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華夏神話  作者: 芒果 (Mango)
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軒轅誕生

一つ、また一つと桃の蕾が開いていた。まるで人間の命がこの世に誕生するかのように美しく咲き誇り、春先に芽吹いた若葉が枯れ落ちてしまった木を一気に彩っていた。人間の生は泥の混沌から生まれ、その意識は時間と空間を越えて受け継がれて生の営みがいつ終わるともなく続いていた。


人は創造神女媧により創造された。女媧がこの世を作った時に、黄河の畔へ行き水に映る自分の姿を見て自分に似せた生き物を創ろうとした。そして黄河の川底の泥を掬い取って自身の神性を混ぜながら捏ね、手が出来るとその手は動き出し、足を作ると一人で歩き出した。最初は失敗して、犬や豚などが創られたのであるが、やがて泥を捏ねるのに慣れてくると、泥人形は次第に大きくそしてより人間らしくなって行ったのだ。伝承では、女媧は天地が出来た一日に鶏を創り、二日目に犬を創り、三日目に豚を創り、四日目に羊を創り、五日目に牛を創り、六日目に馬を創り、七日目に人を創ったという。


この頃の人間は女媧の神性を練り込まれていたために神々に近い非常に高い神性を持っており、初期の人間と神は近い存在であった。神とは神性そのものに意識を吹き込み創り出されたために、初期の神々は実体を持っていなかった。やがて神々の中にも実体を持つ者が現れた。


初期の人間は高い神性を持つと共に、その出来たての大地にも神性が溢れていたために大地は潤い凍えることもなく、木々には緑や青、赤や紫といった多種多様の果物や木の実が一年中実を結んでいた。


神性の高い者たちはそもそも食によりエネルギーを得る必要がなく、神性が低い人々や猛獣、霊獣達も山の恵みにより十分な食を得ることが出来ていたので森に棲む者たちは互いに争う理由もなくただ穏やかな時間が流れ、人間は自分達を山の人という意味で仙人と呼び自然の中でゆったりと暮らしていた。


しかし、人間は交配を重ね子孫を残すたびに徐々に神性が失われていき、その内に神性を持たぬ人間が生まれるようになり、現在では神性を持つ者の方が圧倒的に少ないという状況になっているのである。また、時間の経過とともに人間の神性のみではなく大地の神性も減少していき、大地の神性も枯れつつあったため、平地では食料となるような木や草は山中ほどには育たなかった。


その一方で深い山にはまだまだ神性は残っており山神も多数住んでいたので非常に豊かな実りを与えていたが、そのような場所には例外なく魑魅魍魎ちみもうりょうや龍、霊獣、猛獣たちが住み着いていた。豊かと言っても昔に比べて森の生産性も低下していったので、人間は腹をすかせた猛獣などにより食料にされることが増えたため、人間は身の危険を感じていつしか平野部に追いやられて生きていかざるを得なくなっていた。山を追い出された人間はこの様にして平野部へと逃げるように移り住み、水辺の周りに邑を作り農業を行うようになって行ったのだ。


しかし、人間も平野に追いやられたまま黙っていたわけではなく、森を焼き払って平地にしてしまおうとした者もいたが、例外なく異変を察知した魑魅魍魎や猛獣の襲撃を受けて多大な被害を出していた。


この様に、山間部は今では人間にとっては危険が溢れる場所であったのだが、一方で人間の好奇心や欲望を満たす様々な珍しい食料や薬、鉱物、玉璧などを得ることが出来る魅惑的な場所でもあったために、逆にお宝を求めて魑魅魍魎の徘徊する山中へと果敢に踏み込んでいく者たちが後を絶たなかった。この時代はこの様に人間のみではなく霊獣や神々も住む世界であったのだ。


涿鹿の戦いから時は少々さかのぼるが、有熊の都で一人の子供が誕生しようとしていた。


父親は姫姓で名を少典しょうてんと言い有熊の領主であった。母親は附宝ふほうと言った。有熊は黄河の中流域の南岸に位置し、黄河の支流の一つが有熊を流れており、この河は姫姓に因み姫水きすいという名で呼ばれている。


少典の系譜は三皇の筆頭である伏羲ふっきを祖先に持つ由緒正しき家柄であり小国であったが確固たる存在感を周囲に示していた。


有熊の都は人口が一万人ほどおり小国でありながら周囲の都と比べてもその規模は大きく、大部分を平野が占めていたために農業が盛んに行われ、あわきびが主要な生産品であった。


