涿鹿之戦決着
人間の生とは……儚いものだな。人間として生を受けたからには自分の欲望を満たす、それに何の迷いがあろうか。誰しもそうであろう、自分の欲を現実としたいであろう。違うか?旨い食いものを喰いたいであろう、美しい着物を着て、美しい女を見たいであろう、違うか?違うと言う者は嘘つきだ。それが男の欲望と言うものではないか、違うか?その欲望を得ようとして何が間違っているのだ。それだけではないぞ、一族の者に心行くまで喰わせてやりたい。飢えるのはもう懲りた。喰わねば仲間同士殺し合うではないか、それは今まで散々経験してきたぞ。軒轅とやら見せてくれ、この儂に見せてくれ。争いのない世とやらを。そんなものある訳がないではないか、儂の人生は戦いの人生であった。その人生をかけて言おう、人生とは戦いであると。
「どこだ、どこにいる?」
女丑は戦場で一人焦っていた。
早く三苗の呪術者を見つけ出さないと恐ろしいことが起こってしまうと想像していたからである。それは三苗の呪術者たちが先ほど力牧や刑天たちが倒してしまった化け物たちを赶屍術でよみがえらせてしまうことであった。
あの化け物たちが再び復活すると非常に厄介であった。女丑は弟子たちを呼び寄せると蚩尤が現れた方角と殭屍が現れる箇所から三苗の術者のいる凡その場所を割り出していた。そして手分けして捜索させたが、蚩尤の兄弟が現れたら戦わずにすぐに仲間に知らせるように言った。十巫達と言えども蚩尤の兄弟と戦うのは分が悪かったのだ。
辺りは平野になっていたので隠れるようにして一か所に固まっていた三苗の呪術師たちを女丑は見つけた。しかし、そこには呪術者の護衛として蚩尤の兄弟が一人と九黎族の兵が20人程おり女丑を見ると襲い掛かってきた。
この時女丑は十巫の巫咸とたった二人であった。しかも、一旦退却して体制を整えるには敵が近すぎたのだ。襲ってきた蚩尤の兄弟は女丑に向かって鉄の剣を振り下ろした。その剣を巫咸が風を纏わせた剣で防いだ。そのあまりの衝撃に顔を歪めるが、剣から放たれた鎌鼬が兄弟に襲い掛かっていた。鎌鼬は身体を斬りつけたのではあるが兄弟はダメージを受けておらず、不気味に微笑むと再び巫咸に襲い掛かっていった。その攻撃を身軽にかわしつつも高い防御力に有効打を与えられず、何合か斬り合うと、一呼吸おいて狙いをすまして数陣の鎌鼬を放った。その鎌鼬の内の一つが兄弟の目にあたり、兄弟の動きが一瞬止まった。
この様子に女丑は術を唱えだした。女丑は祭祀が専門であるので攻撃用の術は持ち合わせていない。また、承影では魂によって守られている魄を斬ることが出来ず、生きている者に対しては無効であった。出来ることと言えば、神や神獣の召喚である。女丑はこの危機に自分たちの味方となり戦ってくれる神や神獣を懸命に探した。
するとこれに答えたのが玄冥であった。女丑たちは元冥の召喚に成功し、普段は現世に神性の姿で現れるため神性のない者には姿形は見えないが、今回は実体を伴い現れたのだ。
「ぐるおおおおぉぉぉ。」
実体をあらわした玄冥は嘶くと、攻撃対象をその目におさめた。
玄冥は元々は水と死を司る神獣である。蚩尤の兄弟に向かい巨大な咆哮を上げると、術を仕掛け兄弟の魂魄を抜き死に至らしめようとした。この攻撃に兄弟は苦しみだし、地面に伏せて魂魄を抜かれまいと必死に抵抗した。
