【6】
意外にもその日の朝はすんなり起きれた。
夕べ蒼流のところで夜更かししたのに…。
えっ、蒼流?
アオル。
そう、僕はもう一人の零一、そして〈零一〉に会ったんだ。
急に僕の心臓が音たてて騒ぎだす。
零一に、どんな顔で会ったらいいんだ…。
僕は部屋の窓を大きく開けると鏡の前に立ち、いつものように着替えをはじめる。
下で物音がする。御影が朝食の準備をしているようだ。
零一はもうテーブルについているのだろうか。
窓から入る風、今日はだいぶ冷たい。
冬はすぐそこまで来ているんだな…。
窓から裏通りを見下ろすと、通勤に急ぐ男性がオーバーを羽織っていた。
いつもと変わらぬ朝。
でもいつのまにか先を行く季節に、僕の心が逆らっているみたい。
シャツのボタンを下まで閉めると、僕は部屋のドアを開けた。
怖くない。
今の僕には蒼流もついてる。
そうでしょ、唖透―――。
二階の廊下を進み階段を下りる。
零一はいつものように朝刊を広げていた。
ドキッ…。
僕の体に緊張が走る。指先から背筋へとその鼓動が駆け巡る。
「おはよう」
僕は小さく声をかけると洗面台へと逃げた。
鏡に映る僕。
緊張しきっているのが鏡越しでも容易に分かる。
ちっぽけで、なんだか滑稽だ。
そうだ、そんなに怖がることはない。
唖透、そうでしょ。
僕が怖がって、遠慮することなんてないんだ。
僕たちはなんだっていつも二人で乗り越えてきた。
唖透、僕に勇気を下さい―――。
僕は顔に水をかけると、頬をパンパンと叩いた。
いつもより冷たい水が、僕の目を覚まさせる。
よし。ありがとう、唖透。
* * *
朝食はいたっていつも通りだった。
零一に変わった様子は見られなかったし、御影だっていつも通り。
なんだか、僕だけが一人舞い上がってたみたい。
僕が本当の〈零一〉に会えたこと、零一は知っているんだろうか。
僕の前にいる男を、昨日の朝と同じ目で見れない。
昨日だって僕は必死で零一を探していた。
零一は僕を一番下まで突き落とした。それは彼自身に気持ちの転化はあり得ない、だからもう自分に期待するな、という最期通牒。
それでも僕は、零一を求めていた。
零一の言いたいことは嫌と言うほどよく分かったし、僕自身だってもううんざりだった。
それでも僕たちには零一しかいなかった。
零一が、僕たちの探している〈零一〉に一番近い存在であるということはもう変えられない事実だったし、仕方のないことだ。
だから、それでも僕たちが零一を諦めるわけにはいかなかった。
でももう零一に用はない。
僕たちは本当の〈零一〉を見つけたんだ。そして迎え入れられたんだ。
確かに零一は〈零一〉に一番近い存在だ、でも〈零一〉じゃない。
もう、零一は僕にとって…。
いつもは朝食が終わると大急ぎで大学へ向かう零一。
でも今日はのんびりコーヒーを飲んでいた。
御影が後片付けをする中、僕はどうにかして蒼流の話を持ち出そうと機会をうかがっていた。
僕一人の胸のうちにしまっておくのは、もう辛い。
早く僕の意思表示がしたかったし、何か、零一に言って欲しかった。
でも僕たちの間に続くのはたわいもないいつも通りの会話ばかり。
「今日はゆっくりなの、大学?」
「今日は午後からなんだ」
零一の表情は朝刊に隠れて垣間見ることが出来ない。
「御影、今夜はだいぶ遅くなるかもしれん。家の合鍵を持って出るから、夜は私の帰りを待たずに戸締りして寝なさい」
零一は新聞の脇からそう御影に呼びかけた。
キッチンの奥で御影が小さく返事をする。
「何かあるの、今日?」
そう僕が問うと、零一はようやくその新聞をたたみ出した。
「前に提出していた私の論文が評価されてな、よく分からん学位をくれるらしい。今日はその関係で午後からの出勤なんだ」
読んでいた新聞をきれいにたたむとようやく僕に顔を見せた。
「そうなんだ、すごい!今夜はみんなにお祝いしてもらうんだね」
僕は自分のことのようにうれしくなって零一に語りかけた。
零一は湯気の立つカップに手を伸ばすと、うれしそうに微笑んだ。
熱そう…。
零一のコーヒー、やっぱりブラックだ…。
夕べの蒼流からは理解しがたいブラックのコーヒー。
カフェオレ色のコーヒーを好んで飲んでいた蒼流とは、まるで別人のよう。
別人。
たしかに別人だけど…。
体は蒼流とまったく一緒。
夕べ僕の肩を抱いて「おかえり」と言ってくれた男とまったく同じ。
その華奢な背中、暖かい手、静かな吐息。
昨日はあんなに二人で笑ったのに、今は赤の他人。
いつものように、僕を見透かすような冷たい眼差し。
それでも零一は僕を見ない。
目の前の男は時計に目をやり、またコーヒーに口をつけた。
「私がブラックで飲むのがそんなに不自然か?」
ドキン―――。
今の心臓の音、零一に聞こえてないだろうか…。
ものすごい速さで心音を打つ。
僕は何を言ったらいいのか分からず、言葉を返すタイミングを無くしてしまった。
僕も強く望んでいたはずなのに、蒼流の話し。
「そうだろうな、あいつは沈むほど砂糖入れるからな」
「あいつって蒼流のこと?」
僕はハッとした。
もしかして、いま僕零一に試されてた?
