巫術師
寒い…、しかしまだ生きている。悲しみだらけのこの世界でなぜまだ生きているの?いや、見えるわ。そう、未来が見えるからだわ。死にぞこないの私を必要としてくれる人がいる。この人だけは何としても守り通さなければ……。でもその人はどこにいる?一体いつ出会うの?……見えない、どうしても見えないわ。玄冥、玄冥よ、教えて頂戴。あなたなら分かるでしょう。……え?あなたにもわからない?泰山府君にも見えないですって?冥界の神にも見えない未来とは一体?……寒い、寒いわ。手足の感覚が無くなる。泰山府君よ、そろそろそちらへ行っていいでしょうか?……なぜ笑うのです、え?冥界の神なのに私に生きろと言うのが可笑しいのですか?可笑しいのですね。……そうですか、分かりました。冥界の神にも拒絶された私にはもう生きるしかないようです。もう少しだけ生きてみましょう。でも、本当にもう少しだけだから。
有熊に平和な時間が流れていた。
相柳戦の勝利と息子の軒轅の婚姻、そして少典にとっては初孫となる少昊の誕生により少典一家のみならず有熊の都がお祭り騒ぎであった。
不思議なことに軒轅の息子、少昊が誕生した時も少典の屋敷に鳳鳥や鸞鳥がやってきており、歌を奏で舞を舞っていたと言う。
英雄少典は有熊の象徴であり、有熊に住む者の誇りでもあった。相柳戦で単身相柳に斬りかかり片目を失ってしまったが、その鬼神の如き戦いぶりにより単眼鬼王の異名をとった。単眼鬼王の名を聞くだけで盗賊どもは震え上がり逃げ出した。特に武勇を誇る者は少典は神格化しており、少典の噂を聞きつけて有熊には腕自慢が続々と集まってきた。
常先の米の栽培も順調であり、灌漑や水田に関する技術者も多く育っていった。
有熊にある平野部で水田に適した場所は毎年水田として拡張を続け米の栽培が行われ、それに伴い収穫が増え人口も増えて行った。
収穫された米は交易に使用され、有熊は西方の玉璧や東方の鉄や塩などを豊富に入手することができたため、米を目当てに多くの商品が有熊へと集まり有熊の都は活気づいていた。
さらに有熊から周辺の国々へと米の栽培技術が伝えられていき、その見返りとして少典は莫大な富を手中に収めていた。周辺諸国は有熊に臣従するようになり、有熊は中原で指折りの勢力を持つ強国へと成長を遂げていた。
軒轅はそんな少典を支えて必死で公務を行った。難しかったのが折衝ごとであり、もめごとなどの際には巧妙な妥協案を探して提示していた。時には争い事を治めるために自分が損害を被るような条件も当事者に提示した。
初めは少典はこのような自分の利益を考えない姿勢に危うさを覚えたが、その手腕と人々の評判も相まって次第に軒轅の能力を認めるようになった。このことで軒轅は部族間に均衡をもたらす者と看做される様になっていった。
そんな軒轅の能力を見て少典は安心して有熊を任せられると思うようになっていった。軒轅はこのころはもう自分自身の感情を制御出来るようになっており、加えて物事の結末が予想できるようにもなっていった。このことにより軒轅は問題が起こりそうになると事前に察知して問題が起こる前にすでに対処を済ませていたので、有熊では大きな問題はここ最近発生していなかった。
後世の老子と呼ばれる人物が徳の高い政治とは民衆が為政者の存在に気付かないような自然な政治であると言ったが、今の有熊がまさにそうであった。民衆たちは少典や軒轅の存在は見えていたが、あくせくと難題に対処している姿は想像できなかった。
軒轅は自分よりも小国に対しては頭を下げて接した。すると小国はより頭を下げて有熊に臣従しようとした。以徳治国、徳を以て国を治める、軒轅がいればそれが可能であることに少典は気が付きだした。軒轅の政治の才能は政を行うや否や即座に花開いていたのであった。
