【2】
僕は公園へ出かけるのが好きだった。
日本にいたときはあまり外に出れなかったから、なんでもないような事が僕たちにはとても新鮮なんだ。
あれから僕は、零一のところに置いてもらっている。居心地は良い。零一といると、絶望しないでいられるから。
毎日何をするわけでもなく、僕は外へ出たり、本を読んだり。
のんびり。
零一と御影は……。いったい何をしてるのか、僕には分からないお仕事をしてるみたい。外に出ていったり、いつの間にかいなくなったり。忙しく飛び回ってるのかな。
僕たちの調べは進んでるのかなぁ…。
御影は相変わらず僕には不愛想だ。でもそれももう慣れたし、嫌では無くなった。それが御影なんだと理解出来たからだ。零一もそういう御影をすべて受け入れて、御影を大事にしている。
ただ、零一は御影のように単純ではないみたい。今でもときどき意味不明のことを言って、僕をからかう。そのひとつひとつを真剣に受け止めてしまう僕がいて、正直疲れるときも多い。でも、それが〈零一〉の言葉だと思うと、僕にとっては救いになるんだ。
零一は本当に僕たちの探していた〈零一〉じゃないんだろうか。零一が本当の〈零一〉でないなら、〈零一〉の真実はどこにあるんだ?
僕たちはやっぱり夢を見ているんだろうか。
唖透、僕たちは誤った道へ進んでいるんだろうか。
……。
唖透からの返事はなかった。
ふと、昨日の零一の言葉を思い出す。
『混乱することを承知で言うが…』
零一はそう言って話を切り出した。零一の言葉に踊らされるのは日常茶飯事だ。いまさら何を言われたって動揺なんてしない、そう思ってたけど。
『唖透の遺体だが』
〈唖透の遺体〉、その言葉を聞いただけで動揺してしまう僕。零一が僕を子供扱いする理由は、そういうところにあるのかもしれない。
『前にも言ったが、唖透は普通とは違う死に方をしている。瀬沙の依頼にあった〈唖透の死因〉を解明するにはまだまだ時間がかかる。不安に思っているだろうから先に言うが。唖透の遺体はデータを取り終えるまで埋葬しない』
埋葬しない。
それはどういう事?人は死んだらすぐに埋葬される。遺体が傷むからだ。でも唖透は…。零一が最初に言った「混乱を承知で」って言った真意は、こういうことだったのか。
唖透はいったい、何なんだ―――。
考えてしまうけど、答えなんて出ないことはもう分かってる。
今回もまた、僕は零一の言葉に踊らされているみたい。
やめた。これじゃ零一の思うつぼだ。
唖透は。
唖透は僕を生かせてくれる大事な人だ。それ以外の何者でもない。唖透は死んだかもしれない。でも僕はこれからも唖透に生かされていくだろう。唖透は僕にとって、そういう人だ。
不思議に思われるかも知れないし、分かってもらえないかも知れないけど、…でもそういうこと。
時間はすべて流れ去る。
でも過ぎていった時間の中身は僕の中に留まる。もちろん残るものは極わずかだけど、皆無じゃない。
だから僕の中にある唖透を、言葉に乗せて他人に話すのはあまりいい事じゃないと思ってる。必死に探した四葉のクローバーを、わざわざ人にあげたりしないでしょ?それとも宝物は人に見せびらかしてこそ価値がある?
