青丘山の九尾狐
待って、待ってよ。行かないで、風華!風華を連れて行かないで、風華を殺さないで。お願いよ。なぜ風華を殺さなければならないの、殺さなくてもいいじゃない。放せ、私に触るな!風華、行かないで。風華ー。
……ああ、今晩もあの夢を見たか。今でも時々夢を見る。記憶は忘れるから苦しみを忘れ生きていけると言うが、忘れない記憶を持つと言うことは悲劇でしかないな。風華よ……。この世に記憶をなくす薬などあれば飲んでしまいたいものだ。またあの夢だ。あの夢を見た後は何とも気分が悪い。里に下りて人間でも喰らうか、それもいいな。人間どもめ、どこまで私を苦しめる、仲間たちを殺して楽しいか?ふっ、私も人間を喰っているのでお互い様という訳か。いや、そうは行かぬだろう、あいつらはやがて我らを滅ぼしかねないぞ。あの巫術とかいう術は厄介だ。ああ、雪が降る。しんしんと降り段々積もってゆく。いっそのこと私の悲しみも覆い尽くしてくれ。
青丘山には中原中から様々な魑魅魍魎が集まっていた。
青丘山は中原の南方にある鵲山山系に属し、山系でもひと際山岳の奥にあった。山の至る所にはがけ崩れが見られ岩肌が露出しており、木々には常緑広葉樹が多く一年を通して緑が見られていた。
青丘山の山中には雉に似た灌灌という鳥がおり、その羽毛には不思議な効力があり身に着けると嘘やまやかしに惑わされなくなると言う。
この山から英水という澤が南方へと流れ翼澤に注いでおり、この澤の中には人面の魚である赤鱬が住んでおり鴛に似た鳴き声を発していた。この魚は薬効を持っており、食べることで疥癬の治療として使用されていた。
青丘山の南面からは翡翠が多く産出され北面からは青雘と言う青色の鉱物顔料が豊富に産出されていた。
このため深い山中にもかかわらず灌灌や赤鱬や翡翠を求めて人間が青丘山の山中へと入っていくが、戻ってこないものも多く青丘山は猟師たちの間では足を踏み入れれば戻ってこれない恐ろしい山であると口々に囁かれていた。中には狐の化け物を見たという者もおり、よほど生活に困った者か命知らずのみが山中へと入って行ったのだ。
石や木、蛇などが深い山中で長い年月が経過すると次第に妖気を帯びていき、いずれ妖怪になる。これが魑魅魍魎であり、様々な種類がおりすべてひっくるめての呼称であった。魑魅魍魎の中には知能が低い者から高い者、狂暴な者から臆病な者まで様々であり同じ蛇からなった魑魅魍魎でも異なる能力を持っていた。
魑魅魍魎はこちらから手出ししなければ襲ってくることもなく比較的おとなしい妖怪が多いのであるが、中には非常に凶暴な者のもおりこのような怪物は人間たちに討伐されていた。
人間たちの間で語り継がれている怪物との戦いの伝説はこの魑魅魍魎と戦った時の内容が語り継がれ伝説と化しているものが多くあった。
この多種多様な魑魅魍魎の中でも特に狐の魑魅魍魎は特別な力を持つ場合が多く、その能力は尻尾の本数として現れていた。尻尾は普通の狐では一本であるが、魑魅魍魎になるとその本数が増え、さらに能力に応じてもその本数は増えていき九本の尾を持つ者は非常に高い神性を獲得しており魑魅魍魎たちの頂点に立っていた。この九本の尾を持つ狐の魑魅魍魎は九尾狐と呼ばれここ青丘山に住みついており、その高い能力と知性で魑魅魍魎たちの盟主として仰がれていたのであった。
九尾狐は時に青丘山に迷い込んできた人間を騙し喰った。その鳴き声は赤子の泣き声に似ておりこの声を訝しく思い近づいてきた者を襲っていたのだ。
周囲に住む人々は青丘の山では時に人が行方不明になると恐れており、山には魔物が住んでいるとして近づかなかった。そのため九尾狐が喰うのは大抵山に迷い込んでしまった赤鱬の漁師や賊などであった。