少典は軒轅が産まれたときからこの子は他とは違う感じがしていた。それは親なら誰しも思うことなのかもしれないが、しかし同じ自分の子供の中でも軒轅だけは何かが違っていた。その違いがいまはっきりと政治として表れていた。軒轅が自分にはないほどの高い徳を持っていたのである。それも少典には測りきれないほど大きな徳であり、政治を通して徳を積み上げていったのであった。
少典はこの軒轅がどれほどの人物となるのか非常に興味を持っていた。少典だけではなく教育係の大鴻や小さなころから兄のように軒轅を慕っていた常先、母親の附宝、そして共に田を開墾していった民衆たち、有熊の人々皆軒轅に自分の夢を重ねていた。
人は誰しも夢を持つが、いつしか忘れ去るか叶わぬものだとあきらめてしまう。大人であれば諦めた夢を自分の子供に託してしまう場合もある。しかし、軒轅の場合は多くの人々から夢を託されているのである。自分達で夢を見るよりも軒轅に夢を託して軒轅と共にその夢を見ていたい、軒轅の見る夢が自分たちの夢となっていった。
軒轅は人を惹きつけ、多くの人間が有熊へとやってきた。また、少年のころから仲良くしていた商人たちは今でも軒轅に情報をもたらす貴重な存在であると共に、中には諜報のために他の国へ行って情報を得る役目も引き受けている者もいた。
本業の商売も有熊の米を入手できると共に中原中から集まる様々な特産品も有熊の都で得ることも可能であったので有熊に拠点を置く者も多く現れるようになった。有熊は中原の主要な交易品の集積地となり、経済的に発展を遂げつつあった。
それからしばらく平和な時間が続いた。軒轅は19歳になり田植えの季節がやってきた。有熊に稲作の技術を教わった周辺諸国は今年から田植えを始める国も多くあった。軒轅はこの季節が好きであった。
水の張った水田が光を反射して空を映しだしていた。この時期に合わせて蛙たちが鳴き水田から夜な夜な大合唱が聞こえてきた。子供たちは水路から水田に流れ着いた小魚や泥鰌、ザリガニなどを捕まえて遊んでいた。時々玄亀も流れてきて子供たちにとっては最高の得物であった。
玄亀は旋亀とも呼ばれ淡水に生息する亀であるが頭部は鳥であり、尻尾は毒蛇のものと同じであった。
水田の周辺には家が作られ米を栽培する農民たちが住んでいた。今年も豊かな恵みがもたらされるように句芒と祝融そして蓐收に祈りをささげていた。句芒は春の神で生命を司っており稲がよく育つように祈った。祝融は夏の神であり夏の間にしっかりと陽が照るようにと祈った。蓐收は秋の神であり秋に実りをもたらしてくれるようにそれぞれ祈ったのであった。
軒轅は翠清の都で巫術師の老婆と出会って以来、巫術に関して興味を持っていた。そして有熊でも祈祷を行う巫術師が欲しかったが、軒轅もそして敏感に神性を感じ取る能力のある妻の嫘祖も適した人材を見つけることが出来ていなかった。神性を持った人間は時々見かけたが、翠清の巫術師ほど高い神性を持った人物は滅多にいなかったのだ。
このため有熊の巫術師達が行う神々への祈祷は伝統を踏襲しながらもどこか物足りなさを感じていた。
冬の間の北西風は禺疆と言う風神によりもたらされていた。禺疆のもたらす冷たく厳しい風は厳風と呼ばれ恐れられていた。それは人々を凍えさせるのみではなく疫病ももたらしたからであった。このため禺疆は風神の他にも疫病を運ぶ瘟神としての性格も持っていた。
初夏の南方から吹く風は因乎と言う風神によりもたらされた。因乎がもたらす南風は春の終わりを告げ、暑い夏の始まりを感じさせた。
