西王母
北斗よ、世の行く末とは分からないものですね。ん?急に驚いてどうしました?何?蚩尤と軒轅が私の帳簿に載っているか知りたいのですか?普段驚かない貴方が驚くとは意外ですね。どれどれ帳簿をちょっと見てみましょう。……確かに蚩尤も軒轅も私の帳簿に載っています。それがどうかしましたか?え?あなたの帳簿には蚩尤も軒轅の名前も載っていないのですか?それはおかしいですね、それではいつ死ぬか分からないではないですか?それとも永遠に生きるのでしょうか?南斗は生を司り北斗は死を司る。彼らは我らの管理の範疇を超えた存在ですか。その人間たちが同じ時代に現れる、一体人間たちの未来はどうなってしまうのでしょうか。あはは、そうですね、世の行く末は我らの帳簿を見れば分かりますね。どれどれ近い将来に生まれてくるのは何人で死んでしまうのは何人か見てみましょう。ふむふむ、なるほど、北斗よ死に行く人は何人いますか?え?教えてくれないと?ふふ、そうですか、それでは私も何人生まれるかは教えませんぞ……。おっと、九尾虎の陸吾が飛び出していきましたよ、ここ崑崙山に客ですか、それとも侵入者でしょうか。それよりも北斗よ、蟠桃を食べに行きましょうか。今年の蟠桃はひと際甘みがあると評判ですよ。
その日は軒轅の誕生日であった。
冀州城の戦いは厳寒の中行われたが時は過ぎて今はもう春になっていた。数か月前の冀州城の戦い以降、軒轅は休む暇もなく蚩尤との戦いの準備を進めていたのだ。
今日は軒轅も誕生日であるが祝う余裕もなく、軒轅は女丑を引き連れて崑崙山へと向かっていた。それは蚩尤が東方の神々を味方に引き入れていると言う報告を聞き、自分達も神々の力を借りなければ戦いに敗北してしまうのは必定であったため、崑崙山へ行き神々へ助力を願い出るためであった。
崑崙山は西方の神々が住まう聖なる山で、西王母により統治されていた。崑崙山の高さは正確にはわからないが、後世の書物では11114歩2尺6寸とされており、これは現代で言うと15キロメートルほどの高さである。
周囲は険しく、崑崙山へ入る道は九つあり、その道には門が設置されていた。
崑崙山には神が住まうのみではなく、様々な動植物も住んでいた。春先になると蟠桃と言う桃が実り、西王母の誕生日に神々が集まり蟠桃を食べると言う蟠桃会が開催されていた。
西王母の誕生日である3月3日は奇しくも軒轅の誕生日でもあった。
崑崙山には蛟龍や鳳凰、鸞鳥などを始めとして様々な霊獣たちが住んでいたが、普通の動物も他の山に住む者たちとは少々外見が異なり、土縷は羊のような見た目であったが四本の角があり、欽原という生き物はオシドリほどの大きさであったが蜂に似ており、この欽原に刺されるとその毒で木は枯れ生き物は死んでしまった。
沙棠と言う梨に似た実は、人が食べると大海でも水の上に立つことが出来溺れないと言われていた。その他にも真珠がなる木や紅玉の木、不死の木などもあった。
軒轅は女丑と共に崑崙山の入り口である門の前に立っていた。軒轅の心中には西方の神々の頂点に立つ西王母に無事会うことが出来るのかという不安がよぎっていた。
崑崙山の門は獣が守っており、軒轅達を見ると怪しんで警戒しゆっくりと近寄ってきた。
その霊獣は虎の胴体に九つの頭がついており、さらにその頭は人面であった。女丑によるとその霊獣は崑崙山の門番の開明獣とのことであった。
開明獣は軒轅達に近づくと、九つあるうちの一つの顔が口を開き軒轅達に言った。
「ここは聖なる山、崑崙山である。お主たち人間が来るところではない、立ち去れ。」
軒轅はこれに応え、
「私は有熊の王、姫軒轅と申します。西王母にお目通りを願っています。」
と、言い開明獣に深々と頭を下げた。
