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愛される条件・愛される理由  作者: 鮎野しおやき
2/13

【1】

「唖透が死にました」

僕は早朝、唖透のまだ温かい亡骸を抱いて再び零一を訪ねた。

 人間の躯を抱える僕に一度は身を怯ませたものの、零一は軽く頷いた。

 「とりあえず入りなさい、話を聞こう。」

 零一は僕の来訪を意外にもすんなり受け入れた。願っていたことではあるけど昨晩のことを思えばずいぶん拍子抜けだ。

 玄関を上がるとソファーのあるリビングに通された。大きなついたての向こうはキッチンだろうか。ソファー脇にある本棚にはイタリア語で書かれた文字ばかりの雑誌が並ぶ。

 零一の白衣からも伺える微かな学者の匂い。

 ただ一番驚いたのは、僕たちが想像していたよりはるかに…。

 はるかに……?

「唖透、だっけ、引き取るよ」

 故意ではない疑いの目を零一に向けながら、唖透の身柄を零一の手に預ける。

 〈人違いだ〉と言った目の前の男を信用していいのか。僕の頭で〈唖透〉と〈零一〉が

ものすごい勢いで交差した。

 「あの…」

 僕はたまらず呼び止める。

 「あなたが僕たちの探していた〈零一〉なの?…違うなら唖透を渡せないよ」

 零一は少しだけ足を止めた。

 「そこのソファーに掛けて。いま温かいものを入れよう」

 零一は僕の質問には答えなかった。

 唖透を失った不安、零一に逢えた期待、その両方ともあった。でも、僕はどちらか一つを選ばなければいけないような気がした。唖透にそう急かされているような気がしてならなかった。

〈モウ アスカ ハ シンダ ノ ニ〉

零一の華奢な身体が、唖透の亡骸をしっかり抱きかかえる。その後ろ姿をじっと見つめていた。零一に唖透を渡しても、僕の両手にはまだしっかりとその温もりが残っている。唖透は本当に死んでしまったのだろうか…。

 僕はぺたりとソファーに腰を下ろした。

零一は唖透の亡骸を抱えたまま、奥の扉へと消えていった。

僕の視界から唖透が消える。

僕の心臓がドキンと鳴った。

物心ついた時からずっと一緒だった唖透。

唖透は本当に僕を置いて行ってしまうんだろうか。

いつものようにその名を呼べば、唖透は僕の隣に戻ってきてくれるだろうか。

唖透が隣にいない時間を、僕はこれからどう生きていけばいいの?

〈モウ アスカ ハ シンダ ノ ニ〉

僕は唖透が消えた扉をじっと見つめていた。

相変わらず僕の鼓動は落ち着かない。

唖透が隣にいない恐怖と不安からだろうか。それとも、僕たちが探していた〈零一〉に手が届きそうだからだろうか…。

僕は顔の前でギユッと手を組むと静かに目を瞑った。

僕のいるソファーの後ろ側が大きな窓になっている。淡いレースのカーテンから朝日が差し込んでいた。きつく目を瞑っても感じられる太陽の光。

唖透は僕の太陽になったんだと、思いたい…。

どのくらいそうしていただろうか。しばらくすると、コーヒーの良い香りとともに零一が戻ってきた。

戻ってきたのが零一だけだったから、僕の心臓がまたドキンと鳴った。

そうか、唖透はもういないんだ。

これからは、僕ひとりで〈零一〉を探さなきゃいけないんだな。

 「とりあえず、唖透の遺体は私たちの研究室に安置しておくよ。コーヒーで良かったかな?」

 「いえ、お構いなく…」

 「律儀な中学生だこと」

 僕はムッとして零一の方を睨んだ。

 どうしてこの人は人が一人死んでいるのにこうも明るくできるの。

 本当に僕たちに何の関係もないのかな。

 もしまたここで追い返されたらどうしよう。〈一緒に行こう〉と言ってくれた唖透はもういない。

 独りになるのは、いやだな…。

 「どうした?」

 正面に腰を下ろした零一はコーヒーカップに口を付けながら、上目遣いに僕を見た。

「僕、瀬沙と言います。十七です」

「……そう、瀬沙ね」

 零一は少しだけ寂しそうな目をしたように見えた。小さなメガネ越しに覗く零一の瞳は僕の中を泳ぐ。

 そう言って零一は静かにカップを置いた。そして小さな咳を一つ。

 「私の名は零一だ。でも君たちが探している〈零一〉かどうかは私にも分からない。それに君たちの存在も許したわけじゃない」

 存在を許したわけじゃない?

 僕たちの存在を許せない?

