【7】
あれから一週間が経った。
僕たちの秘密が分かると聞かされてから、毎日そわそわしている僕。
でも、蒼流とは結局あの夜以来会えてない。
零一も御影も、何も変わらず僕に接し、生活している。
たまに思うんだ。
あの日の夜のこと、全部幻だったんじゃないか。
僕の中から蒼流の存在を消し去ろうとしているんだろうか、って。
夜になるといつもこうして蒼流のことを思い出す。
思い出にはしたくないけど、あの夜のことがいまだ鮮明に脳裏に浮かぶ。
交わした会話、タバコの香り、そしてそのぬくもり。
ねぇ、唖透。
こうして毎日、思いと記憶を綴っていれば僕は唖透を忘れないでいられるだろうか。
僕はペンを置いた。
毎晩僕は零一にいわれた通り、日記をつけている。
日記というより、唖透への手紙だ。
今日一日あったことを書き記し、僕の思いをぶちまけ、そして最後に唖透に語りかける。
日記を読み返すことはあまりしない。
僕は机から離れると、開いていた窓を閉めた。
今夜はだいぶ寒い。
空気の入れ替えもほどほどにしよう…。
僕がまた机につこうとすると、コンコン、と誰かがドアをノックした。
「私だ、入ってもいいか」
零一?
何だろう…。
「うん、どうぞ」
僕はドアをあけた。
零一、だな。
僕はその顔を正面にとらえ確認する。
零一は何もいわずに部屋へ入るとベッドの上に座った。
「何か作業途中だったか?」
零一は広げたままのノートに気づき、そう言った。
僕は机上のノートを閉じると、椅子を零一へ向け直し腰をおろした。
「うぅん、もう終わったよ」
零一は小さく、そうか、と言った。
「で、どうしたの?」
零一は僕の質問にすぐには答えず、僕の部屋を見回した。
だから僕も零一の視線の先にあるものを追う。
「殺風景だな」
零一がポツリと言った。
「零一のところは物が多すぎるんだよ」
「まぁ、確かにな」
そう言いながら、零一はなおも僕の部屋を露骨に詮索した。
「あんまりジロジロ見ないでよ」
「お前だって、ドア開けたとき私の顔ジロジロ見ただろ」
さすが零一、気付かれてたか。
僕は何も答えなかった。
「で、どうしたの?何かあった?」
僕は再度零一に問いかける。
すると零一はようやく詮索をやめ、落ち着いて僕を見た。
僕の直感が、良くない方向へと意識を向かわせる。
「覚えていたら教えて欲しいんだが。お前たちはどうしてここへ来たんだ?」
「どうして、って。〈零一〉に呼ばれたから来たんだよ」
僕は平然と答えた。
すると零一の表情が一瞬だけ緩む。
「良かった、その部分の記憶はまだ鮮明だな」
僕は黙っていた。
僕と唖透だけの秘密だった記憶障害を、零一に心配してもらうなんてね。
「〈零一〉がお前たちをここへ呼んだ理由、考えたことあるか?…調査報告をする前に、瀬沙、お前に聞いてもらわなきゃいけない話がある」
僕の心臓がドキッと大きな音を立てる。
「…何?」
僕は平生を保とうと自らを無理やりに落ち着かせた。
「私の昔話さ」
僕の心臓が再び大きな音を立てて打ち出した。
零一の昔話…?
零一の過去。考えただけでもゾッとする。
僕の思考はそれ以上の詮索をやめた。
「…怖いね」
そう言って僕は、冷たくなった両手を顔の前でギュッと組んだ。そしてその隙間から、真剣なまなざしの零一を覗く。
「そうだよ。とても恐ろしい昔話さ」
零一は僕のことをじっと見た。僕の言葉を待っているんだろう。でも僕は何も答えなかった。黙って受け入れるしか道はないから。
「その前に」
零一は急に表情を明るくさせ、そう話を切り出した。
「その前に、蒼流からお前に話したいことがあるそうだ」
零一はにっこり微笑んで蒼流の名前を出した。
「蒼流から話が」と言われて僕の心が少し浮かれたのは事実だけど、でもそれ以上に零一の笑顔が気になって仕方ない。僕は眉をひそめて零一の真意を疑った。
その笑顔は信じていいの?