北からの冷たく乾燥した空気が南からくる暖かい湿った空気に押されて長雨が降る日が始まった。この雨の日が続く季節は一年の春の終わりに決まって起こりこの時期になると楊梅が熟した。このため人々はこの雨の事を梅雨と呼んでいた。この時期は禺疆と因乎が勢力争いを行う時期でもあった。
また、大雨の前触れには商羊と言う一本足の鳥が現れて舞を舞っていた。人々は商羊が現れると大雨の前触れとして堤防の補強など大雨に備える工事を行ったのであった。
商羊は古代には多く見られたが次第に数を減らし、現在では見られない。しかし、商羊の名残は一本足で立ってお互いに膝をぶつけ合う碰拐と言う子供たちの遊びとして中国の一部で現代にも残されている。
夏の間、稲穂はぐんぐん伸びやがて稲の花が咲き稲穂が首を垂れた。田は見渡す限り黄金色に染まっており収穫が待ち遠しかった。
そんな折に少典が病で倒れた。
倒れる前から少典の体調は相柳戦の傷を引きずっておりあまり優れなかった。米の生産と交易、二つの主要な産業を抑えた有熊が発展途中にある今、少典が倒れることは有熊にとっては大きな痛手であった。
少典の名声は遠く九黎族まで轟いており、有熊周辺では単眼鬼王の名は絶対的な意味を持っていた。少典がいる限り有熊を侵略しようと言う者はおらず、盗賊も有熊は避けていたので平和であった。そして少典は有熊を中原一の都へと発展させることができる器も持っていた。少典も徳の高い人物であったのである。
病の床にある少典は病を押して稲の収穫を見ていた。少典自身、これが人生最後の収穫であろうと覚悟をしていた。収穫された米は一家全員と大鴻や常先、そして呉伏など臣全員と一緒に味わった。
食事が終わった後には少典の弱った姿を見て想い涙を流さないものはなかった。少典は臣のみではなく民衆からも愛される英雄であった。
しかし、少典の戦場で鍛え上げられた肉体と精神は強かった。冬が来ても持ちこたえており、弱々しいながらもなんとか話すことができた。少典は有熊の将来に関しては何ら心配はしていなかった。それほどに後継者の軒轅と軒轅を支える大鴻を信頼していたからだ。少典の心残りは軒轅の成長と活躍を見届けることができないことであった。
軒轅は大鴻と共に医術の知識を総動員して少典の治療にあたっていた。治療と言うよりも延命と苦しみを和らげるための投薬であった。軒轅にも大鴻にももう手の施しようがなかったのである。軒轅は自分の無力さを噛みしめていた。
そんな冬のさなか、一人の女が有熊を訪れ軒轅を訪ねた。その女は女の盛りを過ぎており、軒轅の母親である附宝よりも年上だと思われた。女は女丑と名乗り翠清の巫術師の老婆から言われてやってきたと言った。
女丑は若い頃は東北の黄河を渡った先の炎帝が治めるある村に住んでいた。しかし、生来の不思議な能力により人には見えないものが見えたり人の死などを予言出来たりするため人々から忌み嫌われていた。女丑にとっては生来の優しさで人々を守るための善意であったが、それが裏目に出てしまったのだ。
ある時、村の長の息子の死を予感して村長に死を回避するようにと告げた。村長は不気味に思っていた女丑の話は信じなかったが、実際に息子が事故で死んでしまった。これを村長は女丑が呪ったためだと言いがかりをつけ、女中を無理やり村から追放してしまったのであった。この時、女丑の夫も子供も女丑を守ろうとしなかったと言った。
以降、女丑は各地を転々として占いや祈祷で生計を立てていた。夏の間は都へは近づかず木の実などを得ながら山中を彷徨ったりした。街の生活は危険であったからだ。しかし、冬には食料が無いため仕方なく街へ行き占いをして食料を得た。
女丑は偶然立ち寄った翠清の都でこれもまた偶然に巫術師の老婆とすれ違った。