「それではお主たちは蟠桃会に招かれたのか?」
「いいえ、招かれておりません。今日蟠桃会があることを知りませんでした。」
「それではお主たちを通すわけにはいかん、立ち去るがよい。」
と、開明獣は聞く耳を持たなかった。本来崑崙山は人間が立ち入れる場所ではないのだ。
それでも軒轅と女丑は食い下がり、どうしても西王母と話さなければいけないと頭を下げ続けたのだ。すると開明獣は、その熱意に負け誰かを呼ぶように遠吠えをした。
軒轅と女丑は何が起こるか不安であったが、やがて開明獣が呼んだと思われる天神が崑崙山の上からやってきた。
その天神は虎の胴体であるが人面で九つの尾を持っていた。そしてその身の回りには精霊が纏わりついていた。その天神は現れるや否や軒轅達に向かって言った。
「儂は陸吾と言う。この崑崙山を管理している天神だ。西王母に会いたいと申すか?理由を言うがよい。」
これに対して軒轅は、
「はい。現在人間界は東方の蚩尤が神々と共に中原を侵略しようとしています。このままでは中原は蹂躙され蚩尤と東方の神々のものとなってしまいます。そうなると東方の神々の影響はここ崑崙山にまで及ぶでしょう。このため中原も人間と神々共に力を合わせて蚩尤に立ち向かう必要があると思い参りました。」
と言うと陸吾は、
「なるほどの。じゃが西王母は力を貸さんと思う。なぜなら西王母は神を含めて下界の争いなどに興味がないからじゃ。」
軒轅はこれを聞いていたたまれなくなった。西方の神々にとっても自分達の勢力が衰える危険がある。なぜ自分の言うことに耳を貸さないのかが理解できなかったのだ。
しかし、神とは人間と違い富や領地などに対する欲望がないのである。そのため、神同士で大きな争いになることはあまりなかったのだ。
大規模な戦いを起こしてお互い傷つけあうことに意味など見いだせないのである。一方の人間は命を懸けて領土を奪い宝物を奪い常に醜く争っているのである、他人の命よりも自分の欲の方が大事であるという人間に対する興味はほとんどないのが現実であった。
このため、東方の神々の風伯や雨師などは人間に近いと言える。現に両者とも大昔は人間であり、長い年月をかけて神の領域にまで到達した稀有な存在であった。ただし、彼らの欲望は自分の術を存分に行うことであり、もはや領土や宝物などには興味はなかった。
他方、軍神となっていた蚩尤は戦うことに生きがいを見出してしまった厄介な存在であったのだ。
中原を守ると言う大義のある軒轅はここで引き下がることも出来ず、西王母に会うまで何日でもここに居座る覚悟でいた。すると遠くから聞き覚えのある声が聞こえてきた。それは桂花の一件で常先と共に家を飛び出したときに出会った白澤であった。
白澤は陸吾に言った。
「陸吾殿、あの者を一度西王母に会わせてみてはどうかな?お主も感じているように土徳の持ち主じゃ、西王母に直々に判断してもらうのがよかろう。」
これを聞いて陸吾は少し考え、
「ふむ、白澤よ、そのように申すか。白澤よ、そなたが言うなら西王母に会わせてみようかの。良かろう、軒轅とやら門を通るがよい。」
と軒轅を西王母に会わせることにした。
これを聞いて軒轅は緊張の糸が解け安心感が襲ってきて全身の力が抜け倒れそうになったがこれをこらえ、懐かしい白澤の下へ行き深々と頭を下げて礼を言った。白澤は、
「久しぶりじゃの。お主の様子は時々見ておった。しかし、あの蚩尤と言う者はもはや戦神となっておる、そのため様々な東方の神々が戦神である蚩尤に従っておるのじゃ。今回は相手が悪いと言わざるを得んの。それでも戦うか?」
軒轅は言った。
「はい、蚩尤との戦いは避けて通れません。中原と華夏の民を守り末永く発展させる礎を築くことこそが私がこの時代に生まれてきた意味であることを今はっきりと理解しています。」