粟と黍は単位面積当たりの生産高は低かったが黄河の氾濫がもたらした肥沃な土壌の恩恵を受けて有熊に住む一万人の民衆を養うのに十分な量を収穫できていた。


有熊の都は交通の要衝に作られており、西方と東方をつなぐ大きな街道と南方から北へと向かう街道のぶつかる地にあり、交易のために行きかう商人たちを相手にした宿場がそもそもの都の始まりであった。


商人と言う言葉はこの時代にはまだなく、商人と言う言葉自体は商王朝の始祖である王亥おうがいに由来している。商人とはもともとは商族の人間を指していたが、商族は商売が上手く他の民族から嫉妬などを向けられていたこともあり王亥は家畜の売買の際に有易族ゆういぞくに殺害されて家畜を奪われるという悲劇の伝説が残されている。


この地では東方の海岸地域から塩や干した魚、貝、甲殻類などが西方に運ばれてきて西方からは山岳地帯で産出される玉璧や平野部で栽培された穀物などが送られることで交易が成り立っていた。


とりわけ珍重されていた品物には尽きることなく燃え続ける上半身が人で下半身が魚の鮫人こうじんの脂や鮫人の落とした涙が変わったと言う真珠、そして食べると様々な病気が治ると言われている風狸ふうりの肉、不老長寿の源と言われているキノコのような肉の塊、視肉しにくなどがあった。 


視肉は深い山中でまれに見つかるが、一部分を切り取っても時間とともにやがて元に戻ってしまう。大きな視肉は太歳たいさいとも言い、栄養分が豊富であり部族の首領が好んで食べていた。この視肉とは今でいう粘菌の一種であるが、山の神性を吸い取って巨大化したものである。


さらに一風変わった商品に水などの液体に混ぜて暗殺に用いると言う鴆鳥ちんちょうの毒などがあり時折みられた。


鴆鳥の毒は鴆毒ちんどくと言い様々な文献にその記述が見られ、中国史上において幾たびも暗殺に用いられた毒である。鴆と言う鳩ほどの大きさの鳥の羽には猛毒があり、鴆鳥の巣付近には草一本生えなくなるという。


鴆は高さ数丈ほどの毒栗と言う木の上に営巣することを好んでいるが、これは他の木では巣を掛けた後すぐに木が枯れてしまうからであり、鴆の毒に耐性を持っていて枯れない木は毒栗くらいしかなかったためにこの木に営巣するのであった。


毒栗は実に猛毒があり、間違って人や家畜が食べると命を落とすこともあったが、鴆はこの毒栗の実の猛毒をものともせずに好んで食べていた。鴆の住んでいる毒栗の木の下の石には例外なく黒い斑点と亀裂が入っており、通りがかる人々は目や鼻などの粘膜を刺激する異臭と共にこの奇妙な斑点を目にしたのだ。これは鴆の糞により石が腐食されてできたものであり、周囲に近づく動物は強靭な猛獣を除いていなかった。


鴆毒を作る際、鴆の羽のみではなく鳥兜とりかぶとなどの毒物も使用しその配合には医学的な知識を必要とした。


しかし暗殺は他人から蔑まれる行いのためこの毒を作り使用するものは鴆者ちんしゃと言い軽蔑と恐怖の対象となっていた。このため鴆毒を扱う商人も悪評を恐れて布で顔を覆っている場合が多く素顔を見せたがらなかった。


鴆は南方に生息しているため、鴆毒は南方の商人よりもたらされていた。


この時代には医学はまだまだ未発達であったが、火徳を持つ神農氏しんのうしの誕生により大幅に発展したのだ。神農氏は嘗百草と言い、植物を嘗めることで毒草か薬草かを見分けることが出来たために、神農氏により多くの薬草が発見された。つまり、この時代にはすでに薬草に関する知見は豊富にあると共に、伏羲により創り出された万物の理論である八卦を用いることで様々な説明がなされ、八卦を通して医学が理解されつつあったのだ。


市場の雑踏を行き交う商人の見た目も西方の商人は中央アジアの顔立ちに近く、東方は南方より黒潮など海流を乗り継いでやってきたマレー人の容貌を受け継ぎ浅黒い肌の色をしていたので商人たちの見た目で出身地が分かる場合が多かった。


