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華夏神話  作者: 芒果 (Mango)
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文明開化

人々の躍動はやがて波動となり、伝搬しあう。文明とはその波動の干渉により形成され、独自に変貌を遂げる。狩猟採集生活を送る人間たちが文明の発祥を起こす、その根源を辿れば一つの神話に収束され、その神話は伝説として残されている。


軒轅は若くして有熊の王となった。


有熊の人々は父親の少典の面影を残す軒轅の即位を心から祝った。有熊の民たちは優しさがあり聡明で不思議な能力を持っている軒轅を愛していた。軒轅は人々が父同様に自分を受け入れてくれたことが嬉しかった。

 

軒轅は父親の大いなる遺産の数々を受け継いだが有熊の王に即位してすぐにその遺産を発展させていった。まず目を付けたのが商業であった。

 

商業は遠方の様々な物品をここ有熊にもたらすため、経済的な意味に加えて情報や文化などもたらし、商業の発展は経済的にも文化的にも人々の暮らしを豊かにした。このため、有熊の地の利を生かした商業の発展に関して軒轅は非常に大切に感じていたのだ。


さらに軒轅の下には数々の有能な人物が集まっており、その才能を存分に発揮していたのであった。その一人に商人たちとの折衝ごとを行っていた隷首れいしゅと言う人物がいた。

 

軒轅はこの隷首に命じて交易に用いる際の重さを統一し、度量衡を定めると共に数の数え方も統一させた。この命令に隷首は見事に応えて、これによりさまざまな基準により行われていた取引が共通の重さと容積を使用して行われるようになり物価は安定しだした。もちろん米などの穀物の収穫にもこの度量衡は用いられるようになった。


また、商売の際の記録や穀物の収穫の際の記録を行うために倉頡そうけつにより文字が作られていった。当時は文字はあるにはあったが、米ならば米の絵、牛ならば牛の絵が描いてあるといったように文字と言うよりも絵に近かった。象形文字から少し進歩した程度で、まだ物の原型が文字に見てとれた。この記号を組み合わせてさらなる意味を持つ文字を開発し、複雑な文字の体系を作り出し、これが後の漢字の原型となった。

 

各種の記録は中原に豊富にあった竹を裂いてその裏の白い面に炭を水に溶かした黒い液体で書かれていた。

 

この時、朱も使用されていた。朱は赤い色をしている鉱物の粉末であり、硫化水銀を指しており丹とも呼ばれた。

 

この朱で文字や絵を描くというのが一般的な使用法であったが中には不老長寿を求めてこの朱から不老長寿の薬を作り出そうとしていた者もいた。

 

朱は火にくべると水銀が還元されて水銀の単体を取り出すことが出来る。この光沢をもつ不思議な金属の液体が不老長寿の妙薬となると考えられ、丹を用いて不良長寿の薬を作る術は煉丹術と呼ばれた。しかし、当時はごく一部の地域でのみ行われておりまだまだ一般的ではなかったことに加えて、薬の結果は芳しくなく服用したものは体の末端に障害を起こしていた。


農業の発展にとってなくてはならないのは暦である。米の栽培は時期の見極めが大切であり、苗を植える時期を間違うとそれは収穫量の減少として現れた。このため、米の栽培に従事する者たちは一年を通して適切に農作業が出来るような何かしらの指標が欲しいと思っていた。

 

そこで軒轅は一年を通して農業の各工程に最適な日を明らかにするように臣たちに指示を出していた。臣たちは太陽が作り出す影の長さに注目するとともに、太陽が南へ昇った時に最も高い位置や日の出や日の入りの方角と位置を記録していた。これにより太陽の運行が次第に明らかになっていき八卦はっけと照らし合わせることにより中原初の暦が作られていったのであった。

 

そのような才能がひしめき合う中で、その異才を思う存分発揮したのが天才常先であった。常先は米の栽培で功績を上げており若いながらもすでに有熊の臣の中でもとりわけ重用されていた。

 

軒轅は常先とは幼少のころからの遊び仲間であり気心が知れていたが、君臣の間柄となったため今では常先とは適度な距離を保っていた。

 

軒轅は常先の性格を熟知しており、どうすれば常先の才能を発揮させるのかも知っていた。それは非常に簡単で口出しせずに放っておけば良いのだ。時々常先と話し、常先が興味を持ったことを好きなようにやらせる、ただこれだけであった。もしも軒轅が常先の手綱を握ってあれこれ指図すると常先の才能はすぐに地に埋もれてしまっていただろう。常先は感性で動く人間である。そこに理屈を持ち込むと混乱し、萎縮してしまうのであった。


ある時軒轅は常先と有熊の都を見ながら行きかう商人たちが重い荷物を肩にかけて運んでいるのを難儀だと言った。すると常先は一気に多くの商品を運べる何かが有ったら民の苦労は軽減されるでしょう、何かいい案がないか考えてみますと言いそれから仕事場に籠りいろいろと考え始めたのであった。

 

この時常先は様々なことを試していたようであった。そしてある時崖から石が転がり落ちるのを見て何かを閃いた。軒轅が時折常先の仕事場を訪ねると、気の板を壁に立てかけて板の上から丸く捏ねて乾燥させた泥を転がしていたのであった。これを見て軒轅は言った。