 頭がパニックになりそうだった。

 「…許せない?どうして?…僕たちはあなたに呼ばれてここまで来たんですよ」

 「違うな」

 零一は僕の言葉を静かな口調で強く遮った。

 僕は目の前の男に少しだけ恐怖する。

「君たちをここに呼んだのは私じゃない。〈零一〉という男だろう」

零一の表情はいつの間にか穏やかに戻っていた。カップに手を当て、暖を取る姿が和ましい。

「…じゃああなたは誰?僕たちの探していた〈零一〉はどこにいるの?」

 僕は恐る恐る聞いた。

 すると零一は一瞬おどろいたように目を丸くした。

 僕の背中で昇る太陽が、零一のメガネに反射する。

 「とってもいい質問だね」

 零一の優しすぎる眼差しに悪寒が走る。

 「でも、残念だけど私にも分からないな」

 僕は気が変になりそうだった。目の前にいる男の言っている一字一句が理解できない。

〈零一〉なら僕たちを救ってくれると、必死になってここまで来たんだ。〈零一〉なら僕たちを笑顔で迎えてくれると信じてここまで来たのに。

 また僕たちは二人だけで彷徨うの?

 もう唖透は死んだのに…。

「そもそも二人はどうして〈零一〉を探してるんだ?〈零一〉はいなかった、それじゃ駄目なのか?」

 僕は自分自身を見失いそうになりながらも必死で我を保った。

 もう唖透はいないんだ。

 唖透を助けられるのは、僕しかいない。

 逃げだしたくなる衝動を必死に押さえ、僕は口を割った。

「駄目だよ。…僕は、僕たちは〈零一〉ならなんとかしてくれるだろうと思ってここまで来たんだ。手紙を残してくれたのは本当に嬉しかったし、謎が解けるって信じてた、普通の生活が出来るんじゃないか、って夢みたりしたよ。でもあなたは僕たちの探していた〈零一〉じゃなかった。唖透は一緒に行こう、って言ってくれた、でも唖透は死んだ。だから―――」

 僕は胸に詰まっていたもの全てを搾り出すかのように吐き出した。自分でも抑えのきかない心の奥が、次から次へと言葉になる。

 零一は僕のその一部始終をじっと見ていた。そして呆れたように言った。

 「……だから?」

 「だから、…ここに置いて欲しい。何でもするよ、帰るところなんて無いんだ。帰って来たんだよ、僕たち…」

 僕はこぼれそうな涙を必死にこらえて深々と頭を下げた。自分でも後悔しそうなほど素直な言葉にいっそう涙がにじむ。二人が歩んできた今までを全て否定してしまうかもしれない、昨日までの唖透を自分の中から洗い流してしまうかもしれない、そんな気がして怖かった。

 「どうして私が〈零一〉でないのに、ここに置いてくれ、なんて言うんだい?」

 「分からないよ。でも、それでもあなたを〈零一〉だと信じたい僕の気持ちが、そう言ってるんだよ」

 零一はしばらく黙っていた。

 僕とも目を合わせようとせず頬杖を付き、まるで魂が抜けたかのようにボーっとしていた。今の僕の言葉、ちゃんと聞いていただろうか。

 僕は零一の言葉を待った。

 深く沈めていた頭をゆっくりと起こした零一は、大きくため息をついて僕を見据える。ひとつひとつの仕草がとして重々しいものに感じられて、僕は零一から目をそらすことが出来なかった。

 「…いい返事だよ、瀬沙」

 僕の体に激しい悪寒が走る。

 この感じ、大嫌いだ。

 僕はたまらず目をそらす。

 「君たちの言うことは大体分かったよ。」

 零一は静かに席を立った。

 「コーヒー駄目だった?」

 零一は中身の減らない僕のカップを上から覗き込んだ。高いところから僕を見下ろす零一。でもそんなに嫌じゃない。僕は首を横に振った。

 零一が再びキッチンへと消えていく。

不思議な気持ちになった。彼は〈零一〉ではないと言うけれど、今の僕にはそんなことどうでも良かった。〈零一〉は誰でも良かった。僕を認めない、と言い放った彼でさえも。

すがるように〈零一〉を追いかけていた自分の瞳が、キッチンに消える零一までもを追う。ここで逃がしてたまるか、と。

唖透と一緒にどこか遠いところへ行ったほうが楽だったか?

恐れてどうする、このまま逃げるのか?

また逃げるのか、僕は―――。

逃げる?

何から?

この運命から?

〈零一〉から?

―――それとも唖透から?