きっと作られた笑顔に決まってる。でも、零一。笑うの上手になった…。
「うれしくないのか?蒼流たっての希望だぞ」
不思議そうに零一が僕の顔を覗き込んだ。それでもやっぱり零一は嬉しそうな顔をしている。
「別に…」
僕はなんて答えていいか分からなくて、うつむいたまま適当に返事をした。
零一からの昔話はすごく怖いけど、蒼流からの話はきっと嫌な話じゃないと直感する自分がいるのは事実だ。でも今は、蒼流よりも零一が心配。何でそんな風に思えるのかは僕自身にも分からないけど、零一をもっと楽にしてあげたい。
「瀬沙はいつも正直でいいな」
えっ…?
僕は慌てて顔を上げた。
零一はゆっくりと立ち上がり窓辺へと進む。
そして僕がさっき閉めたばかりの窓をまた開けた。
開けると寒いよ、そう言おうとしたけど…。
「さむっ…」
零一はそう言って身震いすると慌てて窓を閉めた。
僕は黙ってその姿を眺めていた。
いつかの蒼流とだぶって、なんだか和やかな気持ちになる。
僕の表情が自然とほころんだ。
零一は閉められた小窓から通りを眺めていた。
さっきの零一の言葉が、僕の心に深く突き刺さる。
零一は…。
〈レイイチ ハ イツダッテ ウソ ヲ ツイテ イル カラ〉
零一が嘘をついていることは分かってる。でも今は、零一の隠している真実に触れるのが怖い。
自分の気持ちにどう反応していいか分からない。
「僕、嘘つく必要ないもん」
僕が小さく答えると、零一は「そうか」、と言った。僕に見せる零一の背中からじゃ、その真意は読み取れない。
零一が大きくため息をつくのが分かった。
ため息?どうして?
零一は何も言わなかった。
きっと僕の言葉は聞こえていただろう、だから僕はじっと零一の背中を見つめていた。
いつだって気丈に振舞う零一。あんなに小さく見えるの、初めてだ。
ちいさな窓から広い世界を眺める零一。でも彼が眺めているのは漆黒に浮かぶ街の灯。
その背中が弱々しく見えるのは、僕が強くなった証拠だろうか。
いや、違う。
それは絶対に違うけど。
零一の姿が、目前に広がる街並みに溶けていかないのはどうして?
見えない壁に遮られて、零一はひとりその景色だけを遠くから眺めているみたい。
手を伸ばせば触れられるのに、世界のすべてが零一の手を通り抜けていく。
一人ぼっちの零一…。
零一、今いったい何を考えてる?
急に零一がこっちへ振り返った。
僕と目が合いそうになる。
逸らしたのは僕だ。
「明日の夜、蒼流に会ってやってくれ」
「うん」
零一の表情はいたって普通だった。
あの零一が小さく見えるなんて、僕がどうかしているんだな。
* * *
次の日の夜、僕は一階のリビングで時間が過ぎるのを待っていた。
部屋に一人でいるの、なんか怖かったから。
零一も御影も、夕食が終わるとまたすぐに地下にこもっちゃうから、ここにいたって僕は一人なんだけどね。でもここならみんなの匂いを感じられるし、生活の暖かさも実感できる気がしている。
蒼流に合えるのは素直にうれしかった。あの日のこと、幻じゃなかったんだと実感出来ることも嬉しかったし、〈零一〉が僕を呼んでくれていることも嬉しかった。
〈零一〉は僕たちが探していた男で、僕たちを必要としてくれている人物だ。
僕たちは〈零一〉だけを信じてこんな遠くまでやってきた。
実際に会えた〈零一〉は僕たちの希望と理想を全て兼ね備えた男だった。帰ってくる場所が、そこにあった。
僕たちの全てを知る救世主。
でも、どうして?
どうして僕の心は怯えているの?
