【3】
あの日から僕は零一に言われた通り、日記をつけている。
することがないなら、と言って促された日記だけど、その意味が分かるまでにそう時間はかからなかった。
僕たちの体にある二つの不思議。
得体の知れないもう一人の人格と、失われていく記憶。
記憶を失っていく定めにある僕にとって日記を書くというのは、利口な方法であると同時にものすごく苦しいこと。自分が書いた日記を読み返しても、まったく思い出せなくなる時がいつか来る。自分の日記を見て懐かしむのではなく、日記をみて改めて自分のあり方を呪う、そのための日記でもあるんだ。
零一はここまで考えて僕に日記を書くよう言ったんだろうか。
そうだよね、零一のことだ。
僕がこういうジレンマにかかると知ってのことだろう。
苦しいけど、とりあえず続けようと思う。
最近自分で分かってきたけれど、僕が記憶を留めて置けるのはだいたい十年前までだ。僕の中に小学校へ通った記憶はあるけど、低学年の記憶は全くないし、それ以前の記憶も皆無。
僕、日記なんて長続きしなそうだし、二度と読み返すつもりもない。
今日は雨だ。
その日の気分によって、公園へ出たり部屋で書いたりしている。
最近は外で書くことが多かったから、たまには家にいるのもいいみたい。
自分の部屋から通りを見下ろす。
通りを歩く人影も少ない。
なんと言っても子供の声がしない、別に子供は嫌いじゃない。ひとの生きてる音も嫌いじゃない。
ただ、今までひとの音なんて唖透だけだったから、ちょっと戸惑ってるだけ。
そしてもう唖透はここにいない。
僕は寝室から雨の裏通りを眺めながら、いつものように日記帳を開いた。
まだ信じられない。
唖透が死んだことも、イタリアに来たことも、零一に会えたことも全部。
僕が今こうして生きてることさえも実感できない、でも僕を突き刺す陽の光を見つけるとき、自分はまだ生きてるんだ、って感じるよ。感じられるだけかもしれないけど。
ねぇ、唖透。
唖透はこうして僕だけ生きながらえちゃったこと、怒ってる?
僕は怒ってるよ。
唖透に置いていかれたこと、許してないよ。
僕はいつだって唖透のことを探しているのに、返事だってしてくれない。
唖透はいまどこにいるの?
呼ばれたら返事をしろ、って僕を叱ったのは唖透でしょ?
そんなの無責任だ。
本当は、唖透が何で死んだかなんてどうでもいいんだ。
本当に知りたいのは、なぜ唖透が僕を置いていったか、だ。
こうして、毎日毎日唖透に問いかけていればいつか返事がある、と期待して待っていてもいいんだろうか。
僕は、唖透なしじゃ唖透を探すことすら出来ない。
零一には御影がいるし、御影には零一がいる。
僕には?
―――僕の騎士はいま遠くに行っている。
それをお姫様はじっと待つ。
でも僕はお姫様なんかじゃない。追いかけて行くことだって出来る。
でも、何しに来たんだって怒られるのが怖くて足がすくんでるんだ。
追うことも出来ず、一人で待つのも心細い…。
今すぐにでも会いたいのに唖透の言葉がなかったら前に進むことも出来ない、そう。
結局僕は唖透なしじゃ何にも出来ないお姫さまなんだ。
ねぇ、唖透。
僕たちは忘れていく生き物だ。
人はもともと忘れていく生き物なのかもしれないけど、僕たちの記憶は―――。
〈シッパイ サク ハ ショブン ナ ノ ?〉
僕は怖いよ。
このまま唖透のことも忘れてしまうんじゃないか、って。
―――怖いよ。
でもそんなことよりもっと大事なことがあるよ。
〈ダレ ガ アスカ ヲ コロシ タ カ〉
誰が唖透を殺したか。
〈ヒサシブリ ニ イケン ガ イッチ シ タ〉
* * *
その日、夕食が終わると零一は僕に一枚はおってくるように言い地下室へと案内してくれた。
僕が地下へと下るのに御影と零一はそろって無表情だった。