九尾狐は普段は青丘山の山中の深くに住んでおり喰う以外には特に人間との交わりは無く、静かに暮らしていた。しかし、ここ最近は人間が山に入ってくることが多くなっていると感じ幾何かの不快感を持っていた。
魑魅魍魎たちが青丘山へやってきた理由はこの魑魅魍魎の盟主である九尾狐の下へと集まっていたのだ。
九尾狐は考え込んでいた。容姿は14、5歳位の人間の少女の姿をしており、作られた美しさと言うべきか均整の取れた完璧な美貌であった。
全身には黒子どころか染み一つなく白い歯に歯並びはよく、髪の毛の艶や軟らかさから肌の色の白さまで身体のパーツの何をとっても人間以上に美しく、これによりどこか人間離れした美しさを醸し出していたのだ。そして、この美しすぎる容姿は九尾狐の変化の術の能力が非常に高いことをも示していた。
九尾狐は名を雷華と言った。雷華は悠久の時間を生きており、もう何年前に狐として生きていたかを本人も忘れてしまっていた。神農氏が生きた時代よりもはるか前に魑魅魍魎になっており、神農氏を何度か近くで見たこともあった。
雷華が妖怪となった時代は人々はより神に近く強い神性を持っており、雷華はこの頃の人間にあこがれていたのだ。そのころ出会った一人の少女と特に仲が良くその姿を思い出して今でもその少女に化けているのであった。
魑魅魍魎になりたての頃は毎日少女と共に術の鍛錬に明け暮れていた。あの頃は人間たちとも仲が良く楽しかった。しかし、最近ではすでに術を極めてしまっており鍛錬する必要すら無くなっていたことに加え、人間たちの神性の衰えと共に次第に距離を感じるようになって行き、人間に対する興味を失っていった。そしていつしか人間を餌として見るようになって行くと共に人間たちから離れて山中で暮らすようになった。
雷華は眼前でざわついている魑魅魍魎たちを見渡した。その中には人間の姿をしている者もちらほら見受けられ、大きな者から小さな者まで様々であった。また、変化した物の特徴を強く持っている者や何から変化したのかすらもわからない者もいた。
これらの魑魅魍魎の中には少典や軒轅達によって撃退された相柳と共にいた七尾弧を始めとしたあの魑魅魍魎たちも混じっていたのであった。
雷華は八尾弧と七尾弧を左右に据えて自分は倒れた木に腰かけていた。その雷華たちを前にして魑魅魍魎たちは盛んに議論を戦わせていた。
現在彼らたちには危機的状況に置かれており、激しく議論を行っているのは生存をかけた戦いが始まると感じてのことであった。元々魑魅魍魎と人間は対立する間柄であった。その原因の一つには魑魅魍魎の中には雷華のように人間を喰らう者がいる上に、魑魅魍魎たちの攻撃性と異様な見た目も相まって華夏の人間からは敵対心を持たれていた。
また、華夏の人間たちの行う巫術も魑魅魍魎たちにとっては非常に相性が悪く、巫術で攻撃されて命を落とす者や正体を暴かれる者も多くあったからである。
魑魅魍魎の中には人間の中に混じって暮らしている者もおり、大抵は知能の高い者で学問を好んでの事であった。そのような魑魅魍魎は平和的で争いは好まないのであるが基本的に変化の術を使って人間に化けているために雷華のようにどこか人間離れした雰囲気が付きまとい、不幸にも巫術師により正体を暴かれて殺される場合もあった。
そんな中にあって多くの魑魅魍魎たちはなるべく人間との摩擦は避けようと人間と出会わないような深い山中で暮らす者が多かった。しかし、農業の発展と経済活動の活性化により様々な資源を求めて深い山中へと踏み込んでくる人間が多くなり、それに伴い人間との衝突も増えていった。
人間は魑魅魍魎と相対すると一人では恐れて逃げ出すのであるがその後仲間を引き連れて退治にやってくるので魑魅魍魎たちは山中で人間一人に出会ったら口封じのために殺すようになっていたのだ。