 〈モウ アスカ ハ シンダ ノ ニ〉

 ふと我に返り顔を上げる。

 ちょうど零一がキッチンから戻ってくるところだった。そしてまた僕の前に腰をおろす。

 その時、二階へと続く階段から一人の女性が降りてきた。

 零一と同じ白衣に身を包んだ、黒髪の綺麗な日本人だった。肩より長めに伸びた髪が真っ白な白衣に映える。

 なぜだろう、僕はその女から目が離せない。

 昔、会ったことある、かな?〈零一〉に関係ある女なのか、な?

 僕はその女に対する詮索をやめる事が出来なかった。

 「やっぱり気になる?」

 零一が意味ありげに僕の顔を覗き込んだ。

 〈シッパイサク ハ ショブン シ テ〉

 さっきまで硬く強張っていた零一の表情がパァっと明るくなる。そして微かな笑みを浮かべた。

 零一が笑うのを初めてみた。

 「御影、こっちへ来なさい」

 御影と呼ばれた女性は物静かで無愛想だった。

 やっぱり会ったことなんてないや。

 「瀬沙、紹介するよ。私の助手で御影だ」

 零一は御影の側に立ち、僕と深影を会わせた。僕はあわてて立ち上がり軽く会釈をする。

 「瀬沙、といいます」

 「御影です、よろしく」

 御影は本当に色の無い女だった。

 そしてキッチンへと消えていく御影。

 僕たちはまた元いたところに腰を下ろした。

「御影はここの家事全般をしている。私の助手でもあるが、チームの仲間だ」

「零一は何の研究をしてるヒト?」

「遺伝子工学が専門だ、何でもやるさ」

ふぅん、と僕が言った。

「朝食を取ったら大学の研究室まで出かけなくちゃならないんだ。だから今日一日家を空けるよ」

また、僕がはぁ、と返事をする。

「あの、ところで僕は……」

僕はうやむやになりそうな大事な本件を零一の前に突きつけた。さっきまであれほど緊迫した中でやり取りをしていたのに、零一だけが急に別世界へ行ってしまったみたいだ。「今日一日ゆっくり休んで、よく考えてみるといい。私も君たちのことをいろいろと考えたい。私も急な話でどう返事をしていいか、正直迷っている」

「あの、僕たちは…」

僕は自分でも分からないうちに零一の言葉を遮った。零一が僕を遠ざけるんじゃないかと不安になったんだ。僕たちの居場所はここしかないのに…。

すると零一は僕の不安を見透かしたように言葉を続けた。

「大丈夫、前向きに話し合うよ」

 話し合う?

 誰と?

 部屋を仕切るついたての奥で、ジュっと卵を落とす音がした。

 キッチンでは御影が朝食の準備をしているようだった。朝から落とすコーヒーとこんがり焼けたトーストの香りが僕のところまで流れてくる。

 僕の顔がほころぶのが分かった。

 「瀬沙も食べるだろ?」

 「うん」

 僕は元気よくそう答えた。

 「子供って単純だな」

 零一はそう言ってまた笑った。


  *  *  * 

 零一はすばやく食事を済ませると、颯爽と出て行った。

 今度もやっぱり、零一には近くにいて欲しかった気がする。このまま〈零一〉を失うんじゃないか、そう思うだけで僕の気は狂いそうだった。零一のいた空間を夢の続きのような心地で眺めることしか出来ない。

ただ、唖透の代わりは誰もいない、そう言い訳のように強く心に言い聞かせる自分がいた。

 「部屋へ案内するわ、付いて来なさい」

 やっぱり無愛想だ。こんな女とやっていけるだろうかと不安がよぎる。僕としてはもう既にここに居座るつもりでいるからなお居心地が悪い。それとも、今日限りの仲だと思ってこんなに愛想が悪いんだろうか。

 僕は自分の都合のいいよう勝手に話を進め、思い通りにならない俗な現実に少し笑ってしまった。

 下の見える階段を恐る恐る上りながら、僕は揺れる白衣の裾を眺めていた。

 二階はバルコニーのような造りになっていた。一緒に朝食を取ったテーブルが微かに見える。零一と一緒にコーヒーを飲んだソファーは綺麗に見渡せた。

 「ここよ」

 御影は一番奥の一室の前でピタリと足を止めた。

 「はぁ、どうも…」

 僕は会釈し、その扉に手をかけた。

 質素なところだ。でも僕には申し分ない。

 大きく開けられた窓から入り込む、少し強めの風になびく白いカーテンが印象的。窓の下からはスラムに反して子供たちの元気な声が響く。開けた窓が真っ青な朝の空を映し、しても清々しい朝を作り上げていた。