〈シンジツ ハ アクマ ガ ニギッテ イル〉
僕はふと奥のソファーに目をやった。
初めてこの家に上げてもらったとき、僕はあのソファーに零一と向かい合って座ったんだ。
零一に唖透を預けるとどこかへ消えた。きっと地下の研究室まで運んだんだろう。
しばらくすると零一はコーヒーを入れて戻ってきた。
僕を中学生よばわりしていたっけな。
あの時僕は零一をとても不思議なまなざしで見ていた。
目の前にいる男、零一が僕たちの捜していた〈零一〉だと信じて疑わなかったから。
零一はしきりに「自分は〈零一〉ではないだろう」って、意味不明なことを言っていた。
でも、分かってなかったのは僕たちの方だ。
あの時すでに、零一はすべてを知っていた。
僕は広げていたノートを閉じる。
まだ一ヶ月しか書いてないのに、もう一冊目が終わりそう。
唖透への報告が、だいぶたまってきたよ。
相変わらず返事はないけど…。
僕は時計に目をやった。ちょうど日付が変わろうとしている。
眠くならないように、コーヒーでも入れようか。
そう思い立ち僕は席を立った。
御影は朝でもきちんと豆から落としているみたいだけど、僕はてっとり早いインスタントで十分。
僕専用のカップにお湯を注いでいると、誰かがリビングへ入ってくる物音がした。
僕はカップから手を離し、気配がした方を覗き込む。
「ん、零一?」
地下から上がって来たのは零一だった。
「コーヒー入れているのか、私にも入れてくれ」
零一は少し疲れているようだった。
さっきまで僕の思い出の中いた零一とはまるで別人みたい。
あの日の零一はとても威厳があって、無理やり強がって見せる僕を上から眺めて楽しんでいるみたいだった。
でも今は……。
「インスタントだからね、僕がいれるの」
零一のカップを取ろうと、食器棚に手を伸ばしながら言った。
「それでいいよ」
と、零一が言うのが聞こえた。
あの日は、零一が僕にコーヒーを入れてくれたんだっけ。
今度は僕がコーヒーを入れる番。
僕のカップには角砂糖が二つ、入った。
「どうぞ」
零一の前にカップを差し出すと、「ありがとう」と言った。
零一のありがとう、久しぶりに聞けた。
不安でいっぱいだった僕の心に色が戻る。
僕の心が活気を取り戻したのとは反対に、零一はひどく疲れているようだった。
いつもの黒縁メガネを外すと、頭を垂れて目を擦った。目頭を抑え肩をトントンと叩く。首をぐるぐる回してだらしなく伸びた髪を掻きあげる。
真っ白に栄える白衣と対照的な零一。
「だいぶ疲れてるみたいだね、大丈夫?」
僕は心配になって声をかけた。
「いつもこんな感じさ。お前は部屋に篭っているから、今まで知らなかっただけだろう」
「そっか」
「地下にいると疲れが抜けない。だからたまにこうして地上にあがってくるんだ、空気の入れ替えだな」
零一はやっぱり疲れているようだったけど、それでもにっこり微笑んだ。
この笑顔は信じていいんだろうか。
「で、どうして今日はここにいるんだ?部屋で待っててもいいんだぞ。御影に迎えにいかせるから」
零一は僕の入れたコーヒーに口をつけながら言った。
僕はひんやり冷たい手をカップにつけて暖を取る。
「別に、部屋に一人でいるのもつまんないから」
零一は頬杖をつきボーっと遠くを見ていた。
「そうか、いつも寂しい思いをさせてすまんな」
えっ…?
零一にあわせてボーッとしていた僕の頭が、びっくりして働き出す。
〈レイイチ ノ サミシサ ニ クラベ タラ〉
「全然平気だよ、僕」
僕は寂しくなんかないよ。
零一が寂しい顔をしているほうが、よっぽど辛い。
だから、謝らないで。
「零一のお仕事、まだたくさんあるの?」
「私の仕事は無限にあるよ」
零一は相変わらずボーっとしていた。
口調はいつも通りしっかりしていたけど、そのだらしない頬杖は止めなかった。
ときよりガックリとうなだれて肩を叩く。
「用が終わったなら、もう寝たほうがいいよ」
そう言った後すぐに僕は後悔した。
零一の前で蒼流の話をすると、あまりいい表情をしない。
心身ともに疲れ果てている零一にさらなる心労を与えたく無かった。
もう、いいから。少し休んで…。
「今のお前を見ていると、無知で幼かったころの私たちを思い出す」
「えっ、いま何て…?」
零一が無知で幼かったころ?
無知で幼かったころの私たち?
零一たち…?
僕は目を丸くして零一の言葉を待った。
でも零一は相変わらず張りのない表情でボーッとしていた。
零一、やっぱり変だ。
自分の過去を思い出しててるんだろうか。
零一の過去…?
……。
えっ、零一の過去?
