【4】
零一と顔を合わせたいなら朝が確実だ。
夜遅くまで地下にこもっているようだけど、朝はしっかり僕たちの顔を見せてから出かけていく。最近は近くの大学まで行っているらしい。
零一、先生なのかなぁ?
夜も僕たちとは一緒にならないこともあるから、朝を大事にしてるのかもな。
昨日の報告をしたり、今日の予定を話たり。だいたいは御影と仕事の話をしているみたいだけど、僕にはさっぱりだ…。
でもこの時間が一番好き。
唖透、昨日ね…。
昨日零一にデートに誘われたよ。
今日、零一の友達が所属する楽団の演奏会があるんだって。
零一の顔はどこまで広いんだろう…。
もちろん行く、って答えたよ。
優しすぎる零一を少し怖く感じたけど。
零一は、本当に楽しいときと、何かを手に入れるための手段と、二つの理由で笑う。
すべてを疑うわけじゃないけど、真実を見抜くのは難しい。
単純に受け止めていいのか、深読みした方がいいのか、僕はまだその判断をつけられないでいる。
ただ問題なのは、明らかに仮面で笑っていると分かっても、気づくと僕は零一の思惑通りに動いてしまっていることだ。それは零一が〈零一〉に一番近い存在だからかもしれない。
僕たちは零一の思い通りに動く。
僕をコンサートに誘ったのも、何かを達成するための口実で、実はもっと大切な何かを含んでいるんじゃないか…。なんて深読みしすぎかな。
零一は意外と単純な男でもある。
彼の表情をみて、その笑みが真実か、そうでないかを見分けられない決定的な理由はそこにある。
だから僕はそんな零一に惹かれていくし、零一に騙されっぱなしでもある。
要するに、僕のほうがずっと単純なわけだ。
ようやく認めたか、って唖透に言われちゃうかな。
今日の夕方五時に家をでる予定だ。
「そのつもりでおめかししといて」って言われたから、「おめかしするような服もってないけど」って言ったんだ。そしたら零一が「今日の午前中に、瀬沙の為に仕立てた服が仕上がる予定だ」って言うんだ。
なんだソレ。出来すぎ…。
でも。うれしい、楽しみだ。
そしてこうも言った。
「友達に花を贈りたい、瀬沙の好みで何か買っといてくれ」って。
零一の知り合いのステージなんだから、零一が用意した方がいいんじゃないかと思うけど、忙しい男だからそれも仕方ない。
「御影、あとは面倒見てやってくれ」
そういい残して零一は行ってしまった。
零一の朝は忙しい。
毎日ヒマだし、お使いもいいかな、って思ったけれど。
僕、イタリア語話せない。
カタコトじゃ不安だ…。
御影に相談したら、買い物に行くついでがあるから一緒に行ってくれる、って言うんだ。
無愛想な御影とおつかいなんて間が持たないんじゃないか、と心配したけど。
楽しい時間が過ごせました。
「仕立てが合わなければ詰めてもらうから、一度着てみて」って言うから、いま着込んでみたところ。
仕立ての良い黒のスーツ。
真っ白なワイシャツに黒のネクタイ。
僕がこんなの着たら変じゃないかな…。
鏡に映る僕の姿、見慣れないからなんか変だ。
見慣れないから、を理由にするのは言い訳かな。
こういうの、零一はきれいに着こなせるだろうけど、それと同じ感覚で僕に着せられても困るなぁ。
着せ替え人形じゃないんだから。
―――トントン。
御影が部屋をノックする。
「着れた?開けるわよ」
「う、うん」
「花、洗面台の下に生けてあるから。忘れずに持っていきなさい」
「ありがとう。…どう、変じゃない?」
御影は僕の後ろに立ち、鏡越しに僕の姿を眺めた。
御影の反応がない…。
表情もそれほど明るくない。
「…本当ぴったりね」
「えっ?…ま、まぁ。確かにサイズはピッタリだね」
御影は僕の両肩をつかみ、グッと後ろへ引いた。
「背筋伸ばしなさい、顔上げて」
「うわぁ…」
バランスを崩す僕。
「そんなにおかしくないわよ、堂々となさい」
「うん」
僕はうれしくなって元気に返事をした。
こういうところが単純だから、服がかっこよくキマらないんだろうか。
「でも、どうしてピッタリなの?計った?」
御影は答えなかった。
鏡越しの見える御影の表情からは、まるで僕の言葉が聞こえていないかのようにも感じられた。