この苦しむ兄弟を見た九黎兵と三苗の術者たちは身の危険を悟り逃げ出してしまったため、術が解けて戦場の殭屍たちはそのまま地面に崩れ落ちて二度と動くことは無くなった。
それに応じて望天吼や無支祁を始め、まだ生きていて動ける化け物たちは術が解けて我に返り、散り散りに去って行った。
女丑たちは赶屍術を破ると共に間一髪で三苗の怪物たちの復活を防いだのであった。
戦場では蚩尤と応龍の一騎打ちが焦点となっていた。
先に仕掛けたのは応龍であった。応龍は口から火を吐き、蚩尤を焼き殺そうとした。蚩尤はこの攻撃をすれすれで躱したが躱しきれずに左腕に火傷を負った。しかし、蚩尤はすれすれでかわしながら前進し、屠龍で応龍に斬りかかった。応龍はこの攻撃を盾で受け流したが、返す刀で胴体を斬られた。傷は深くなかったが血が流れ落ちていた。
応龍は尾で薙ぎ払うと蚩尤は屠龍で受け止めたが、あまりの攻撃力に20丈ほど吹き飛ばされた。人間があれほど吹き飛ぶものなのかと、戦いを見ていた者は誰もが思った。
しかし、頑強な蚩尤にはあまりダメージは無く、起き上がると剣を振り上げて凄まじい勢いで向かってきた。
応龍は一計を案じ、蚩尤の行く先に火炎を吐きつけた。応龍の狙い通り蚩尤は飛び上がってこれを躱したが、空中で動きが鈍くなったところに脇腹めがけて尾で薙ぎ払ったのだ。これには防御がとれずに蚩尤は吹き飛ばされ、脇腹を抑えて立ち上がりながら苦悶の表情を見せた。
しかし、筋金入りの蚩尤である。立ち上がると応龍に立ち向かって行った。応龍は再び火炎を吐いたが同じ手は二度と喰らわまいとばかりに上ではなく斜め方向に走り火炎を躱しながら応龍へ近づいてきた。
応龍はその長い尻尾を活かして中距離攻撃を加えてきたが、敏捷な蚩尤は急所を交わしつつ応龍の懐に入り、屠龍による一撃を加えるのであった。応龍は手に持った盾で防ぐも防ぎきれずに傷を負った。しかし、火焔による攻撃は有効で蚩尤の全身を焦がしていた。さらに揚子江鰐などとは比べ物にならない咬合力を持つ顎と、上下に鋭く並んだ長い牙による咬みつきを恐れて、蚩尤は応龍に一撃を加えた後にすぐに後ろへと身を引いていた。
蚩尤は再度応龍を斬りつけ、応龍もこれを受け流したが如何せん、剣と尾の戦いでは剣の方がはるかに技巧で優っている。手に持っていた盾でも蚩尤の攻撃は防ぎきれずに応龍は徐々に全身に切り傷を増やしていった。しかし、蚩尤の剣を躱しつつ火炎を吐きかけることで蚩尤も全身に火傷を負っていた。
接近戦が続いていたが、両者の鉄の武器はすでにぼろぼろとなっていた。応龍も火炎が尽きかけており、蚩尤の顔にも強い疲労が見て取れていた。
応龍は蚩尤の斬撃により全身傷だらけであった。一方の蚩尤も尾の打撃と火炎を受けて立っているのがやっとであった。
周囲でこの戦いを見ている者たちは、互いの敵に攻撃を加えることを忘れてこの伝説的な戦いを見入っていた。信じられないほど強力で高い戦闘技術の応戦であったのだ。
応龍は切り傷による出血で弱っていた。霞む目で蚩尤を見ていたが、その刹那に蚩尤が攻撃を仕掛けてきた。蚩尤渾身の斬撃であった。応龍は反応が遅れ防御が出来ずに死を覚悟した。
この時、応龍の脳裏には軒轅の姿がよぎっていた。自分が生まれて初めて忠誠を誓った相手でしかもひ弱な人間である。あの者に勝利をもたらせずに死んでしまうことに悔いと贖罪の気持ちが沸き起こっていた。応龍は懐に飛び込んできた蚩尤を見ながら、