僕はなんとも形容し難い感情に包まれる。
これ以上零一の秘密に近づきたくない。
「ごちそうさま」
零一はそう言ってカップを空けた。
僕はまだ頭の中が釈然としない。
何も考えられないまま、立ち上がる零一を見上げた。
零一の背中にある時計が目に入る。
もうとうに日付も変わっていた。
「すぐに御影が呼びにきてくれるだろう」
僕があまりにも不安そうな顔をするから不憫に思ったんだろうか。
零一はいつものように無理からに微笑む。
「心配するな、〈零一〉ならなんとかしてくれるさ」
僕はハッとした。
零一は外していたメガネを手にとるとリビングを後にする。
揺れる白衣の裾が僕の元を離れていく。
「地下は寒い。何かはおって来なさい」
零一の気遣いが心に染み入る。
でも呼び止めたい気持ちより、零一に対する恐怖心の方が強くて僕の足はすくんだままだった。
じゃあ、零一の痛みは誰が和らげるの?
* * *
零一の言ったとおり、それからすぐに御影が来た。
時計はちょうど一時を指したところだ。
零一を見送ったあと、どうやら突っ伏してうとうとしてしまったらしい。
眠ってしまえば、余計なことまで考えなくてすむから。
御影は僕を静かに起こすと、冷たい水を持ってきてくれた。
相変わらず表情は薄いけど、その優しさは僕にも十分に感じ取れる。
僕は眠気覚ましに冷水を飲み干すと、御影にお礼を言ってグラスを返した。
御影、僕に初めて会った時より心を開いてくれているんだろうか。
零一だって最初会ったときは「許せない」とか「認められない」とかいって僕を目の敵にしてたもんな。
それに比べたら零一。
ちゃんと話もしてくれるようになったし、笑ってくれるようにもなった。ただ、いつも何かを隠して、こらえているように思えるけど。
「目、覚めた?」
御影が僕に声を掛ける。
うん、おかげさまで目は覚めた。
でもそれと同時にこれから聞かされることへの恐怖が実感を伴って湧いてくる。
「行きましょう、蒼流が待っているから」
そう言って御影は僕の前を歩き出した。
あれほど苦手だった無愛想な御影が、いまは暖かな母のように見える。
僕が変わったんだろうか、それとも僕を取り巻く人間環境が変わったんだろうか…。
僕の居場所はいいにある、と思ってもいいだろうか。
…もう、唖透のもとへは帰れない。
唖透は僕の大事な人だ、でも唖透はもうここにはいない。
僕は黙って御影の後に続いた。
暗い地下への階段を進んでいく。
それに平行して僕の気持ちはいっそう沈んだ。
でも、沈んだその一番下には唖透がいる。
だから怖いことなんかはない。
底辺に沈んだ僕たちを救い上げてくれるのが〈零一〉、すなわち蒼流だ。
だから、何も怯えることはない。
怖がることはいなんだ。
古びたランプに照らされた階段を下っていく。
何度通っても嫌な緊張感に包まれる。
僕を破滅させる全てがここにあるような気がして、でも僕の居場所はここしかないような気もする。
打ちっぱなしのコンクリートが僕の行く手にのしかかって来るみたい。
細々と照らされたランプ。僕の足元を照らす唯一の光。いまにも消えそうに弱々しいけど、それでも僕の未来を示していく。ここで止まるな、という印だ。
この光はいつか消えるだろうか。
この光が無くなっても、僕は進む道を見つけられるだろうか。
最後の階段を踏むとそこで、前を行く御影の足が止まった。
「瀬沙、本当に大丈夫?」
そう言って御影は僕の方へ向き直った。
無言で付いて来た僕を心配してくれているんだろうか。
ここで逃げたって行くところなんて他にない。
自分たちの生態の秘密が知りたくて、ここまで唖透と一緒に来たんだ。
僕だけ逃げるわけにはいかない。
深くうつむいていた僕がそっと顔を上げる。
やさしげな御影の表情と、実のない僕の視線がぶつかった。
僕の中の今、そして過去も未来もすべて、御影に見透かされているみたい。
だから安心するのかな。
「大丈夫だよ」
僕はそう答えるしかなかった。
すると御影は呆れたように大きくため息をつき、微笑んだ。
御影の人間じみた顔、初めて見れた。
そうか、分かった気がする。
〈フ タ リ ハ オ ナ ジ〉
同じなんだ御影、零一と―――。
やさしく微笑んだ御影の口元がゆっくりと動く。
「いい返事ね、瀬沙」
僕はハッと息をのんだ。
本当に同じだ。
〈ボ ク モ オ ナ ジ〉
* * *