これを聞いて白澤は大きく頷くと、
「それにしてもお主の傍におるその女、なるほどのう、これは太古の神性じゃな。まるで大昔の人間を見ておるようじゃ。」
と女丑の持つ高い神性を感じ取って言った。
「西王母の下に行くがよい、お主達ならもしかして西王母を説得できるかもしれんな。」
白澤は言い、軒轅達を送り出した。
軒轅達は陸吾に連れられて険しい山道を登ってゆくと、次第に笑い声が聞こえてきた。今は蟠桃会の最中で、宴会には多くの天神や山神が集まっていた。
軒轅達は西王母たちが蟠桃会を終えるのを待つことにした。
しばらくすると徐々に天神達の数が減り、日が暮れかかると誰の合図があったわけでなく蟠桃会は終了していた。
天神達が帰り、崑崙山の西王母の宮殿は昼間の喧騒と打って変わって静まり返り、斜めから指し込む西日を宮殿を支える多くの柱が遮り影を作っていた。
陸吾は軒轅達を連れて西王母の前へと向かった。西王母の容貌は人と同じであるが、豹と同じ尻尾を持ち、口には虎と同じ牙が生えていた。西王母は小さな机にもたれ掛かっており、頭には玉勝を乗せ、首には玉製の首飾りを下げていた。そしてそのそばには三羽の青鳥がいた。
西王母は陸吾に気が付くと陸吾は西王母に軒轅を紹介した。西王母は、
「そなたは軒轅と申すか、今日は何用じゃ?」
と言うと、軒轅はこれまでのいきさつを話し、人間界のみならず西方の神々の危機でもあることを説き、共に蚩尤に立ち向かう必要があるため助力して欲しいと言った。しかし、この軒轅の熱意に対して西王母はそっけなく、一言、
「下界のことには興味がない。」
と言っただけであった。
西王母の傍らには長い黒髪の美青年の姿をした神と、白髪を伸ばした老人の姿の神がおり、話をしていた。
「北斗よ、人間は戦いが好きなようだ。これから忙しくなるぞ。」
と、美青年の神が老人の神に聞くと、
「これは難儀なことじゃな、南斗よ。どれどれ、ちょっと調べてみるか。」
と、北斗という老人の神が何やら帳簿を取り出して調べ出した。
「ふむふむ、これから大勢が死んでしまうようじゃ、南斗よ。」
と言うと、
「では私も調べますか、どれどれ。」
と、南斗と言う神も帳簿を取り出して何やら調べ出した。
「これはこれは、あなた同様に近い将来私も忙しくなりそうですよ。」
と、南斗はニコニコしながら話した。
「軒轅とやら、そこにいるのは北斗と南斗じゃ。北斗は死を司り、南斗は生を司るのじゃ。彼らには人間の生と死を見ることが出来るのじゃ。」
と西王母は言ったが、軒轅にとっては今はそのようなことを考える暇はない、西王母の話を上の空で聞きながら軒轅は言葉を尽くして必死の説明し華夏の窮状を訴えた。しかし、軒轅の思いとは裏腹に西王母の回答は全く変わらなかった。これを見て陸吾は、
「軒轅とやら、西王母のお考えは変わらんようじゃ、そろそろお帰り頂くのがよかろう。」
と、軒轅に退出を促した。この時、軒轅は焦燥感にとらわれており、額から大量の汗が流れ落ちていた。ここで引くわけにはいかないが、西王母を怒らせる訳にもいかない、あきらめようと思ったときに女丑が口を開いた。
「西王母様、私は有熊の巫術師の女丑と申します。以前ある巫術師から太古の人間は神聖な山に登り天と地に感謝を捧げたと聞きました。しかし、現在ではその儀式は行われておりません。我々に助勢いただけますと、この儀式を再び執り行い天と地に深く感謝すると共に神々を称えましょう。」
と言った。軒轅はこの女丑の提案に効果があるとは思えなかったが、意外にも西王母は考え込んだ。西王母は古い記憶を呼び起こしていた。それは傍に控えていた陸吾も同じで、遠い昔の仙人と呼ばれていた人間たちと過ごしていた日々であった。