「僕、ネクタイ締められないんだけど…」
僕は握り締めたネクタイを御影に差し出す。
「私にしめろって言うの?出かける時にしてあげるわ」
「うん、ありがとう。お願いします」
「服は問題なしね。汚れないように」
御影はそう自分に確認をとると部屋を出て行った。
パタン―――。
御影が出たあとの部屋。
僕はベッドにゴロンと転がった。
静まる部屋。
空気の流れる音がする。
なんでだろう、僕の頭が少し混乱している。
…御影は不思議な女だ。
零一の前と僕の前、違う顔を見せる。
感情がないなんてウソだ。
まるで、お母さんみたい…。
あっ、いけねっ。
僕は慌てて飛び起きた。
服のまま寝ちゃったよ。
* * *
零一はやっぱり時間に遅れて帰ってきた。
十七時に家を出ると行ったのに、帰宅したのはその十五分前。
それから零一はいそいでシャワーを浴びて、よそ行きのスーツに着替えた。
僕も零一の用意してくれた服に着替え、準備万端。
ネクタイ以外は。
零一はスーツに身をくるんだ僕の姿を見て素直に笑った。
「なんか、おかしいな」
「堂々としてればおかしくないもん」
僕は御影の請負で強がる。
零一はまた笑った。
それから三十分後。
僕はサイドミラーを除きながらネクタイと格闘中だった。慣れない手つきでネクタイをいじる僕を、零一はハンドルを握りながら楽しそうに眺めている。何度やってもうまく出来ない、だんだん嫌になる。とうとううまく締められずにシュルっと抜き取った。
何だよ、御影がしてくれる、って言ったのに…。
「何でも自分でやらなきゃ覚えない」、と言って御影の手から僕のネクタイを奪った零一。確かに零一の言うとおりだけど。
「服、気に入った?」
ムスっとして僕は答えなかった。
「まさかネクタイ出来ないからスネてるのか?」
「違うよ、零一笑ったじゃん、僕の格好見て」
零一は思い出したようにうなずいた。
「あぁ、あれをスネているのか。いや、瀬沙のいう通り、堂々としてればなかなか格好良く見えるぞ」
「本当?」
僕は疑うように零一を見た。
零一は軽くハンドルに握り、なかなか変わらない赤信号を睨んでいる。
「本当さ。見慣れれば問題ないな」
褒められてるのか貶されてるのか。零一の発言に続く言葉が見つからない。だから何も言わなかった。
ただ、「サイズぴったりだね」と言うと、零一は何が面白いのかクスクスと笑った。
「花、瀬沙が選んだのか?」
後部席にある花束を、ルームミラー越しにのぞく零一。
「いい香りだな。これから御影に話して家に花置いてもらうか」
零一はずいぶん花が気に入ったようだ。
家に帰ってその花束を見たときも、初めて花をみる人のようにはしゃいでいた。
「御影と一緒に選んだんだよ。僕、バラがいいって言ったんだけど、御影がガーベラの方がいいんじゃないか、っていうから」
「ほぅ、御影が…」
御影という言葉に零一が食いつくのはいつものことだ。
「バラよりガーベラが似合う女の人って聞いたよ、花あげる相手」
「…確かにそうかもな」
零一はひとりごとのようにつぶやいた。本当にそう思っているのか、それとも僕の話はそっちのけで御影のことを考えているのか。
やだ、これ以上零一を疑いたくない。
会場までそれほど遠くなかったけど、僕にとってはだいぶ長いものに感じられた。それはきっと隣に零一がいるせい。
「私のところへ来てどのくらい経つ?」
「二週間くらいかなぁ」
「そう、二週間か…」
僕の言葉を繰り返す。
「零一は御影と出かけたりするの?」
「そうだなぁ、学会の発表とか、会議とか…、それくらいはある」
「それは仕事としてでしょ?そうじゃなくて」
「うーん…」
零一の答えはなかなか出なかった。
本当は御影と出かけたことなんてない、って言って欲しかったから、僕は零一の言葉を待った。
「そうだなぁ、御影と籍いれてからは出かけたりしてないなぁ」
「ええっ?零一って御影の旦那さんなのッ?」
僕は体中を打ち抜かれるほどの衝撃を受けた。
ど、どういう事だ、いったい…。
零一の言葉を信じたくないような、でも信じれば全てのつじつまが合うような、とっても複雑な気分だった。ただ、いい気はしなかった。