怖くて零一の目を直視できない。
「蒼流は私と違ってお前にさ優しかっただろう?」
近くにあった雑誌を広げ、零一が無機質に言った。
どうしてそんな言い方するの?
「そうだね」
僕はボソリと答えた。
「探していた〈零一〉に会えたみたいだな、良かった」
えっ…。
「うん」
零一、怒ってる?
いや、零一は普段からこんな感じの男だったっけ。
いつもと違うのは、僕の方か。
「私がいままで瀬沙に言ってきた意味不明なことも、解決したか?」
うん…。
「うん」
もう、零一に用はないのに。
どうして、僕の心はこんなに沈んでいるんだろう。
不思議―――。
僕は〈零一〉を手に入れたのに、欲しかった居場所を見つけたのに。
僕を認めないと言った零一はもういらないのに。
なのに。
どうして僕の心から零一を切り離せない?
「どうした、沈んでいるな」
えっ?
零一が雑誌を越して、上目遣いに僕を見た。
僕はやっぱり返す言葉がなくて黙っていた。
自然と僕の方が目をそらす。
「同じ外見で蒼流と違う中身が動いているのが、許せないか?」
「違うよっ」
僕はとっさに否定した。
どうしてここまで強く否定出来たのかは分からないけど、でも、零一が寂しそうにするのは嫌だった。
「それは、違うよ…」
僕は顔を上げることも出来ず、零一の次の言葉を待った。
「心配するな、お前は蒼流についていけばいい。蒼流がお前たちを救ってくれるさ」
うつむく僕をよそに席を立とうとする零一。
「待って、じゃあ零一は?」
僕は慌てて止めた。
零一はどこかびっくりしたように動きを止める。
「…私?」
そうだよね、僕の返し、会話になってない。
「零一は、どうするの?」
また零一は不思議そうに首をかしげた。
「私?…瀬沙、少しは落ち着け」
そう言って零一は微笑んだ。
夕べとは、違う寂しい笑顔。
零一は一度引いた椅子をまた戻し、もう一度僕の前に腰を下ろした。
その気遣いに僕はハッとする。
〈ヤサシ イ レイイチ ガ スキ〉
「私は今までと変わらないさ」
僕は静かにうなずいた。
零一の口から聞けた。
うれしい。
僕の心はなぜか、それだけで落ち着きを取り戻した。
「どうだった、蒼流の印象は?」
零一はカップのコーヒーを飲み干す。
私もたまには甘いコーヒーでも飲んでみようか、と呟きながら席を立つ。
キッチンで片付けをしている御影をよそに、ひとりコーヒーを作っているようだ。
御影は「私がやります」と言ったみたいだけど、零一はそれをやさしく断った。
「最後、カップはシンクにいれておいてね」
そう僕に言うと、御影は二階の自室ではなく、そのまま地下へと向かった。
家事も、零一の助手も、何でも出来るんだな、御影は。
それに比べて僕はただの居候…。
いや、僕はここで調べを受けてる。
今はただの居候かもしれないけど、もう時期すべてが分かる日が来る。
そのとき僕は、いったいどこへ向かうんだろう…。
それでもここへ、置いてもらえるんだろうか。
そこへ零一が戻ってきた。
コーヒーはやっぱりブラックだ。
「瀬沙は?コーヒー」
僕は首を横に振った。
もうお腹タプタプ。
「それで、どうだった?蒼流の印象は」
零一が三度僕の前の席に着く。
うーん、とうなる僕。
言いたいことは分かっていても何故かはぐらかしている僕。
僕が蒼流をどう見ているか。
それを言ったら、零一がどんな反応をするか…、怖い。
でもそれを怖いと思うのは。
やっぱり零一が欲しいから。
蒼流と零一、どっちも欲しい。それに…。
〈フタ リ ヲ タスケ タイ〉
二人を助けたい…。
…助けたい?
僕が?…二人を助ける?