このような状況であったので人間による魑魅魍魎狩りが行われても不思議はなく、華夏族がまとまりはじめた上に、その巫術が日増しに強力になっていくことも感じ取り華夏族に対して危機感を持っている者が多かった。
さらに相柳に従っていた者たちからは魑魅魍魎の天敵である重明鳥が人間側に味方したとの報告もあり、魑魅魍魎たちには住みにくい世の中になるように時代が変わりつつあったのだ。
中原の魑魅魍魎の首領である雷華もこの時考えていた。自分が人間如きに殺されるとは思ってはいなかったが、急速に勢力を拡大している軒轅を知るにつれて自分を含めて魑魅魍魎の存在を脅かす人物であると感じ取っていた。
蚩尤との戦いで軒轅が勝利するとその後は人間の敵である魑魅魍魎狩りを行うことは目に見えている。
そして軒轅達が強力な巫術師をはじめとして自分に対抗しうる存在である重明鳥を始めとした霊獣軍団を引き連れてやってくると殺されかねない状況なのであった。
「あの憎き華夏の人間どもと重明鳥。この前の恨みは必ず晴らす。」
と、薄らと全身に緑色の光を揺らめかせながら口元の鋭い牙を光らせて七尾弧が憎しみを込めて言うと、
「そうだ、七尾弧の言う通りだ。重明鳥に怯え逃げる生活はこの八尾弧が終わりにしてくれよう。」
と、雷華に次ぐ実力の八尾弧は掌から炎を燃え上がらせながら気勢を上げた。八尾弧の目は真っ赤であり掌におこした炎を反射させながら妖しく光っていた。両者とも細い長身の若い男の姿をしており、髪の色はそれぞれ七尾弧は銀色、八尾弧は深紅であった。
「しかし、あの龍や霊獣たちに勝てるのか?山で遇っても俺たちが逃げてばかりじゃねぇか?まともに戦って勝てる相手でもあるめぇし。」
と、悲観的な意見も出ていた。
自分達が生き残るためにはどうすればいいか、魑魅魍魎たちの主張は二つに分かれていた。一つは戦わずに山中に潜み人間を避けてひっそりと暮らしていくことで、もう一つは華夏族の敵である九黎族の蚩尤に味方し華夏族を滅ぼしてしまうことであった。
華夏族も九黎族も同じ人間ではあるが、九黎族の方が魑魅魍魎との相性がよく戦後は互いに干渉せずに生きていくことが出来るという主張である。現に古くから九黎族と魑魅魍魎は付きつ離れずの間柄であった。
魑魅魍魎たちにとって最も相性が良いのは三苗族の呪術であり、呪術により魑魅魍魎たちの力を高めることすらできるために、三苗族の領地には多くの魑魅魍魎たちが住んでいた。呪術を行う民の三苗族にとっては魑魅魍魎とは力を貸してもらう対象であったのだ。
さらにこの主張を支持するように蚩尤軍の傘下に三苗族が降ったことが盛んに取りざたされていた。
雷華はこの集会の大分前に蚩尤へと使いを送っていた。雷華の望みは堂々と人間を喰らうことであり、戦後は自分たちに干渉せず定期的に人間の生贄を捧げ人間たちに崇め奉らせることを事を条件に蚩尤軍への協力を申し出ていたのだ。この返答が来るまでは結論は先送りにされていたのだ。
この日に蚩尤からの返答を持った使いが返ってきた。蚩尤は定期的に生贄を要求してきた雷華の申し出に同意した。戦後は魑魅魍魎たちに生贄を捧げると共に不干渉でいることを認めることは蚩尤にとってみれば生贄など罪人や反乱者を引き渡せばいいだけで特に困る条件でもなかったし、九黎族にとっては魑魅魍魎は古くから共に暮らしてきた間柄でもあったので中原の魑魅魍魎たちが味方に付くのであれば安い条件であった。
この蚩尤からの同意を受けて雷華は座っていた倒木から腰を上げ、小さな口を開いて鈴の音のような澄んだ高い声でその場にいる魑魅魍魎たちに向かって自分の考えを話し出した。
