙が伸びていたのであった。
雷華は涿鹿の戦いの前に三苗の術者と話した。その術者が不思議に光る球状の翡翠を見せてくれた。これは三苗に伝わる秘宝で、人々や怪物などの心にたやすく侵入できるようになる触媒の効果を持っているとのことであった。
蚩尤が応龍に敗れ、涿鹿の戦いの敗北が決定的となり退却を開始しようとしているとその術者の遺体を見つけた。満身創痍の雷華ではあったが、その術者の傍らには件の翡翠の珠が転がっているのを目にしてその翡翠を口に銜えて退却したのだ。
雷華はその翡翠の珠を飲み込んで腹の中に隠して誰にも見つからないようにしていた。放浪の生活の中でも翡翠の玉だけは見つからずにいたのだ。このような中、翡翠の玉を使用して黄帝に復讐する絶好のチャンスが訪れたと感じ、陸吾との戦い以降、怒りと絶望が心の中を支配していたが、久々に喜びを感じていた。しかし、その喜びとはどす黒いものであった。
雷華は刑天の行動を調べ出した。刑天の住んでいる家や家族構成、そして午前中にはいつも決まった時間に決まった道を通ることも突き止めていた。
翌日から刑天の通る時間のその道には決まって老婆の雷華の姿があった。刑天は老婆をちらっと見ても気にも留めずに歩き去って行った。
雷華はただその道にいただけかと言うとそうではなく、腹の中から取り出した翡翠の玉を手に持って術を唱えており刑天の心に少しずつ影響を及ぼしていた。
雷華は毎朝すれ違う時に刑天に少しずつ術をかけていったのである。すると、刑天は日を追うごとに老婆の事が気になり始め、ある日刑天は遂に老婆に話しかけた。すると老婆はここぞとばかりに刑天の心情を吐露させるように仕向け、刑天の愚痴を親身になって聞き刑天の不満を内心ほくそ笑んで聞いていたのであった。
老婆の身近で話を聞いていると術の効果はてきめんで、刑天はすぐさま老婆に心酔するようになり、老婆の言う通りに行動するようになっていった。翡翠の玉の絶大な効果と共に、所有者が雷華という稀代の九尾狐である、術にかからない者はいないと思われた。この時の雷華の狙いは三苗の術者が行った霊獣や怪物を操り敵を攻撃させるなどという生ぬるいものではなく、もっといびつで恐ろしいものであった。
神性を持つ者にはそれぞれ神性の器があり、器以上の神性を持つことはできなかった。刑天の神性の器は人間にしては大きく、下級の神に近いものであった。
雷華は従順になった刑天を前にして静かに術を唱えると何と刑天の神性の器を壊してしまったのである。器を失った神性は刑天の体内を駆け巡り、次第に神性が体内に溢れかえるようになった。
刑天は最初は凄まじい力を感じた。巨大な鉄製の戚を振るうと樹齢千年以上あろうかという大木すらも数撃でへし折ってしまう威力にこれなら力牧にすら対抗し、勝てると確信し声高高に大笑いをした。それを横目に見ながらも雷華はまだ動かず待っていた。
ひと月が経過したころ、雷華は頃合いだと思い刑天に有熊へと向かうように言った。刑天はこの言葉を真に受け、黄帝を倒すためにすぐさま有熊へと向かった。
しかし、有熊へと乗り込む最中に身体に異常を感じ始めた。異様に発達した筋肉は更に発達し身長が伸び、身体に角が生え、見た目は人間から次第に遠ざかって行った。
やがて精神にも異常を来たし、錯乱しだし理性は無くなって行った。雷華はこれを待っていたのだ。このとき刑天はもはや人間でも神でもない神性を制御できない醜い怪物となり果てていた。
そして刑天の中には黄帝に対する憎しみのみが残っていた。それは刑天の心中にあった感情を翡翠の玉を使って雷華が増幅させたものであった。今の刑天は黄帝を殺すことしか頭にない暴走する怪物である。雷華は神性の器を破壊することでこのような怪物を作り出してしまい、これを見て残酷にも雷華は不気味な笑い声をあげて大喜びしていたのであった。
有熊へと続く道の途中の関所に有熊の警備兵が配置されていたが、右手に巨大な戚をそして左手には鉄製の干という方盾を持った刑天は警備兵をことごとく殺して行き、辛くも逃げ出した兵は命からがら有熊へ戻り事の顛末を黄帝達に震える声で報告した。
兵が受けた恐ろしい出来事を嗚咽しながら振り絞るように報告していると、黄帝の脇に控えていた風伯がわずかな風の変化を察知しており、その様子を見た相棒の雨師も臨戦態勢をとっていた。
