7話
見送りは玄関までにしてもらい、扉が閉まったのを確認して階段を下りる。
振り返って見上げたアパートはやっぱり古びて薄暗く、女の子が独りで住むには心許無く感じる。不安が尽きないので、帰ったら父に相談してみよう。何気に顔が広いから、何か良いアドバイスが貰えるかもしれない。
角を二つほど曲がったところで、家に連絡を入れようと思って忘れ物に気付いた。舞い上がっていたからか、スマホを置き忘れて来てしまった様だ。
彼女が気付いて届けに来るかもしれないので、来た道を早足で戻ると声が聞こえた。
女の子のちょっとヒステリックな声だ。
アパートが見える角を曲がると、アパート二階の廊下で二人がもみ合っているのが見えたが、逆光のせいか誰かまでは判らない。嫌な予感に走り寄りと、片方が突き飛ばされる様に階段を転がり落ちた。
駆け寄った階段には小池さんが倒れていて、目を閉じてぐったりとしている。胸に抱えるように持っているのは僕のスマホで、これを庇ったために頭を打ったようだ。
揺する訳にもいかず、声をかけても意識は戻らないので彼女が庇ってくれていたスマホから救急車を呼ぶ。睨み付けるように階段を見上げると、そこに居るのは同じクラスの相沢優実。
「彼女に何をした!」
「その女が悪いのよ! 呪いをかけて坂崎君を虜にして! お揃いのスマホケースまで用意して! 魔女なんて死んじゃえばいいんだ!」
「だから突き飛ばしたんだな! そんな根も葉もない噂で彼女を傷つけたんなら容赦はしない!」
「なにを言うの? 私は坂崎君のために、そこの魔女を懲らしめただけ。殺して呪いを解くのよ。魔女なんかの好きになんてさせないんだから!」
どうしてそんな妄想を実行に移せるのか、まったくもって理解できない。だからこそ、ためらうことなく警察に通報すると、相沢はその場に座り込んで泣き始めた。
救急車が到着する頃になって野次馬が集まり始め、警察が来るとスマホを構えるものも出始める。
小池さんはストレッチャーに乗せられて救急車の中に居たが、受け入れ先の病院がまだ決まらない。その間に警察官に事情を説明し、婦警さんが相沢の顔を庇いながらパトカーへ乗せる頃になって、ようやく病院が決まった。
救急隊員と警察官が受け入れ先の病院を確認し合い、部屋の鍵を閉めた僕が乗り込むと救急車は出発した。病院に着いても彼女は意識を取り戻さずにいて、精密検査のために運ばれて行った。
受付で断りを入れて、自宅に連絡を入れると母が出た。
「もしもし、連絡もせずに何やっているの」
「実はちょっとトラブルにあっちゃって、この前話をした子の付き添いで病院に来てるんだ」
「え? 急病か何か?」
「いや。突き飛ばされて階段を転げ落ちちゃって、まだ意識が戻らないんだ。検査中なんだけど、時間が掛かると思うから心配しないで」
「病院はどこ? 車出してあげるから、待ってなさいね」
「佐伯総合病院だけど、大丈夫だよ。タクシー使っても良いし、彼女もちゃんと送るから」
「入院とかになったら手続きとかもあるし、着替えの用意とかあなたには出来ないでしょ。いいわね! 待っているのよ!」
一方的に電話を切られてしまったが、確かに僕一人では荷が重そうだ。『下着の替えを』なんて言われたって、部屋を漁る訳にもいかないだろう。
三十分ほどすると、さっきの警察官が受付ロビーにやって来た。
「被害者はまだ検査中かい」
「はい。えっと、相沢は?」
「署の方で事情を聞いている。親御さんにも連絡を入れてあるので、君は心配しなくても良いよ。それより、被害者のご家族に連絡を入れないといけないので、名前とか教えてもらいたいんだけど」
「彼女の名前は小池遥。ご両親は他界されているそうで、独り暮らしをしています。親類はいるようですが、連絡先が分かりません」
「君との関係は学校の友達で良いのかな」
「はい。笹峰高校の同級生で、彼女は一年五組です。僕は、一年二組の坂崎晴翔です」
「では、連絡先は学校の方に問い合わせをします。彼女が目を覚ましたら本署の方に連絡をください。ここに電話をくれれば分る様にしておくので」
「分りました。彼女に伝えておきます。この後うちの母が来てくれるので、母から連絡するかもしれませんが、よろしくお願いします」
「それなら君の方も大丈夫だね。それじゃ」
パトカーと入れ違う様に母が到着して、青い顔をしてこちらに駆け寄ってくる。
「検査は?」
「まだ。さっきまで警察官と話をしていたんだ」
「すれ違った方ね。いったいどうしたの」
「よく解んないんだけど。彼女の家で話をしていて、帰りがけにスマホを忘れたのに気付いて戻ったんだ。そしたら彼女の家の前で言い争いが起きていて、突き飛ばされて外階段を真っ直ぐ、二階から下まで転がり落ちたんだ」
「相手は捕まえたの?」
「捕まえるも何も、訳の解んない事を言いだして泣き崩れたから、警察を呼んで引き渡した」
「泣き崩れた?」
「あぁ、相手は同じクラスの相沢って女の子だよ」
「それなのに警察を呼んだの!?」
なぜか問い詰めるように口調がきつくなる。あの状況で警察以外の何を頼れと言いたいのだろうか。
学校? 両親? どれも現実的では無いように思う。
「わざとだって言うし、死んじゃえばいいなんて言うくらいだ。うやむやには出来ないだろ」
「それで警察に連れて行かれたの? 可哀想に」
可哀想か……。
小池さんの方が誹謗中傷されて突き落とされたんだから、やはり報いは受けてもらわないと僕の気が済まない。それでも、小池さんだったらどうしただろうかと考えてしまった。
「ところで。独り暮らしの女の子の家に上がり込んで、なんの話をしていたの」
「え? 前世で好きだった人との話とか、付き合いたいとかだよ」
「前世って。高校生にもなってマンガの読み過ぎよ」
「違うよ。彼女が前世の記憶があるって言うんだ。あの小説、バンデリアン戦記のレイナ・フォン・ユグドニアスだって言うんだよ。耳の事も分るみたいだし、呪文まで唱えるんだ」
「あれは物語でしょ。からかわれたんじゃないの?」
「でも、ハルトって名の幼馴染がいたとか、書いてない内容も知っていて……」
そう弁明はしたものの、母の表情は怒りと呆れを多分に含んでいた。