 清々しい朝なんてもう遠の昔に忘れてしまっていたよ。

 「零一の部屋はこの隣、私の部屋はその隣よ。私は今日一日部屋にいるから、何かあったら私を呼びなさい」

 そう言うと御影はまた一階のキッチンへと戻っていった。

 僕は小さな自分の荷物をもって部屋の奥へと進んだ。そしてベッドの上にドンと腰掛ける。フカフカのベッド、久しぶりだ。御影の白衣が部屋のカーテンとだぶり、僕は窓から下を眺めた。やっぱり小さな子供が集まって何やら騒いでいる。僕は何とも和ましい気持ちになる一方で、どこかやるせない怒りに見舞われた。仕方ない、僕たちはこういう星の元に生まれたんだ。

ね、そうでしょ?唖透―――。


  *  *  * 

御影と二人っきりで無言の昼食をとった後、僕は許しをもらって町へ出た。

 唖透と歩いたイタリアの隅っこは、僕を歓迎してくれていないのかな。二人で歩き回った町並みが妙に嘘っぽく、唖透といた日々がまるで夢であっかのように何もかもが新鮮に見えた。

 ほら、僕はまたどんどん忘れていく…。

唖透は本当に死んでしまったのだろうか。

 僕は呼び込まれるかのように小さな公園へと入っていった。

 噴水近くのベンチに腰掛ける。

 辺りから聞こえる声はどれも何を言っているのかさっぱり分からない。当然だ、ここは日本じゃないんだから―――。本当に来ちゃったんだ、零一のところへ。

 どうして赤ん坊だった僕たちを置いて日本を出たんだろう、零一…。

 僕は相変わらずの強い風を遠くへ追い払うかのように空を見上げた。もちろんそれは全く無理な試みであって、ただ単に僕の髪を大きくなびかせたにすぎなかった。

無性に虚しくなる。自分の手を悠々とすり抜けた大自然の息吹が、僕の無力さを嘲笑っているように見えて、悔しかった。

見下されているような気がして、僕は枯れた地面を流される小枝を力強く踏みつけた。小枝はポキンと折れた。

どうだ、参ったか―――。

不思議と劣等感は消えなかった。

 ―――孤児院のみんなどうしてるかな……。

 僕は無邪気に遊ぶ子供たちをボーっと眺めていた。

 何も考えたくなかった。

 僕はただ、唖透と一緒にいれればそれで良かったんだ。

 秘密を知ろうとした罰だ、僕たちに天罰が落ちたんだ。

 だから唖透は死んだんだ…。

 〈零一〉を諦めれば、唖透はまた僕と一緒に来てくれるだろうか。

 僕の道を照らしてくれるのだろうか…。

 相変わらず子供たちは僕の瞳に写ろうとする。僕が彼らを追っているのか、彼らが僕を急かしているのか。

 僕は公園を出た。

             

  *  *  *

 ねぼけ眼に厳しい光陽がスッと差し込む。僕はハッとベッドから飛び起きた。時計に目をやれば既に昼の十一時を指していた。暗幕のカーテンすら引かれたままの僕の部屋に、今日も子供たちの声が聞こえてくる。

 トントン―――。

 「はい」

 僕は大きなあくびをしてドアノブに手を掛ける。

 「早く着替えて降りて来なさい、寝坊よ」

 そういって御影はズカズカと部屋に入ると、カーテンを開け、部屋にうんと光を入れてやってから、思いっきり窓を開けた。

 僕の寝ぼけ眼にも真っ白な光が差し込んだ。

 まぶしい。

 大きく息を吸ってフゥーっと吐く。今日零一からの審判が下る。

「早くあなたと話がしたいそうよ」

 御影はそう言うと僕の言葉を待たずに、スタスタと出て行った。

 僕はゴクリと唾を飲む。

 唖透、いい方向に進むよう、祈って―――。


 僕の目に写る零一は昨日と変わらず、その小さなメガネから遅めの朝刊を読んでいた。

 「おはようございます」

 僕は少し引き気味に声を掛けた。

 「今日は二人で寝坊だな」

 零一は新聞の奥で笑っていたように見えた。

 〈レイイチ ト ボク ノ フタ リ〉

「私も昨日だいぶ遅くて、困った…。夕べはぐっすり眠れたようだな」

 その言葉に一瞬ドキッとし、僕はその動揺を隠せないまま頷いた。

 零一は新聞をたたみ、僕にも勧めるようにコーヒーを口にする。 

この人は本当に〈零一〉とは別人なんだろうか…。

 例の話は唐突に始まった。

 朝食のような昼食を二人で取り、御影が片付けに席を立つのを見計らうと零一は自然に昨日の話題を持ち出した。

「それで、瀬沙はどうしたいんだい?」

 零一の表情に曇りはなく、素直な瞳が僕を捉えた。

 僕はあまりにも突然でびっくりしたけれど、零一がそういう目をしてくれたから話やすかった。

 「零一は、自分は僕たちの探してる〈零一〉じゃない、と言うけど、今の僕にとってそれはあまり重要じゃないんだ。手紙の住所はここだったし、そこに確かに零一という男がいる」