いつものベンチに腰を下ろす。
おじいちゃんと散歩をする子供。歌壇に咲く鮮やかな花。次から次へと溢れ出す噴水。風にそよぐ草、そして僕。
幻想のような現実を見ているだけで、自分に課せられた運命を投げ出したくなる。課せられた運命さえ僕たちは掴めない。
もうどうでもいいや。
そんな気持ちが僕の心に芽を出した瞬間。
投げやりな気持ちが一斉に駆け巡り、僕の体が普通の男の子に生まれ変わったような錯覚に陥った。それは深い底なし沼に落ちていくかのようで、なんとも気持ちのいいもの。妙な自信が沸いてきて、どんどん奥のほうへ行ってみたくなる。そうだ、運命なんかに翻弄されるなと、自分にだって幸せになる価値があるはずだと。
やがて暗闇の底が見え初めた。小さな一粒の光だ。そこへ出れば本当の自分になれる気がして、楽になりたい一心でその光の先を目指した。
やがて僕は無数の光に包まれた。そして光の先の出口を見つける。出口だ―――。
必死の思いでたどりついた光の底は、やっぱり小さな公園のベンチだった。
僕はなんだかバカにされたような気がして、気分が悪くなった。
帰ろう。
そうだ。
何か僕に手伝えること、ないかな…。
* * *
その夜、夕食も一段落した頃。
先に話を切り出したのは零一だった。
「ところで瀬沙。地下に研究室があるのは知ってるか?」
「え、知らないよ。でも二人してどこに行ってるのかなぁ、って思ってた」
そこへコーヒーカップを二つ持った御影がやってくる。御影はそのカップを僕と零一の前に置いた。
「なるほどね、地下にそういう部屋があるんだ」
零一と御影の毎日が一本の線でつながったような気がして一人で納得していた。ただ、御影の表情がいつにも増して暗く、緊張に満ちていると、僕はこのとき全く気づかなかった。
零一のこの一言が、僕たちの終わりに繋がる第一歩だったと気づくのは、だいぶ後になってからだ。
「そうかそうか、急に私たちが消えるから不思議に思ってたんだな。御影からも教えてもらってなかったのか?」
「御影は零一の許しがないと何にもしてくれないよ」
「……」
零一は御影がテーブルから離れるのを待つように口をつぐんだ。
「…そうだろうね」
零一はそう言って御影の後ろ姿をじっと見据え、コーヒーに口をつけた。
僕は、零一の怒りにも似た無表情には触れず、返事をしなかった。
「零一はいつから御影と一緒なの?」
「御影にもその質問をしたかい?」
「したことあるよ」
そこへ僕用の砂糖を持って御影がテーブルに戻ってきた。
「〈最初から〉って言ってた。」
僕は御影の表情を確認すると、そう言った。
「ハハハ。だいぶ私に似てきたね」
零一は声を上げて笑った。あんな顔もできるんだ、御影に対しては…。側にいた御影も照れたように微笑んだ。御影のこういう顔も初めて見れた。僕はなんだか居場所が無いように思えて、寂しくなった。
〈ボク ノ レイイチ ナ ノ ニ〉
零一のところが僕の居場所のはずなのに。
僕の居場所なんて、もともとどこにも無いのかな…。
「そうだな、最初からだ。―――御影、後は大丈夫だ、戻っていいぞ」
御影はペコリと頭を下げるとまたキッチンの奥へと入り、そして二階の自室へと戻っていった。
僕はその後ろ姿をボーっと見ていた。
僕と御影の違いを考えていた。
僕も御影のように、零一に大事にしてほしかったからだ。
でも、御影との違いより御影との共通点のほうがだいぶ少ないと、すぐに分かった。
「瀬沙はああいう女が好きか?」
零一の意地悪な言葉で我に帰る。
「全然」
僕は零一の意地悪には動じず、正直に答えた。
「御影、僕には冷たいんだ、愛想悪いし。さっきだって御影が笑うのを初めて見たよ」
零一は僕が御影の話をするのを楽しげに聞いていた。
「それで?」
「だから好きじゃない」
零一が静かにカップを置く。
「へぇ。御影はそういう女だ、汲んでやってくれ」
零一はまた御影の肩を持った。
「零一は御影のこと好き?」
僕は少し声を落として聞いた。
零一は少し考えてから、
「御影は…」
と言いかけたが、やっぱり後が続かずにそのまま黙り込んでしまった。
僕はどうしてもその続きが聞きたくて少し意地悪に聞きなおした。
「じゃあ、もし御影に好きだって言われたら?」
「恋愛に興味はないな」
「例えばだよ。言われたらどう答えるの?」
零一は思いに耽って考え込んだままボソっと答えた。
「―――私もだ」
僕の胸がドキンと揺れた。
照れを隠す零一がこの上なく可愛らしい。
が、聞きたい答えではあったけれど、帰ってきた答えには度肝を抜かれた。
御影にしか見せないこの表情に僕は少しだけ嫉妬する。
「御影は零一にとって特別なんだね」
「ああ、特別な存在だな、私にとっては」
今度はすぐに返事が返ってきた。
その口調ししっかりしていて、心の底から御影を大事に思っているように聞こえたから、ますます御影が羨ましくなった。
「瀬沙もきっと、誰かの大切な存在になっているはずだろう」
誰か?