おかしくて笑っちゃうよ、調子に乗りすぎだな、僕。
「何かおかしいか?」
ニヤニヤしている僕を見て、つかさず零一が声をかける。
「よっぽど蒼流が好きなんだな」
零一はカップに口をつけながら僕を見た。
「ち、違うよ」
僕は慌てて否定する。
勢いだけで否定してしまったけれど、実際はぜんぜん違くなんかない。
「お前、今日やっぱりおかしいな」
零一はまた雑誌をパラパラとめくりだした。
「僕のどこがおかしい?」
「正直じゃないところだ」
正直…?
「今日は瀬沙の口数が少ないな、私のほうが多いくらいだ」
確かに…。
確かに零一の言うとおりだ。
だって、話だしたら蒼流のことばかり喋ってしまいそうで、怖い。
零一がどんな顔をするのか、見たくない。
「今日は一人でのんびりしろ。混乱するのも無理はない」
何も言わない僕にあきれたのか、零一が先に口を割った。
「どうして零一は、蒼流の印象を聞きたがるの?」
「別に、理由はないさ」
理由はない?…本当に?
「蒼流は…」
僕の口がゆっくりと語りだす。
零一はようやく、といった感じで僕の言葉の続きを待った。
「蒼流は僕の探していた〈零一〉だった、これでもう〈零一〉をあてもなく探す必要もなくなったよ。
毎日毎日、どこか〈零一〉の手がかりを求めて彷徨っていたから、蒼流に会えたことは僕にたちとっての一つの終期点だと思う。
蒼流は僕たちを待っていてくれた。おかえり、と言ってくれたし、ゴメンと謝ってくれた。
謝る必要はないと思ったけど、その気持ちはすっごくうれしかった。
待ってて良かった、僕たちの帰る場所はやっぱりここにあったんだ、と思った。
いっぱい意地悪もされたけど、僕を笑わせてくれたし、陽気で人なつっこい性格だから、僕の心にも花が咲いたみたいだった。
久しぶりにあんなふうに笑える人を見たよ。
蒼流も、すべてを知る日が近いって言ってた、でも怖くなんかないよ。蒼流がいるなら―――」
〈レイイチ ナン テ モウ イラ ナイ〉
僕はそこまで言うとハッとして止まった。
零一がビー玉のような瞳で僕を捉えていたからだ。
寂しいんじゃない、怒ってるわけでもない、何かに怯えているようでもない、だからといって無関心でもない。
「蒼流がいるなら…?」
零一の口元が続きの言葉を促す。
「蒼流がいるなら…、怖くないよ」
僕は無理からに言葉を止めた。
これ以上、何も話したくない。
蒼流のことを思って素直な気持ちになる僕に、気づかれたくないから。
「…他には?」
零一が僕に蒼流の話を続けるようにとせかす。
「…零一、僕が蒼流の話するの聞いても楽しくなさそうだから、もうしない」
「どうして?そんなことないさ」
零一はコーヒーに口をつけ、微かに微笑んだ。
でもその微笑が偽りだと、僕はすぐに分かった。
零一の微笑みはいつも嘘だらけ。
僕から知りたい情報を引き出すための手段、嘘つき。蒼流とはやっぱり違う。
でも。
「蒼流と同じくらい、零一も好きだからだよ」
すると零一は呆れたように失笑した。
照れているんだろうか。まさかね。
でも零一がそんな風に笑うの、嫌いじゃない。
それからくしゃくしゃの髪をポリポリと掻くと、開いていた雑誌を閉じた。
僕の今の言葉、零一にどんな印象を与えただろうか。
…僕の気持ちの整理もつかないのに、僕の真意が伝わるわけはないか。
僕の心の底から生まれた、素直で正直な気持ち。
零一が頭を上げて僕を見た。
その口元がゆっくりと動く。
「いい返事だよ、瀬沙」
僕の体を凍るような寒気が走った。
零一は零一だ。
やっぱり、零一も蒼流も両方欲しい。
今日の日記もまた、零一の名前ばかりが並ぶのか…。
* * *
その日の夜。
ふと目がさめる。
良かった、〈僕〉だ。
カーテンの隙間からのぞく光はまだ月明かり。
パッチリと覚めてしまった意識で、枕もとの時計に手を伸ばす。
午前二時―――。
零一はまだ帰ってないんだろうか。
大切なお祝いだから、ハメをはずして大学の仲間と呑み歩いてるのかもしれないな。
はぁ…。
僕は頭の後ろで手を組むと独り言のようにため息をついた。
僕がここへ来てから二週間が経った。
この二週間、零一は僕たちのことを調べてくれていたんだな。
毎日毎日顔を会わせているのに、全然気づかなかった。
少しずつ、日々少しずつ僕たちの生態を知っていったのに、僕を見る目に変化が無かったのはなぜだろう
僕を化け物だと思わなかった?