もちろん話す言葉も異なっていたが、交易に長期間従事している腕利きの商人は西方と東方の両方の言葉を話すことができる者も多くいた。


東西の言葉は全く別の言語体系に属しており、別系統の言語であった。しかし同じ系統の言語であっても少し場所が離れると徐々に言葉の発音や言い方などが変わって行くため、千里も離れると全然別の言葉に聞こえてしまうことも多々あった。このため商人たちは意思疎通を円滑に行う目的で共通の言葉を話すようになり、それが西方ではここ有熊も属する炎帝の治める部族連盟の言葉であり、東方では九黎族により話される言葉であった。


南方からは珍しい果物や野菜などがもたらされるとともに少量だが不思議な穀物ももたらされていて、それらの穀物は中には有熊の地でも種をまくだけで育てられる穀物もあったが、種をまくだけでは育てられない穀物もあった。そのどうしても育てられないと言う穀物は真っ白い実を持つ米と言った。米は少量しか手に入らなかったが、茹でると香ばしく東方の海で獲れた魚の干物などと一緒に食べると非常に美味しく米を食べることは少典の楽しみとなっていた。


しかし、この米と言う穀物は春先の雨後に地面に種を撒くと芽が出るが、その後は芽が出たにもかかわらずやがて枯れてしまいどうしても育てることが出来なかったため時々南方から送られてくる米を待つしかなかった。


米は広大な長江を渡りさらに南に二千里(800キロほど)ほど行った雨の多い暖かい土地で作られており、育成には大量の水が必要であったことを知らなかった北方の人々は米を育てることが出来ず、また遠方であったため米の育成には水が必要であると言う情報も伝わらずにただいたずらに種籾を失うばかりであった。


しかし、有熊の領主の少典はこの米をいつか栽培したいと考えて屋敷の庭の片隅で他の穀物と共に米の種を撒いてはその都度栽培に失敗していた。


この時代には文字の原型はあったが紙などは無かったために記録する媒体に乏しく、また、数は石や小枝の数などで数えられていた。このため、商売ごとの約束は口約束となってしまうので自分の言葉に責任を持てる商人が重宝された。


商人は皆信用を得ようとするが、欲に負け前言を翻したり善人ぶってしまい逆に騙されたりしてしまい全員が全員とも良い商人に成れると言う訳ではなかったので、信用のおける交易相手を見つけることも商人達の大切な仕事であった。


交易は物々交換により成り立ち、穀物の重さと塩の重さがある割合で交換されると言った具合であった。これは初めて市を開いた初代炎帝である神農氏以来の伝統であった。


もちろん麻などの服の生地や陶磁器、東方の鉄器なども交易対象となりその交換レートはあってないようなもので自分達の商品をより良くアピールして自分に得するレートを決定するのが商人たちの腕の見せ所であった。


車輪も無いため荷物は人が肩に抱えて運ぶしかなく、一度に運べる量がおのずと決まってしまっていたために商人たちはなるべく高レートで取引される商品を仕入れようとした。このため軽くて高値で取引される玉璧などが人気であり、軽くて高価な玉壁を地元へと持って帰りより多くの穀物と交換する事が多かった。玉璧は装飾用のみに使用されるだけではなく山神や天神に捧げられたために、祭祀ごとには欠かせない品であった。


有熊はそんな東と西、そして南が出会う地方であり、様々な文化が入り混じり異様な熱気に包まれていた。


有熊の都は道沿いにできた交易用の商店が始まりであったが、この商店を拡大しながら大きくなり、行商人相手の宿や食堂などが作られて周辺の土地から徐々に人々が集まってくるようになった。


この有熊の都を作り上げたのが少典の祖父であった。少典の祖父は交通の要衝であるこの有熊の地に目を付けるとともに、周囲の平野にも目を付けて平野部分を耕して穀物生産を始めるようになった。


黄河流域の肥沃な土壌であったため粟や黍などでも収穫量は周辺諸国に比べても多く、交易に使用できるほど余剰が生じたので、有熊でも自前の穀物を使って交易も行うようになった。この交易は少典一族に富をもたらすとともに多くの珍しい品物のみならず様々な情報を持つ商人たちをも同時にもたらしていた。


有熊の都は街道を挟んで南面と北面に分かれていた。街道の南側はさらに南からの街道により東西に分けられていた。南側には主に農民の住居がありその先には広大な畑が広がっていた。