木々の間から斜めに指し込む陽光が雷華の顔を照らし白い歯に反射して輝いていた。しかし、雷華が興奮して力が入るとその歯が鋭く伸びていたことに近くにいた者たちは気づいていた。
雷華にとってはこれまでが退屈であった。これまでは自分やその仲間を守るために人前へ出ることを極力避けてきたことに加えて、自分を滅ぼしうる力を持った崑崙山の天神達が出てくると非常に厄介で殺される危険があったからだ。
それに人間に対しては今は餌以外には興味はなかったが、神々を巻き込んだこの戦いに身を投じることで永遠に続くと思われた退屈な日々から抜け出すことが出来るとも思っていたのだ。
今回の参戦で久々に自分の全能力を開放し暴れる事を考えるとついつい興奮して口元が緩み牙が伸びた。
その笑顔は内心の激しい衝動とは裏腹に少女の悪戯っぽい非常に可愛いらしい笑顔である上に時折小刻みにぴょんぴょんと上下に飛び跳ねるなど、尖った牙を除いてはまさに少女の仕草そのものであった。
「異存のある者は居るか?」
雷華が少女の高い声で言った。しかし誰からも反応はなく雷華は言葉をつなげ、
「それでは蚩尤殿に助勢して華夏の人間どもを狩るがそれでよいな。」
と言った瞬間に周囲の魑魅魍魎たちは大声で叫び沸き立った。
「よろしい。今夜九黎へ出発するのでついてまいれ。」
こうして中原の魑魅魍魎たち800体は九尾狐の雷華を大将にして九黎の蚩尤側につき戦うこととなった。
雷華たちは夜になると青丘山を離れ山中を通り北東の九黎の蚩尤の砦へと向かった。元々山中に住んでいたので倒木や岩石程度は魑魅魍魎たちの足止めにはならずにその行軍は素早かった。
軍団には雷華を初めてとして九尾狐に能力が近い八尾狐や七尾狐に加えて、また獰猛な者には虎や熊の魑魅魍魎もいた。珍しい南方の揚子江鰐の妖怪もおり二本脚で立ち身軽に走っていた。これらの妖怪は人間では太刀打ちが難しく蚩尤の兄弟に匹敵する戦闘力を持っていた。これを踏まえると戦力は蚩尤とその兄弟の数により九黎族の方が高いがそれでも蚩尤軍に近い存在であった。この魑魅魍魎軍団が蚩尤側につくことは軒轅としては悪夢であった。
魑魅魍魎が蚩尤に味方したという知らせは九黎に放っていた斥候によりすぐさま軒轅にもたらされたのであった。これを冀州城への行軍中に耳にした軒轅の顔から血の気が引いた。普段は冷静な風后の額には汗がにじんでいた。そしてこの冀州城の戦いには何としても勝利しなければならないと強く思った。
もしもここで敗北してしまうと、この冀州城を拠点に蚩尤軍は中原の東方に着々と勢力を築いていくことは容易に想像できたからであった。そうなってからでは対処が難しくなってしまい、長い戦乱が訪れ苦しむのは華夏の民である。それは何としても避けたかったのだ。
風后は蚩尤の戦力を分析していた。力牧が蚩尤の兄弟を3体殺していたので蚩尤の兄弟の戦闘力は大体把握していた。九黎族の兵との戦いも長く、その強さも身にしみてわかっていた。この軍隊相手に奇襲戦法でもこの程度の損害で済んでいたのが奇跡だとも思っていた。この九黎族にさらに不気味な三苗族と魑魅魍魎軍団、そして東方の神々が味方するのである。
一方の華夏部族連合軍は人間主体であり歩兵の数では九黎部族連合軍に勝り、これに加えて龍族と霊獣軍団が味方していた。強力な龍たちは大きな戦力であり最強の龍である応龍も味方に付いている、霊獣たちも一騎当千の強者達である。しかし、風后には常に強い不安があった。それは人間たちの戦力が極端に低いことであった。
力牧のような神性の高い男は別として華夏の兵は装備や戦闘能力のみならず、闘争本能自体が九黎族の兵よりも劣っているのである。この弱兵を何とか戦えるような強兵としなければならないと内心かなり焦っていた。
雪がちらつく軒轅31歳の冬であった。