とって付けたような慰めと意味ありげな答えのせいでちょっとだけ不満はあったけど、それでも僕はうれしかった。
僕は零一のそういう顔がもっと見たくなって、いじわるな質問を探した。
「じゃあ御影が…」
「瀬沙」
零一は静かに僕の言葉を遮った。
「恋愛に興味はないと言っただろう」
「じゃあ御影の気持ちはどうなるの?」
「御影に感情などあるものか」
僕は絶句した。
石弓に弾かれたような僕の表情に零一はハッと我に帰る。が、零一は御影の感情に関して弁解しようとはしなかった。
〈シッパイ サク ハ イ ラ ナイ〉
僕は気を取り直して御影の話を続けた。
「最近は前ほど嫌じゃないよ、御影のこと」
「…ほぅ、どうして?」
零一が珍しく興味あり気に話しに食いつく。
「慣れたんだよ」
「慣れた?」
「零一、今日はずいぶん僕の話を聞いてくれるね」
零一はびっくりしたように改まった。
「そうか?」
零一は口もとに運んだカップをテーブルに戻すと静かに言った。
「私以外の人間が御影をどう見ているのか、興味がある」
ほら、やっぱり。
零一は僕の話を聞いているんじゃなくて、御影の話をしたいだけなんだ。
「どうして?」
零一はしばらく考えるふりをしてからこう言った。
「なんでだろうなぁ」
答えは簡単に出ているのに言わないつもりでいることは、僕にだって容易に分かった。
それとも零一はそうやってわざと僕と御影を差別しているんだろうか。
僕が、認められない存在だから―――。
せっかく零一とお話できると思ったのに…。
もうこの話はしたくなかった。
「ところで、零一はどうして日本出たの?」
零一の目が一瞬だけ止まった。
零一にとって触れられたくないところを聞いていることは自分でも分かっていた。
今度は僕が零一を困らせる番だ。
…こんな事だから僕は御影のように大事にされないのかな。
「たいした理由はない」
零一はいつもの冷静さでサラリと答えた。
その答えが嘘だということも僕には分かっていたし、零一はその嘘が簡単にバレると分かっているようだった。
「二人の赤ん坊より日本を離れることの方が大事だったんだね」
「さあな、私には分からん」
分からないって、どういう事?
僕は少考えたけど、この零一の言葉は真実だと思った。
「そう…」
だから僕は、零一の不思議な答えに静かに納得した。
零一は、おとなしく引き下がった僕を眺めながら、しばらく黙っていた。
そして口元に微かな笑みを浮かべると、そのままにっこり微笑んだ。
「ありがとう」
〈アリガトウ〉
僕の胸がドキンと鼓を打つ。
零一の新しい表情がまた見れた。
不思議なひとだ、零一って。
そうか、僕が、これ以上の詮索をせずに飲み込んだから、ありがとうと言っているのか。
自分に言い聞かせて平静を保とうとする自分が滑稽に思えた。
僕のほうがよっぽど不思議だ。
零一はよく嘘をつく。
それは最初から分かってる。
何かを隠すためなのか、認めたくないだけなのか―――。
きっと、まだ言わないだけで、時がくればきっと何もかも分かるんだろう。
その時を、零一はじっと待っているんだろう。
何もかもを見通していて、だからそんなに苦しい顔をするんだろう…。
そう思っていても僕は、目先の寂しさに負けてこうやって零一をさらに苦しめようとしてしまうんだ。
だから僕より御影の方が好きなのかな、零一は…。
「もう部屋に戻れ」
零一は空になった自分のカップをキッチンへ運ぶ。
時計に目をやると夜の十一時を回っていた。
僕はハッと、自身の本題を思い出した。
「ちょっと、零一」
「ん?何だ」
キッチンの奥で零一が返事をする。
「僕、毎日何してると思う?」
「はぁ?何言ってるんだ?カップ空けたら持って来い、洗うから」
「質問が悪かったかなぁ。僕も何かお手伝いしたいんだけど…」
急いで飲み干したコーヒーカップを零一の元へ運ぶ。
「僕も御影みたいに零一の手伝いしたい、って言ったらダメ?」
「お前な、これは私たちの仕事だ。子供のヒマつぶしじゃない」
そうだよね…、と呟きながら僕は零一にカップを渡した。
零一、キッキンに立つこともあるんだなぁ。
まくった袖が濡れないように、不慣れな手つきでこなしていく。
見てる方が危なっかしい。
「でも確かに毎日ヒマだろうな…。調査結果も含め、瀬沙に報告するにはまだ時間がかかりそうだ」
零一は独り言のようにつぶやくと、キュッと蛇口をひねり水を止めた。
かけてあるタオルで手を拭く。
「瀬沙、暇なら毎日日記を書いたらどうだ?…絵日記でもいい」
「絵日記、って…。小学生の宿題じゃないんだから」
僕はおかしくて笑った。
ハハ、と零一も笑う。
「確かに絵日記は変だな」
零一も自分の言った言葉がおかしく思えてきたみたいだ。
「瀬沙がヒマなのは分かった。私からも御影に何か用意させよう。今日はシャワー浴びてもう寝なさい」
零一はテーブルから雑誌を取ると、そのまま僕の知らない扉へ消えた。
地下の研究室かなぁ。
この時間になっても、零一はお仕事あるのか。大変だなぁ。
僕は零一に言われた通り、シャワーを浴びて寝ることにした。
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