 零一は黙っていた。

 「だから、ここに置いて欲しい」

 そこまで言うと、僕は静かに零一の言葉を待った。

でも零一は僕を試すかのようにじっと聞き入っている。

僕は話を続けた。

 「…本当は、僕たちの事を教えて欲しい。知らないなら調べて欲しい。あなたが〈零一〉でないなら本当はこんな事をお願いするのはおかしな話なんだけどね。…。」

 僕が黙ると零一は自分に言い聞かせるように、静かに何度も頷いた。

 僕は零一の言葉を待った。

 「…いい返事だよ、瀬沙」

 〈マタ ホメ ラレ タ〉

 僕の体にあの時と同じ悪寒が走る。

 やっぱり大嫌いだ。

 その、僕を見透かす感じ―――。

 「何度も言うが、私は君たちの探している〈零一〉ではないと思う。そして君たちの存在は許せない」

 「許せない、ってどういう意味?」

 「さぁ、…それは君たちの方が良く知ってるんじゃないのか?」

 「えっ…?」

 僕はそこまで言うと何も言えなくなった。自分でも分からない何かが喉に詰まって言葉にならない。

「でも、君たちの面倒を見よう。瀬沙の言う二人の不思議にも協力しよう」

えっ…?

僕は目をまんまるくして零一の方を見据えた。

 なんだか、つじつまが合わない。

零一が僕に言っていることと、結果として出てきた結論。

それが話し合った結果?

「―――でもどうして…?」

「瀬沙、今は聞かないでくれないか」

 僕はドキッと息を呑む。

零一に初めてお願いをされた。だから僕はそれ以上聞く気にはならなかった。

僕の気持ちを察したのか、零一は微かに笑って頷いた。

「コーヒー入れてくれるかい?手が空いたらでいいよ」

 零一がキッチンの後片付けをする御影を呼び止める。御影は黙って頷いた。

 「それで?私から何を聞きたいんだ。私は何を調べたらいいのかな。」

 僕たちの不思議、ね……。

 いままで〈零一〉ならなんとかしてくれる、そう信じてガムシャラに走ってきたけど、いまこうして夢の中に現実があると思うとなかなか言葉が見つからない。

 何をしてほしいんだろう、〈零一〉に。

 唖透、何だろう―――。

 「唖透…、唖透がなぜ死んだか」

 「…はい。なかなか唐突だね。確かに彼は少し不思議な状態にあるな。でもそれを知りたくて私を探していた訳じゃないだろう」

 僕はまた考え込んだ。言いたいことは分かってるのに、どう言葉にしていいか分からない。今まで僕たちの不思議を言葉にしたことがないからとても難しかった。僕と唖透だけが言葉無しで共有する不気味な秘密。

 僕は生唾を飲み込んだ。

 よし。

 たった二人だけの秘密だったこの気持ちは、いま、この僕によって〈三人〉のものになる。

 大丈夫。

 後悔はしない。

 唖透だって、きっとそれを願ってる―――。

 「…僕たちの中にもう一つの自分がいる気がする。僕が何者なのかを教えて欲しいんだ。それから、僕たちが日々記憶を無くしていくことが異常であるかを調べて欲しい…」

「記憶…?」

 シ…ンと静まり返った。

 零一が僕の言葉の意味をどう理解したのかは分からない。もしかすると理解できていないのかもしれない。零一は何も答えず、その目は焦点の定まらないままに一点を捉えていた。零一が何を考えているのか全く分からなかった。だから少しだけ零一に対して恐怖を抱いた。

 僕は零一の言葉を待った。

 「記憶…。分かった。いいだろう、引き受けよう」

僕はハッとした。零一の言葉はしっかり僕のところで止まり、そして体と心に染み込んだ。僕の表情は春のように明るくなっていた。

唖透、良かった―――。

零一は残ったコーヒーを飲み干し席を立つ。

〈アリガトウ〉

「あのっ…」

僕はあわてて呼び止める。

零一の振り返る仕草が美しくて、僕はグッと息を呑んだ。

「ありがとう」

すると零一はにっこり笑って、可愛らしく頷いた。


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