いつも通りに見えたけど、それはいつも通りを装っているだけなんじゃないか、なんて深読みしたりした。結局、僕の深読みは的中することになる。
このときの僕は先天的に与えられたこの体で、未来の匂いを捕らえていたのかもしれない。
冷たい空気の中、螺旋階段を下へとくだる。
所々に置かれたランプの灯が僕たちの足元を照らしていた。
こんな怪しいところでいったい何をしてるんだろう…。
僕の一歩前を歩く零一の背中がやけに大きく見える。
零一をこんな間近で見るなんて。
細身で華奢に見えるけど、肩幅は僕なんかよりずっと大きい。
細くやせた手、きれいな指。
真っ白な白衣にかかる長めの髪が階段を下りるごとに揺れ、僕はゴクっと唾を飲む。
底にいくにつれて、僕には見せなかった零一の本職が少しずつ現れてくるようだ。それはいつの間にか、零一に対する大きな期待へと変わっていった。
やがて階段が底をつき、零一の足が止まった。
なんだか―――。
「コーヒーと…、タバコ?」
零一はなんともバツが悪そうにボサボサと頭を掻いた。
「まいったな…。さっ、こっちだ」
またうまい具合に巻かれて僕は零一の後に続いた。
打ちっぱなしにされたコンクリート壁が地下の冷たさに拍車をかける。
横穴のような部屋は全部で三つあった。
ひとつは書斎と大型の研究室で、ひとつは零一が使っている部屋、もうひとつは…。
「物置だよ」
零一はそういって流した。
それからまた少し行ったところで足を止めた。
「ここだよ」
僕たちは真ん中の部屋の前で立ち止まる。
零一の手でその扉が開かれる。
「どうぞ」
「…おじゃまします」
零一の生活がにじみ出たその部屋に僕は呆気に取られた。
泥棒にでも入られたかと思うような散らかり方。上品できれい好きの零一からは想像出来ない在りようだった。
「零一。ここ本当に零一の部屋なの?」
「まぁな」
「二階の寝室とはだいぶ違うね…」
僕は部屋中を見回した。
御影が許すんだろうか、こんな散らかり方。
「まぁ座って」
「どこに?」
「失礼だな」
零一は山積みにされた本を邪魔気にのけると、あいたベッドの上に僕をすすめた。
零一の大雑把な振る舞い。
僕はまたひとつ零一の新たな一面を見ることができた。
ゆっくりと分かってくる零一の本当の姿。僕はそれがうれしかった。
「これでいいだろ、瀬沙の特等席だ」
「うん」
僕はにっこり笑った。
「コーヒー飲むか?」
「いらない、眠れなくなるから」
「やっぱり子供だな…」
僕を子供扱いする零一の声が、コーヒーの苦味とともに漂ってくる。
「零一、タバコ吸うの?」
「〈零一、タバコ吸うの?〉、難しい質問だね」
零一は僕の言葉をそのまま繰り返し、コーヒーカップを慣れた手つきで持ちながら机に向かった。
そしてパソコンの電源を入れる。
僕は零一の答えを待っていたが、ついにタバコの話はしてくれなかった。
立ち上がったパソコンに向かい合う零一。
零一の真剣なまなざしを観察する僕。
その瞳が見つめる画面を覗き込んでも、いったい何が書いてあるのか、僕にはさっぱり分からない。
いつしか僕の視線はパソコン画面をはずれ、零一自身に向けられていた。
やっぱり思い出せない。
ほら、零一に聞きたいことがあったはず。
最初に零一に会った時の違和感―――。
〈ドウシテ レイイチ ハ〉
どうして零一は…?
どうして零一は―――、思い出せない。
ほら、唖透とも話した。
ほら、何だっけ……。
ここへくる前まではちゃんと分かっていた。
思い出して、瀬沙。
零一に初めて会ったときのこと。何かにびっくりしたんだ、僕たち。だってそのとき零一、僕たちの予想と大きく外れて…。
大きく外れて―――。
〈ドウシテ レイイチ ハ〉
どうして零一は―――。
〈ドウシテ ボク ハ〉
どうして僕は…?