頭の中が真っ白になり、目の前が暗くなる。頭の中をいろんな思いが駆け巡り、僕の心は大パニックになった。
「ゴメン、今のは嘘なんだが…」
「……。バカーーっ!」
僕はそれ以上何も言わなかった。怒っていたわけじゃない、ただ僕自身がとってもびっくりしていたからだ。何にびっくりしたかは分からないけど、あまり多くを話す気にはならなかった。
「ハハハ、そう膨れるな。ジョークだよ」
「変だよ、零一…」
「変で結構。…そのタイ結んでやろうか」
「別にいいよ、自分でやるから」
零一は僕の言葉を無視して、車を道路わきに寄せた。
「ほら、貸して。結んでやるから」
「いいよ、やさしくしないで。僕のこと〈認められない〉なんて散々言ってたくせに、うわべだけで優しくされても―――」
そこまでで僕の言葉は途切れた。
零一の痩せた指が僕の口唇を塞いでいる。
間近で見る零一の姿に僕は深く呑まれていた。
「今夜はその話タブーだ」
まるで空から落ちた天使のようにその声は澄み切っていて、僕をいっそう黙らせた。いつの間にか離れていた指にも気づかず、零一の瞳から抜け出せなくなる。
「ほら、ネクタイ…」
僕は握り締めていたネクタイを言われるがまま差し出した。
零一の顔がいっそう僕に近づき、しなやかな手つきで僕のタイを結んでいく。
間近にせまる零一の真剣なまなざしに、僕は眼のやり場をなくす。
「よし出来た」
零一は僕の心中を知ってか知らずか、何の余韻もなしに僕から身を引いた。
そしてまた路上へと走り出す。
零一にしてもらったネクタイに目を落としながら、チラッと彼の横顔を伺う。が、この一件で激しく動揺しているのは僕だけらしく、そこには平然とハンドルを握る零一の姿があった。
「そえ言えば、今日の曲目知ってる?瀬沙の好きな8番3楽章」
「どうして僕がその曲好きって知ってるの?」
僕は軽快にハンドルを握る零一を覗き込んだ。
「偶然だよ」
偶然?
零一、偶然の意味分かってる?
「じゃぁ服のサイズがピッタリなのも?」
「偶然さ」
僕はあまり零一の言葉を信用していなかった。信憑性が無さ過ぎて、零一がついている嘘を見つける方が面倒だと思ったからだ。
「今もの嘘だけどね」
僕はやっぱりと安心する反面、じゃあ真実はどこ?と考えてしまう。でも、真実を探るほうがよっぽど怖かった。だからもうそれ以上考えるのをやめた。
「零一、嘘つき」
「そうだな、嘘つきは羊飼いの少年だな」
「少年…?」
〈ショウネン…?〉
* * *
言葉には言い表せないほどの美しいコンサートホールは、僕の来るような所ではないとすぐに感じた。でも、零一は何の違和感もなしにこの場に溶け込んでいる。僕の手の届かない人のような気がしてちょっと寂しかった。
やがて煌々と光る客席の照明が落ち、自分の指先も見えないほど真っ暗になった。
やがて真っ暗の中にぼんやりと光が灯り、舞台が照らし出される。一つの音が聞こえたかと思うと、それに合わせたくさんの音が鳴り出した。
しかしすぐにそれも止んだ。
ステージに真っ白な証明かあたり、客席から一斉に拍手が起こる。指揮者のご登場だ。男性が客席に向けて頭を下げると、ゆっくり指揮台に立ち棒を上げた。
会場が恐ろしいほどの静寂に包まれる。
拍手喝采鳴り止まぬうちに、零一は僕の耳元で何かをささやく。その行為によって僕はふと我に帰った。すっかり聴き入ってしまいボーッとした頭を何とか叩き起こす。さっきの零一の言葉を理解しようと必死に頭を働かせるが、客席の感動に包まれて結局僕の心に届くことは無かった。
たった一度きりの音楽を、零一と一緒に聴けるなんてなんて素晴らしいんだろう。そんな僕の気持ちに零一は気づいているのか。僕は零一の顔を見上げた。もちろん零一の答えはなかったが、他の人間に交じって一心に拍手を送る零一の姿はとても新鮮だった。また別の一面を見れて、うれしかった。
―――ごめんね、唖透。
いま僕は最高に幸せなのかもしれない。
この幸せがまがいもので、今夜限りのものと分かっていても、それに甘えたくなる僕を笑ってくれ。
僕はヘタリと椅子に落ちる。
「どうした?」
ヒトの歓声でその声もよく聞き取れない。僕は零一の言葉を理解しないままに
「大丈夫」
と笑って見せた。