この時刑天がすでに宮殿の外の間近に迫っており、刑天の人外の姿を見た人々の悲鳴が聞こえてきた。そして、宮殿の門を破壊して有熊の宮殿へと突入していたのであった。刑天の出現を見て誰もが息をのんだ。それは人間のようではあるが人間とはかけ離れた醜悪な怪物であったからである。
この時力牧はその神性の感覚から刑天を連想したが、その他の者は誰一人としてその怪物が刑天であるとは思わなかった。否、誰も人間とは思わなかったのだ。
刑天の出現に異常を感じた風伯と雨師が武器を持って刑天に襲いかかった。風伯も雨師も天候を操る強大な神性を持つ神々である。しかし、この時の刑天には傷一つつけられずに逆に巨大な戚で切られて重傷を負ってしまったのだ。風伯も雨師も天候を操る神であったため打撃を得意とする刑天の前に脆くも崩れ落ちてしまっていた。
しかし、風伯も雨師も神である、その程度の傷では死にはしなかったが回復するまで時間がかかり戦闘不能に陥っていた。有熊の近衛兵たちは弓で応戦するも矢は全く効果が無く、剣で切りつけても傷一つつかずに逆に巨大な戚で真っ二つにされ、有熊の宮殿は血しぶきが飛び散った地獄絵図となってしまっていた。
この惨状に右往左往する臣や命がけで黄帝を守ろうとする臣など様々であった。そんな中、将軍力牧が刑天に立ちはだかった。
腕力は圧倒的に刑天の方が上であったが敏捷性で優っていた力牧は刑天の重い戚の攻撃を躱し、刑天に斬りかかった。
力牧の渾身の斬撃にさすがの刑天の身体には傷がつけられたがその傷も恐ろしいまでの回復力ですぐさま塞がってしまったのである。
この状況では決定打を欠いてしまっており、刑天の攻撃を力牧は身軽にかわしてはいたが直撃を受ければ致命傷になりかねず力牧が圧倒的に不利であった。
刑天の一撃が宮殿の大きな柱に直撃すると柱はへし折れ宮殿は傾き、戦えない臣たちは風后の指示の下、我先にと宮殿から避難を開始した。刑天は目先の力牧と戦っていたがその目は黄帝を探していた。神々のいる宮殿はその存在が見つかる恐れが高かったので雷華は遠巻きにその戦いを見ていた。
今の有熊には最強の神龍である応龍や崑崙山の天神の九尾虎の陸吾や白澤など戦闘力が極端に高い者がいない上、巫術師の女丑も暴走してしまった神性を制御することが出来ず、今の刑天に対抗できる人物は力牧しかいなかった。
その力牧も有効な攻撃が出来ずにただ時間だけが経過し、戦いに巻き込まれて近衛兵にも犠牲者も出つつあった。黄帝は刑天の狙いがどうやら自分にあると悟り、その状況で逃げずに腰につけていた剣を抜き、刑天に向かっていこうとしていた。
しかし、刑天はもはや人外の怪物である。生身の人間では立ち向かうことは不可能であるが、黄帝の持っている剣は西王母からの贈り物の紅銅を常先が鋳造して鍛え上げた神剣であった。その剣は黄帝の名を取って軒轅剣と呼ばれ自身の神性を高めるのみではなく周囲の人々に神性を分け与える特殊な能力をも持っていた。
黄帝は幼いころから剣術を父親の少典から叩き込まれていたので、剣術の腕前は非常に高く、さらにこの黄帝の危機に軒轅剣が共鳴を起こし、黄帝の身体能力は跳ね上がり、黄帝もまた非常に高い戦闘力を有することが出来たのであった。黄帝は身軽に空高く跳躍し、刑天の前に躍り出て右手で剣を高く掲げて鳳凰の構えをとり刑天と対峙した。
刑天は黄帝を見るや否や待ちに待っていた獲物が現れたと雄叫びを上げて黄帝に襲い掛かった。力牧はしまったと思い黄帝を守ろうとしたが刑天の方が一足早く黄帝に向かって巨大な戚を振り下ろしていた。しかし、黄帝は跳躍してこれを躱し、その身軽さに力牧は舌を巻くと共に嬉しさが込み上げて口元からは笑みがこぼれていた。
ここに黄帝と力牧コンビ対怪物刑天の人智を越えた戦いの火ぶたが切って落とされたのであった。
力牧も黄帝も刑天の思い一撃を喰らうと絶命必死の状況である。一方の刑天は人外の怪物となり果てているがその力は無支祁にも匹敵する程高まっている上に異常に高い防御力と異常に高い回復力を持っており人間の武器による攻撃では刑天を仕留めることは不可能であった。
唯一の希望は黄帝の持つ神剣、軒轅剣の神性の暴走してしまった相手に対する効果である。絶体絶命の状況に陥っていいたのであるが、力牧ならまだしも意外にも黄帝もその状況を楽しんでいたのであった。
虫の音が鳴り響いていた黄帝43歳の秋であった。