住居は地面に穴を掘りその穴の上に葦の葉を束ねた屋根をつけると言う簡易なものが多かった。広さは二丈四方ほどであり五人家族では足を延ばして寝るのがやっとであった。


家の中央には囲炉裏があり火が灯っていたが火打石がまだなかったため火が消えてしまえば摩擦熱により再び火をつけることが困難であったので種火を消さないように大切に扱われた。


火にくべる薪は木の枝などであるが、家の中に充満した煙は害虫を遠ざけ食物の保存をよくすると言う役割もあったが、一方で煙が肺を汚染してしまい結核や肺炎などの肺病を患い易くなってしまい死の遠因ともなっていた。


食事は粘土を焼いたかなえと呼ばれる脚の着いた陶器を火にくべて作られており、大抵は穀物を湯で煮た粥の中に木の実や野菜など四季の恵みが添えられていた。塩は値段が高くて農民たちにはあまり口にできなかったが、山間部で捕まえられた猪の肉などは穀物と交換することで貴重な蛋白源として口にすることができた。


夜になると家々の入り口からたき火の明かりが漏れ出し、夜間に街道を急ぐ商人達はこれらの家から一晩中漏れるたき火の灯りのことを、燭龍しょくりゅうと言う龍の目が光っているためであると冗談交じりに言い合い、家々の灯り一つ一つを燭龍の目に例えていた。このような話は魑魅魍魎が徘徊する夜間に出歩く恐怖を、燭龍が見ていると思い一人ではないと自分に言い聞かせて恐怖を紛らわせていたという理由もあるが、そもそもの始まりは燭龍と言う実在の神と混同されたためであった。


街道の北側は小高い丘になっており主に身分の高い者や商人たちが住む場所で柱を使った木造の家が立ち並んでいた。この時代は、石斧と共に東方からわずかにもたらされる鉄器を使って少しずつ木や竹を伐り削っていくため家を建てるのには多大なる労力を必要とした。


家の床は穀物を貯蔵するために地面から少し浮いており害虫を避けるとともに床の風通しを良くして湿気を払い、屋根は葦を束ねて作られていた。少典の屋敷はそのような家々が立ち並ぶ中で小高い丘の頂上部分にあり周囲は竹製の塀でぐるりと囲まれいて外敵の侵入を阻んでいた。


この時少典は落ち着きがなく右へ左へと歩き回っていた。隣の部屋からは妻の苦しそうなうめき声が聞こえており、妻を励ます産婆の声を聞きながら臣たちが心配して声を掛けても耳に入らず上の空で返答を繰り返していた。


いかほどの時間が経過したのか果てしなく続くと思われた時間もやがて終わり元気な赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。


少典は喜び妻の居る部屋へと駆け込んだ。そこには元気に泣く男の赤ちゃんを抱いた妻の姿があった。産婆は


「旦那様、おめでとうございます。元気な男の子ですよ。」


と嬉しそうに声を掛けた。


「そうかそうか、男であったか!ご苦労であった。」


と少典は一言礼を言い、妻の方を振り向いて


「よくやったぞ、この子が儂の跡取りだ!」


と嬉しそうにねぎらいの言葉を掛けた。妻は、


「見てくださいませ、思った通りの元気な男の子で……」


と言い終わらないうちにその子は、


…………」


という声を発したように聞こえた。妻は驚き夫の顔を見たが、少典も妻を見て一時目を丸くして呆然となった。やがて、


「ははは、何か言ったような気がしましたが、今のはきっと気のせいですよね……。」


と妻が笑いながら言うと少典も


「うむ、そうに違いない、生まれたばかりの子供が喋るなんて聞いたことがないぞ。がははは。」


と上機嫌で大笑いした。赤ちゃんは一通り泣くと母親の腕の中ですやすやと眠ってしまった。


時は紀元前2717年の旧暦3月3日であった。


この日の少典の家の屋根には五彩の模様を持った鳳鳥ほうちょう鸞鳥らんちょうがやってきて曲を奏で舞を舞っていた。


鳳鳥は太平の世に現れると言いそれを見た有熊の住民のみでなく商人たちも日が暮れるまで祝い鳳鳥の鳴き声に合わせて踊ったと言う。


後世の司馬遷が史記、五帝本紀に記した内容には、その子は神霊の加護を持って生まれ、生まれてすぐにしゃべることができ、鋭敏で大きくなるにつれて優しさを覚え聡明な人物に成長した、とある。


後の黄帝軒轅が誕生した瞬間であった。

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