気づけばいつしか拍手は止み、どうやら僕はボーッとしていたようだ。
ステージには幕が下ろされ、客足は帰路へと向かう。
僕の隣にいるはずの零一は、イタリア人と思われる女性と親しげに話していた。時々笑顔を見せながら、僕には分からない言葉で話す零一。何を話しているのかは分からないけど、陽気に振舞う零一の姿は僕の目にも止まった。また一つ、僕には見せない零一の表情が見れた。
ふと、僕の視線に気づいたのか零一が僕に向かって手を振る。その隣の女性も愛嬌よく僕に手を振った。だから僕もなんとなく手を振り返した。
零一は、頬と頬を合わせるイタリアの挨拶で女性に別れを告げると、僕のもとへ駆け寄った。
「彼女が今日出演していた私の知人だ」
「元気な人だね、確かにガーベラだ」
僕と零一は彼女の背を見送りながら互いに笑った。
御影がバラなら、彼女はガーベラかもな。
僕はその姿が見えなくなるまで目で追った。
「瀬沙、お腹すいた?」
「うん、すいた」
時計に目を落とす零一。
「その先においしいレストランがあるんだ。予約いれといたから」
「えっ、いつの間に?」
「まぁそう詮索ばかりするな」
零一は僕の肩をポンポンとたたくと、上機嫌で笑った。
* * *
翌日。
今日ほど晴れの日を望んだことはないだろう。
いつもと変わらぬ朝の風景。
ボサボサの髪で起きてくる零一。
コーヒーを飲みながら、仕事の打ち合わせをする零一と御影。
そして慌しく仕事へ出て行く零一。
ただひとついつもと違うところがあるとすれば、それは…。
僕は朝食を食べ終えるとすぐに支度をし、公園へと出かけた。
よかった、いい天気になって。
今日は、家にいたくない。
僕はいつものベンチに腰をおろした。
夕べのことを思い出さないように。早く忘れられるように。
そう、夕べのことを―――。
ダメだ。
考えない方が無理だよ。
堰を切ったように昨日のことが溢れ出す。
冷めた頭に、過去となった昨日を引き戻した。
いつも通りの朝。
零一に誘われてクラシックのコンサートへ出かけた。
零一はこの日のために僕に服を新調してくれていた。
黒のオシャレなスーツ。
最初は零一に笑われたけど、時間が経つうちに見慣れたみたい。
零一は出演者に渡す花束をえらく気に入っていて、零一自ら花束を抱え、ロビーへ入った。花束を係りに預けてからも、零一からは甘いにおいが抜けなかった。
四楽章が終わって、零一が何か耳元で言った。
でも僕には聞き取れなかった。
会場の熱気と僕自身の疲れからだろうか。
それから僕たちは零一御用達のレストランで贅沢な食事をしたんだ。
料理が贅沢なんじゃない。そこに零一といられることが罪になるんじゃないかと恐れるほど、幸せだった。
僕はこうして戻るべきところへ戻ってきたんじゃないか。
やっぱりここが僕の帰る場所だったんだと、大きな錯覚に陥っていた。
それから零一の運転で家へ戻り、それから…。
僕の部屋の前で「おやすみ」と言った、それから…。
それからこうも言った。
「私との楽しいひとときは満喫できたかい」。「いい思い出はできたか」って。
「もう、こんなことは無いと思ってくれ。やっぱり、瀬沙の存在は許せないから」
零一の瞳はそこまでで僕を写すのをやめた。
深いところへ目を逸らし、またいつものように一線引いて僕を見る。
その視線に耐え切れなくなって僕は、「おやすみ」と部屋のドアを閉めた。
なんだか―――。
やっぱり僕たちは〈零一〉でない男に期待しすぎたのかな。
僕たちの選択は間違っていた?
僕を絶望させるために、わざわざ外に連れ出したの?
そんなに僕たちが許せない?
どうして?
僕たちが何をしたって言うの?
零一が〈零一〉でないのは分かってる。
でも、僕たちが求めている〈零一〉を、零一とだぶらせてしまうのも事実。
零一は僕たちが探している男ではないのに、〈零一〉を探すのはいつも零一の中。
零一もその事実をよく知っている。だからそれを利用して、僕を絶望のどん底に突き落としたんだ。
やっぱり零一は僕たちの救世主なんかじゃない。
分からない…。
僕一人じゃもう、どうしていいか分からない。
〈ボク ガ オシエ テ アゲ ヨウ カ〉
唖透、助けて―――。
* * *