「お主…、少しこの婆と話さんか?」
お互いにもちろん初対面であったがお互いに持つ神性が引き合い、自然と会話が始まった。
老婆は女丑の話を聞くと共にその類まれな神性も感じ取っていた。
「そうか、お主は女丑と申すか。行く当てもなく放浪しておるとな、それは難儀なことであったであろう。」
「お主には気づいているかどうか分からんが凄まじい神性を持っておるのう。そんなお主でも生きるのに必死とはよほど運に恵まれなかったと見える。」
「私のような素性の知れぬ不気味な者がまともに生きて行けるはずがないでしょう。」
この時の女丑は行く当ても帰る当てもなかったのでいつ死んでもよかった。そんな女丑に
「ふぉっふぉっふぉ、なかなか大変な人生であったようじゃな。お主に紹介したい人物がおる。きっとお主の助けを必要とすることじゃろう。死ぬのはその人物に会うてからでも遅くはないじゃろうて。」
と言い、有熊の軒轅の話をした。この者なら軒轅の巫術師を務めることができるだろうと思っての事であった。
女丑の神性は軒轅と会うことは自分にとっていいことであると感じ取っていたが、会見後の詳細に関してまでは読み取ることはできなかった。このため実際に会って確かめてみよう、断られたらその時はもうこの世に未練はないので死ねばいいという気持であった。生きていても苦痛であったからである。
このようにして女丑は自分の人生の最後の人物に会いに軒轅の元にやってきたのであった。
軒轅の元へ翠清の巫術師の紹介で面会を求める人物がいるという報告が届いた。翠清の巫術師の紹介ということであれば軒轅も興味を持ち、すぐに面会に応じた。そして、軒轅の前で頭を下げているその女性を見るや否や軒轅は思わずのけぞり、後ろに倒れそうになり手で身体を支えた。
「れ、れ、嫘祖よ、今すぐ来てくれ!」
軒轅は女丑の訪問に慌てて妻の嫘祖を呼んだ。軒轅には女丑の神性を感じ取ることが出来たのであるが、その強さについては全くの未知数であった。同じく神性を感じ取れる常先もぽかんとしており、その表情からは凄い神性を持っているとしか見て取れなかった。
嫘祖には軒轅よりも強く神性を感じ取る能力があったのでそこですぐさま嫘祖と引き合わせたのであった。
軒轅のあまりの慌てように何事かと思いながらも嫘祖は女丑と会った。
「これまでに感じたことのないほど強大な、それも濃い神性を感じます。色は……白。金属性ですわ……。」
嫘祖が女丑を見ると嫘祖の顔色が突然変わった。これまでに感じたことのない強大な神性を感じ取っていたからだ。その神性は何と土徳を持っている軒轅とは比較にならないほど強かったのだ。
嫘祖の顔色を見て全てを悟った軒轅は女丑の前に座り深々と頭を下げ、
「女丑殿と申されるか、私は有熊の軒轅と申します。行く当てがないのであればどうかこの有熊で巫術師となっていただけはせぬか?」
と、巫術師として自分に仕えてくれるように頼んだ。これに嫘祖も続くと、側にいた大鴻達臣一同は軒轅の恭しい態度を見て驚くも、主君の行いに倣い女丑に頭を下げた。
女丑はあまりの現実離れした出来事に呆然としていた。これまで忌み嫌われる存在であった自分が領主の息子始め有熊の臣一同に頭を下げられることなど考えてもみなかったことであった。
この出来事に今までの不遇が頭の中に溢れ感情を抑えきれずに女丑は泣き崩れた。氷のように冷たく固く閉ざされ卑屈であった自分の心が満たされた感じがし、軒轅の大きな器と暖かさを感じ取っていた。以降、女丑は軒轅に仕えるようになった。
この様にして有熊に強力な巫術師が誕生したのであった。
そのわずかばかり後に軒轅の父、少典が死んだ。