「すまぬ軒轅王よ、我が主よ…。」
と一言呟いていた。
しかしこの時屠龍は限界に来ており、屠龍が応龍の胴体に当たると鈍い音を立てて折れてしまった。応龍もこの時深々と斬られていたが致命傷は何とか免れていた。
応龍は一旦は死を覚悟したが奇跡が起こったと思い、渾身の一撃で体勢を崩しながらも勝利を確信していた蚩尤に右肩から咬みついた。応龍の岩をもかみ砕く咬みつきは強力で剣の攻撃でも傷がつかない蚩尤の体に牙が食い込み、蚩尤に出血が見られていた。
応龍の咬合はなおも力を増し、突き刺さった牙が次第に体の深くまで突き刺さり、牙の一つが蚩尤の心臓に突き刺さった。
「ぐわあああぁぁぁ!!!」
と、心臓を傷つけられた蚩尤は苦しみながら戦闘不能に陥ったが、限界に達した応龍もそのまま地面に倒れ込んでしまった。
地面に横たわり身動きのしない蚩尤を見て華夏軍は歓声を上げ、対照的に九黎軍は絶望的な悲鳴を上げた。
蚩尤の敗北により涿鹿の戦いの勝敗は決した。戦況を見て風后はすかさず追撃を指示し、倉頡が渾身の力で夔牛の太鼓を打ち鳴らした。
西の戦線ではまだ陸吾と雷華の死闘が続いていた。陸吾はすでに満身創痍であり、雷華が勝利しそうであった。しかし、蚩尤の敗北を見るや否やこの戦いは自分たちの敗北であると悟り、魑魅魍魎軍団に退却の命令を下した。
魑魅魍魎たちはすでに半数以下に減っており、八尾狐が重明鳥により倒されてしまっていた。壊滅的な損害であった。
一方の華夏軍も獬豸が七尾弧に倒されるなど、多くの兵や霊獣を失っていた。陸吾も全身を負傷しており、雷華たちが退却しても追撃する余力はもはやなく、力尽きてその場に倒れ込んでしまっていた。
華夏軍は暫くの間退却する九黎兵の追撃を行っていたが、深追いをしないために常先が夔牛の太鼓を打ち鳴らして全軍を呼び戻した。
軒轅は戦場の喧騒がまだ落ち着かない中、倒れている蚩尤の前に行き蚩尤と言う男をまじまじと見た。不死身と言われる蚩尤は心臓をつぶされてもやがて生き返るであろう。まだ意識の残っていた蚩尤に軒轅は東の国の言葉で問いかけた。軒轅は幼少期に有熊の市場で遊んでいる中で東方の商人たちから東の国の言葉を教わり話せたのである。
「そなたが蚩尤か。私が軒轅だ。」
と言うと、蚩尤は、
「お前が軒轅か、この度の戦い見事であった。」
蚩尤は意外にも素直に勝者である軒轅を称えた。
「なぜ中原に攻め込んだ。九黎では満足できなかったか。」
軒轅は素朴な疑問をぶつけた。
「戦って領地を奪うことに何の疑問がある。男とは、人間とはそういうものではないか。今までもそうであるように、これからも変わりはせんよ。」
蚩尤は人間の持つ闘争本能と欲に従ったまでだと言い放った。
「お主とは戦場ではなく友として出会ってみたかった。」
長く蚩尤のことを考え続けていたため、軒轅は蚩尤に恐怖と共に親近感ももたらしていたのだ。これを聞いて蚩尤は、
「ふん、何を言う。斬るがよい。」
と、余計な感傷は不要とばかりにとどめを刺すように言った。
軒轅は振り向くと、刑天に合図を送り巨大な斧を力牧に振りかぶらせ、思い切り蚩尤の首めがけて振り下ろさせた。すると弱っていた蚩尤の首は胴体から切り離され、遠くへ転がって行った。