最近僕は、自分たちのことについてあまり考えなくなった。
もう考えるのはやめたんだ。
どうあがいたって、今の僕に答えを出すことなんて出来ないから。
そして唯一答えを知っているのは〈零一〉。そう蒼流も零一も知っているんだ。
零一は確かにこう言った。
〈もうすぐ瀬沙はこっち側の人間になる〉って…。
……。
唖透、聞こえた?
僕たち、もうすぐこの呪縛から逃れられる。
〈零一〉のところへ行けるんだ。
僕は上半身を起こし、カーテンの裾を少しだけ上げて外を見た。あたりはシーンとしていて、遠く離れた国道を走る車の音だけが聞こえた。
僕はいま唖透のために何をしたらいいんだろう…。
ふと、あの時の感触がよみがえる。
唖透―――。
あの夜、唖透は僕の側で眼を瞑った。
冷たくなることもなく、硬直することもなく、ただ僕の手の中で動かなくなった。呼吸が止まり、名前を呼んでも返事をしなくなった。それだけだった。
まだ残ってる。唖透の暖かい手の温もり。
深く眠ったままの唖透を抱えて、僕はここのドアを叩いた。そこに〈零一〉はいなかった。でも一人の男が僕たちを向かえ入れてくれた。僕たちが求めている〈零一〉に一番近い男だ。嬉しかった。
『あなたが僕たちの探していた〈零一〉なの?…違うなら唖透を渡せないよ』
そのとき零一は僕の質問には答えなかった。
『私の名前は零一だ。でも君たちの探している〈零一〉かどうかは私にも分からない』
『じゃああなたは誰?僕たちの探していた〈零一〉はどこにいるの?』
『とってもいい質問だね』
『でも、残念だけど私にも分からないな』
『私も急な話でどう返事をしたらいいか、正直迷っている』
『大丈夫、前向きに話し合うよ』
『でも、どうして…?』
『瀬沙、今は聞かないでくれないか』
〈零一〉に一番近い男は、その名通り蒼流に一番近い存在だった。
『零一、タバコ吸うの?』
『〈零一、タバコ吸うの〉?難しい質問だな』
『零一は僕たちの探していた〈零一〉?』
『言えない』
このとき零一は初めて〈零一〉の真実をほのめかした。
いままでは分からない、と答えていたのに、僕を地下へ入れてくれた時初めて〈零一〉の居場所を示唆したんだ。
零一は蒼流の存在をごまかしながら、時が熟すのを待っていた。
結局零一は、僕たちを許せないといいながら、蒼流を気遣い、僕の面倒をみていてくれたんだな。
『零一は何もお前たちを憎んでるわけじゃない。憎んでいるのは俺のこと、そして零一自身のことだけさ』
『混乱しているんだろう、瀬沙に再会して。彼なりに苦しんでいるようだ、だから許してやってくれ』
『俺は零一よりもお前たち二人を取った、そういうことさ』
蒼流の言葉は多分真実だ。
僕はいったいどうしたらいいの?
〈零一〉をやっと捕まえた、でもそれだけじゃ満たされないのはどうして?
隣に唖透がいないから?
違う。
違う、そうじゃない。
それはきっと、
〈アオル モ レイイチ モ ホシイ カラ〉
零一がどことなく、寂しそうな目をするから…。
蒼流の言った言葉も気になるし、もし零一が自分自身を責めているなら、その理由は教えてくれなくてもいいから、少しでもその痛みを和らげてあげたい。
自分の居場所も見つからず、寂しさに埋もれていた時は、人の幸せばかりが目についた。
自分が孤独であればあるほど、人の幸せを妬んだ。
零一を頼りすぎていたのかもしれないし、信じすぎていたのかもしれない。
でも、自分が少しでも幸せに落ち着くと、人の痛みが辛くなる。
人の寂しげな顔を見ると悲しくなる。
ねぇ、唖透。
僕が満たされないのは、零一が孤独だから?
零一の孤独を僕が埋めようとしているの?
零一にとって許すことの出来ない存在であるこの僕が、零一の空洞を埋めるというの?
それは僕の思い上がりだろうか。
分からない。
自分でもよく分からないけど、零一の顔を見ていると、僕まで切なくなるんだ。
どうして?
零一はやっぱり僕たちの求めている〈零一〉じゃなかった。でも今となっては、それはもう重要じゃないんだ。
僕たちは〈零一〉に会えた。そして帰る場所を見つけた。
蒼流は〈零一〉、零一は零一、それでいいんだ。
だから、唖透。もうそろそろ返事をしてくれないか…。
……。
………。
そこまでで僕の思考は途切れた。
〈コンド ハ ボク ノ バン〉
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