あの頃は人間たちと心が通い合っており楽しい日々であった。そして人間たちはよく山に登り天と地に祈りを捧げていたのだ。しばらく考え込んだ後に西王母は口を開いた。
「封禅の儀を行うと申すか…?ふむ、お主たちなら封禅の儀が執り行えるであろうな、良かろう。封禅の儀を復活させることを条件にお主たちに助勢をしよう。陸吾、お主も異存はないな?」
そういうと陸吾も、
「異存ありません。しかし、封禅の儀とは懐かしいですね、いつ以来でしょうか。」
「うむ、封禅の儀とな。今の人間に行えるとは思わなかったがこれは楽しみじゃ。」
と西王母は封禅の儀を懐かしみ微笑んだ。側にいた北斗と南斗の他にも多くの神々が懐かしそうに封禅の儀を思い出して微笑んでいた。
封禅の儀とはこの世の理を正しく送らせる儀式であり、女媧による創世以来、人類と神々にとって非常に大切な儀式として実施されていたのであったが、いつの頃かこの儀式は行われなくなって行った。
「おお、女丑よ…、な、なんと感謝をしたらいいか分からぬが…、そなたのおかげだ。感謝いたす…。」
軒轅は女丑の顔を見ると感謝のあまり涙が出て頬を伝いぽたぽたと床に落ちていた。最後に泣いたのは確か家を出て桂花の下へと行こうとして危うく大鴻を自害させかけた時だったであろうか、しかしこの時は安心感で涙が止まらずに西王母の前にもかかわらず周囲を気にせず泣き崩れた。
それは中原と華夏の民を守ると言う重圧を常に一人で背負ってきた軒轅が、西王母と言う最大の同盟者を得ることで強い安心感が襲ってきたからである。
「さあ、軒轅様。」
と女丑は軒轅に優しく語り掛けると軒轅は女丑の肩を借りてやっとの思いで立っていた。
「そなたらの助勢を買って出る神がいるかどうかわからんが、探してみるかのう。」
西王母は早速宮殿の中で華夏の助勢をする神がいないか探した。すると一人の女神が手を挙げて自分が行くと言った。
その女神は旱魃と言い、日照りの女神であった。旱魃は年若く非常に美しく、長く黒い髪を腰まで伸ばしており、肩には青い衣を羽織っていた。西王母は旱魃を見て、
「ほう、旱魃か、お主が中原に加勢すると申すか?」
と言うと、旱魃は、
「はい、私が加勢いたします。以前より人間の苦境を目にしておりいつか人間の助勢をしたいと思っていました。今がその時だと思います。」
と言った。旱魃は神には珍しく人間思いで優しさを持っている神であった。西王母はこの旱魃について軒轅達にこのように紹介した。
「旱魃は崑崙山一の術使いじゃ。その術でそなたらを大いに助けるであろう。しかし一風変わった女神でもあり、人間に似て弱いものを助けようとするのじゃ。まあ、その方が人間たちとの相性もよいがの。」
旱魃は軒轅に近づき、挨拶をした。軒轅は泪で霞んだ目で旱魃を見た。西日が微笑みを湛えた旱魃の美しい顔を照らし出してオレンジ色に染めていた。すると軒轅は再び崩れ落ち、旱魃の足元にすがるようにして何度も何度も感謝をした。
その他にも九尾狐の陸吾や白澤、九天玄女など数名の天神と神獣が助勢に名乗りを上げ、この日を境にして華夏の軍勢に崑崙山の神々が加わったのであった。
西王母は戦いに備えて軒轅に幾つか贈り物をした。その中には多くの神々によって昆吾山の岩盤から抽出された紅銅や、泰山の南烏号の柘と、燕牛の角、茨鹿の弓弭、川魚のにかわで作られた落星弓、影のみの剣身を持つ承影と言った神々の武器などがあった。
軒轅軍、否、中原連合軍と言った方がもはや正確であろう、の戦力は遂に整った。この戦力であれば蚩尤と戦うことが出来ると軒轅は確信していた。
崑崙山に差し込む夕日が眩しかった軒轅32歳の誕生日であった。