敵と言えども偉大なる人物であったと軒轅は蚩尤を認めていた。そして、蚩尤が生き返らないように頭部と胴体を別々な場所に丁重に埋葬したのであった。
胴体が埋葬された場所からは楓の木が生えてきて楓の森が出来たと言うが、蚩尤の頭部は埋葬が済んだ後に墓から飛び出し化け物になってしまった。後の世の人々はこの化け物を饕餮と呼ぶようになった。
軒轅は戦争が終わった後の涿鹿の野に佇みあたりを見回していた。深夜から始まった戦いは昼を過ぎたころに終わりを告げた。夕暮れになり、辺りに清涼感が漂っていた。夕日で感傷的になり、しばらく戦場を見つめ激戦を振り返っていた。
軒轅は戦いに勝利したが、華夏軍の損害も大きかった。軒轅軍の損害は、女神旱魃が離脱し行方知れずとなり、獬豸や犀牛、霊亀など霊獣約50体、主力の龍は19条が死に華夏兵も4000人余り戦死していた。その他にも応龍、陸吾など重症を負っており、怪我をしていない者はほぼいなかった。激しい戦いの勝利の代償は余りにも大きな損害であった。
一方の蚩尤軍の損害は、大将の蚩尤の戦死と蚩尤の兄弟55人の死体が確認されると共に、三苗に操られていた望天吼2体とその他の化け物たち、魑魅魍魎軍団の八尾弧を始め約600体、そして九黎兵が3000人程戦死していた。三苗が操っていた無支祁や鏨歯などは生きておりまだ動くことが出来たので、三苗の術が解けた後に足を引きずりながら何処かへと消えていったのであった。
涿鹿の野は旱魃が激しい日照りを起こしたため、この戦争以降長期間にわたり乾燥し雨が降らなくなってしまい、不毛の大地へと変わってしまった。
応龍は蚩尤との死闘で力を使い果たし、傷を癒すために南方へと行き蟄居してしまった。このため、雨の神でもある応龍がいる南方には雨が多く降るようになったと言う。
天神陸吾と白澤は崑崙山へと戻り、霊獣達も貔貅などを除いては傷を癒すとそれぞれ山へと戻っていった。
人も神も霊獣達も中原の大地も皆傷ついてしまった。皆平和を望んだのであるがその平和には正反対の代償を伴ってしまった。軒轅にとってこれが最も悲しかった。
しかし、軒轅は休んではいられなかった。軍勢を立て直すと九黎へと進軍し、生き残った蚩尤の兄弟を見つけ出して殺し、蚩尤軍の残党と共に平定し九黎を支配下へと置いた。
さらに中原と九黎では魑魅魍魎が危険分子と看做され魑魅魍魎狩りが行われ、多くの魑魅魍魎がこの時殺されたのであった。
この時の軒轅の心中は複雑であった。しかし、情けを見せるとそれが仇となり身を滅ぼしかねない。華夏の未来を見据えるならば、厳しい決断をせざるを得ず戦後処理は徹底した厳しい態度で臨んだのだのだ。
一方で華夏を散々苦しめた三苗族は軒轅に降伏することなく、一族を連れて軒轅の勢力がまだ及んでいない南方の西湘へと逃げ去ってしまっていた。
こうして軒轅は中原のみではなく東方も支配下へと置き、盤石の基盤を築きあげた。周囲には軒轅を脅かす勢力は存在せずに中原のみならず大荒の東を含めた覇者となったのである。
軒轅が東へ進軍している間に、軒轅に帰順しようとするものが多くいた。驚いたことにその中には涿鹿の戦いで軒轅軍を散々に苦しめた風伯と雨師の姿もあった。彼らは神でありながら軒轅に帰順したのであった。
戦いの厳しさと辛さ、そして非情さを知った軒轅33歳の冬であった。