「これは何だ?」


という軒轅の問いに対して常先は説明を始めた。


「石を見てください。ころころと坂道を転がっています。この石のように転がれば楽に荷物が運べるのではないかと思いました。」


この説明を聞いて軒轅ははっきりとは分からず釈然としなかったが、常先が何かを考えていることは感じ取っていた。そしてねぎらいの言葉を掛けた後、軒轅は常先の仕事場を後にした。


しばらくして常先は不思議な装置を持って軒轅の下に現れた。それは木の板を丸く切り中央に穴を開けた後に二つの輪を棒でつなげ、その間に板を乗せた物であった。常先はその装置の真ん中についてある板に物を載せて引っ張って見せた。

 

すると木の輪がころころと転がりいともたやすく物を運べたのであった。転がすと物を運びやすくなる、常先は転がる石から着想しこの装置を作り出した。

 

この木でできた輪は車輪と呼ばれ物を運ぶ際に使用されるようになった。そしてこの車輪を付けた台牛や馬にひかせることでより多くの物品を運ぶことが出来るようになったのであった。


常先の発明はこれで終わらなかった。水田のための灌漑の水路を作っているときに木の葉が水の上に浮かんでいるのを見ていた。そしてもっと少し大きな葉であったら人が乗っても沈まないのではないかと思っていた。

 

この時、中原に豊富にあった竹を編んで筏が作られていたが、まだ船は無かった。

 

この常先という人物は車輪を完成させた後に今度は舟を作り出したのであった。やがて舟は完成し、この船の登場により筏を用いていた水辺に住む人々の生活は変わった。これらの輸送手段の発達は中原の人々の生活に大きな変化をもたらしていったのだ。


他にも風后と共に車輪を付けた荷車を発展させてどの方角へ行っても常に南を指す様に作られた指南車しなんしゃをも発明している。これは今でも中国史上最大の発明と呼ばれている。


意外にも軒轅の妻の嫘祖れいそも発明を行っていた。それは絹である。絹は全くの偶然により作り出されることになった。

 

嫘祖はある時、宮殿の庭の手入れを侍女と共に行っていた。ひとしきり働いた後に休憩し侍女の入れた茶を飲んでいた。すると庭の手入れの際に伐った桑の枝から繭が落ちてきて嫘祖の飲んでいた茶の中に入ってしまった。

 

嫘祖は茶が駄目になってしまったと思いつつも手で繭をつまみ出そうとした。すると繭から糸が解けて長い繊維となったことを見て驚いた。丈夫な繊維であり、これは良い糸が出来るのではないかと思い桑の葉を食べていた幼虫を育てて大量の繭を作ろうと思った。

 

嫘祖は早速軒轅に相談し、どこかに土地をもらい桑と繭になる前の幼虫を育てようとした。軒轅は螺祖の願いに加えて息抜きにもなるであろうと思いこれを了承した。そして嫘祖は侍女たちと共に早速蚕を育て始めた。

 

この幼虫はかいこと呼ばれるようになり、繭から取れる糸は丈夫であった。さらにこの糸を編むと着物が作れるのではないかと思い、何かいい方法は無いかと常先に相談した。

 

常先は頭を抱えた。最初は葛布くずぬのを参考にして縦糸をに本の木の間に何本も張り、その間に横糸を縫わせるようにして編んで行った。葛天氏以来中原では伝統的に作られていた葛で作られた布であるが、葛の繊維はある程度まとまった状態で作られ、太い糸となるので編むのはそれほど難しくはなかった。

 

しかし、絹糸は細いので編むのが難しく、この方法で何とか小さな布切れは作れたが多大な労力と時間がかかってしまう上に見た目もよくなかった。


そこで常先は、沢山張った縦糸の内、偶数番目の糸同士を組にし、奇数番目の糸同士をまた組にしてそれぞれ交互に上下に動かしながら横糸を編んで行くという方法を考案した。当初の装置は見た目も悪くきちんと動いているかどうかすら怪しかったが、理屈ではこの方法で布が編めるはずである。常先は諦めずに何度も何度も改良を重ね、ついに丈夫な布を編める機織り機を完成させた。この機織り機は徐々に改良されやがてより大きな布を編めるようになって行った。


この出来事以降、人々の着物が絹製になると共に有熊に次なる新しい産業をもたらした。

 

その他にも医術は軒轅自身が大鴻やその弟子の岐伯きはくらとともに研究を重ねた。これより先の話となるがこの研究は大成し黄帝内経として後世に残されている。


音楽も伶倫れいりんにより竹で音階を定めた簫管しょうかんが作られると共に五音十二律が定められ、この音階は後世まで使用されることとなっている。伶論は軒轅の下にたびたび訪れる鳳凰の鳴き声を聞き、その音に近い音を出すように竹の筒の長さを調整して笛を作り、音階を作り上げていったのであった。


有熊では若き王、軒轅の下で若き臣たちが才能を開花させ様々な発明を行い様々な文化が花開いていった。


有熊は次第に中原で最も華やかで最も豊な都となっていった。

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