「瀬沙、唖透のこと好き?」
僕はハッとした。
ハッとして顔を上げると画面と向き合ったままの零一の姿があった。いつのまにかふち無しのメガネに変わっている。真剣に画面に向かう姿は美しく凛々しい。
僕はグッと呑まれたまま返事が出来なかった。
「瀬沙、唖透のこと好き?」
呆気にとられた僕を察してか零一はまた同じ質問を繰り返した。
それでも僕はなんて答えたらいいか分からず黙ってしまった。
すると零一は質問を変える。
「唖透が死んだときどう思った?」
「……」
「唖透に執着している割には言葉数が少ないな…」
零一は独り言のようにつぶやいた。
ただ、その葉は僕の耳にしっかりと届いていて、僕の心をゆるがす。
「いい返事を聞かせてくれると思ったんだが…」
零一の言葉が僕の心を引き裂くようだ。
唖透、そして零一。
どっちも欲しい。
結局零一は僕の目を見ようとはせず、パソコンの画面を見つめ、キーボードを叩くばかり。
それでも良かった、そっちの方が僕の心の中、読まれないですむから…。
「それを聞くために僕をここへ連れてきたの?」
僕は零一の背中に向かって問いかけた。
「違うさ」
零一はようやくパソコンから身を離す。
そしてコーヒーに手を伸ばし、僕の方へ体をむけた。
「君たちに関するだいたいのことが分かってきた。そして問題の根源がどこにあるのかも分かってきた」
「えっ、本当に?」
興奮を隠し切れない僕とは対象的に零一はいたって静かだった。
ただ、僕をここへ連れてくるときのような、異様な落ち着きでもあった。
「もうすぐ瀬沙はこっち側の人間になる。だから、君がここに自由に出入りできるよう、ここの場所を知らせておく必要があった」
「なに?…何言ってるのかよく分からないよ」
「今はね。でも全部分かってしまう時が来るよ、そう遠くない未来に」
僕は黙っていた。
いまここで僕が騒いでも、何の意味もないと思ったからだ。
すごく怖い。
零一がすごく怖いと思った。
でも、早く唖透に教えてあげたい、そんな喜びもあった。
「一つだけ聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「私に答えられることなら」
零一は僕が極度に緊張しているのを察したのか、いたずらっぽく微笑んだ。
今の零一が出来る精一杯の優しさだったのかもしれない、だから余計に嬉しい。
「…零一は、僕たちの探している〈零一〉?」
僕は恐る恐るそう口にした。
一瞬、時間が止まったように感じたけど、零一は、
「言えない」
と、笑顔で答えただけだった。
なんだかうまく逃げられた感じ。零一ずるい。
でも僕は、
「ありがとう」
と頭を下げた。
「言えない」と言うのは「ちゃんと答えがあるけど言えない」ということで、「分からない」よりもずっと良い返事だから。
「どういたしまして。少しは役に立ったか?…見返りを期待するみたいで悪いが、二つだけ、私の質問にも答えてくれないか?」
そのやわらかな表情に笑みがあったけれど、僕は怖くてそれを了解するのにためらった。
零一は僕たちの真実を知る男であり、救世主だ。
でもそれは同時に、僕たちをさらなる絶望に追いやる悪魔なんじゃないか、ってときどき思うことがある。
〈シンジツ ハ アクマ ガ ニギッテ イ ル〉
真実を知るのが、少し怖い…。
「協力してほしいんだが…、ダメかい?」
僕は「いいよ」と返事をするしかなかった。
「聞きたいのは二つだけだ。…瀬沙は、唖透のこと好きかい?」
またそれ…?
その答えはそんなに重要なの?
もう…。
〈モウ アスカ ハ シンダ ノ ニ〉
「もう唖透は死んだのに…。その答えは零一にとってそんなに大事なの?」
「質問をするのは私だ」
ほら、零一の笑顔はただの飾り。
僕を釣るための道具。
それにまんまと釣られる僕はお魚。
「好きだよ。嫌いだったらここまで面倒みたりしない」
「ふむ。…次、」
反応、それだけ?
そんなに大事な質問とは思えないけど…。
「次、唖透が死んだ時どう思った?」
来ると思った。
絶望的に悲しかったよ。悔しかったし、生きている意味を失った。でも、思議と涙は流れなかった。人が死ぬのを見るのはこれが初めてじゃないけど…。あんな気持ちになるのは初めて。…初め零一に追い返された時もそんな風に思った」
零一はふぅ、とため息をついた。
いったい何を考えてる、零一?
「…いい返事だよ、瀬沙」
〈マタ ホメ ラレ タ〉
零一はまたパソコンへ向かった。
僕の体をいつもの悪寒が駆け巡る。
すさまじい程の嫌悪感。
この感じ、嫌い―――。
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