【10】
いつものように夕食が終わる。
昼間大掃除をしただけあって家の中がとってもきれい。
リビングを先に掃除したから、埃っぽさも少ないや。
朝食時の日課である零一と御影の打ち合わせ。それと同じくらい、夕食後、零一とお話するのが楽しみな僕。
「昨日の今日でバタバタさせてしまったな」
たしかに昨日蒼流から聞かされた話は衝撃的なものだったけど、僕自身がほとんど理解できていないから、なんだか現実味に欠ける。でも当の零一はその話の内容を知らないわけで…。いけない事してるみたいだな、なんか気がひける。
でも、そのことばかり考えていたって仕方ない。僕がいろいろ考えたってもう答えは出てしまったんだ。そして、この先に記される運命も、すでに決まっている。そう、僕はまな板の上の鯉。暴れたって仕方ない。
「別に、全然平気だよ」
零一は今日発掘した雑誌を片手にコーヒーを飲んでいた。
「そこまで強気になっているなら、丁度いいな」
そう言うと零一は壁にかかるカレンダーに目をやった。
「…唖透のこと?」
「さすが、カンもいいな」
零一はそう言いながらまたコーヒーを口元へ運んだ。
僕は身を乗り出して同じカレンダーを覗き込む。
「今週の木曜日」
「あさって?」
びっくりして僕は零一の顔を見つめた。
「それしか火葬場が開いてなくてな」
「ずいぶん早いね…」
僕はカレンダーと零一の顔を見比べながらそう呟いた。
「瀬沙は、立ち会うつもりか?」
僕は乗り出していた身を引き、もと居た椅子にきちんと直る。
そこへ御影がココアを持ってきてくれた。
コーヒーばっかりで身体がおかしくなりそう。
だから今日は御影も密かに愛飲しているココアをお願いした。
ありがとう、と御影に言うと静かに笑ってうなずくだけだった。
「…まだ考え中」
すると零一はほぅ、と意外そうな反応を見せた。
「瀬沙も唖透と別れる決心がつかないんだな」
雑誌に視線を落としながら零一が言う。
僕は少し答えに困ったけど、よく考えてからこう言った。
「違うよ、…僕の唖透はもう死んだよ」
零一は興味深そうにまた「ほぅ」と小さく頷く。
雑誌から目を外し、僕のことをじっと見た。
まるで、試されてるみたい…。
でも恐怖は無かった。むしろ、チャンスとばかりに話を続けた。
僕が変われば、真実が見える。
「ここに来て、いつの間にかその事実を受け入れていたよ。最初は信じてなかったし、例え死んでいたとしても、それが唖透との別れにはならないと思ってた。でも不思議なことに、気がついたら唖透なしでもここまで来れていた。途中何度も何度も唖透の姿を探したし、名前も呼んだ。でも返事をしてくれたことは一度もなかった」
そこまでいうと零一は静かに「そうか」と言った。
なおも僕の言葉は続く。
「唖透はいままでもこれからも僕の中でずっと生きてて欲しい、でもたぶんそれも叶わない。僕はきっと唖透のことも忘れちゃうだろう」
「そうかもな」、と零一が言う。
「…だから、僕の中に唖透が生きているうちに、僕たちの秘密を全部消化したいと思ってるんだ」
それまで黙っていた零一がゆっくりと顔をあげる。
何かをじっと考えているみたい。
零一が深く何かを考えているときの表情、恐ろしく怖い。
奥で洗い物を続ける御影の作業音だけが部屋に響いていた。
その音だけが僕の救いだ。
「強くなったな」
僕の予想に反して、零一が微笑んだ。
えっ…。
初めて見せてくれた気がする、零一の本当の笑顔…。
僕をからかうように、でも成長を喜んでいるかのように。失笑に似た恥ずかしそうな笑顔が僕を捕らえて離さない。
その笑顔は真実だ。
僕は、零一に許されたと思っても、いい?
零一は奥の御影に声をかけた。
「御影、まだ時間かかるかい?」
いったい何を考えているんだろう、零一。
僕は御影の入れてくれたココアを手にとる。
「いえ、もう終わります」
御影の静かな声が僕にも聞こえた。
そうか分かった、と零一が言い終わると、再び僕の方へ体を向けた。
「瀬沙、私の昔話はいつ聞きたい?」
「えっ、…零一の気が向いたときでいいよ」
僕は少し動揺したけど、思っていたほどの恐怖はなかった。
昨日の一件で、だいぶ吹っ切れたみたい、僕の頭の中。
唖透を用無しみたいに扱ってみたりして、間をあけずにすべて話してもらったほうが気が楽だ。
僕があれこれ悩んだってしょうがない。
そう思っているからかも知れないけど、なんだか話をする本人の方が考え込んでいるみたいに見える。
最近の零一が小さく見えるのは、そのせいだろうか。
零一も僕らと同じように痛みを抱えているなら、…救ってあげたい。
「いつでもいいって言ったけど、別に覚悟が出来ているわけじゃないんだ。たぶん待っていても覚悟なんて出来ないと思う。だから、零一の気が向いたときでいいよ」
黙り込んでいた零一に再度僕から話をする。
それでも零一は黙っていた。
静かに目を瞑り、頬杖をついて考え込んでいた。
何か話してよ、零一…。
「そうか…。なら今から話してやろうか」
零一の真意は読めない。
目を瞑ってほお杖をついたままだ。
僕の心は不思議と乱れなかった。
むしろようやく来たか、と待ちわびている風ですらあった。
僕自身の気持ちなのに、なんだか不思議…。
〈フシギナクライ フ シ ギ〉
僕は変われたんだろうか。
「どうする、瀬沙」
零一の瞳が僕をまっすぐに捉えた。
初めて零一と対等な位置に立って、その挑戦を受けているみたい。
僕は、底なしの恐怖と計り知れない好奇心とが入り乱れる緊張を、面白がって確かめていた。
「いいよ。零一の昔話、聞きたい」
僕がそういうと、零一はとても寂しそうに笑った。
開けていた雑誌を静かにたたみ、ゆっくりと腰を上げる。
僕はその場を離れようとする零一を見上げた。
零一の言葉を待つ。
「いい返事だよ、瀬沙」
いつもの不快感は不思議となかった。
* * *
零一は僕を中央の地下室に招きいれた。
初めて入るこの空間。
確かに…、個人の研究室とは比べ物のならないくらい空気が重い。ついたての裏にあるのは巨大なホストコンピュータだろうか。不気味な機械音が鳴り止まない。
部屋を二分に仕切っているかのように置かれた書庫。鍵がつけられ厳重に保管されているようだ。その奥にも部屋は続いているみたいだけど、その書庫のせいで奥まで見えない。
ここは本当に僕のような人間が入る場所じゃないんだな、と痛感した。
いたずらに僕をからかう零一や、やさしく僕を諭す蒼流の本当の顔。
僕は部屋に入ると、後を追ったかのように御影が入ってきた。
御影は零一の言葉に従い静かにテーブルに着く。
御影は零一の隣へ、僕は零一の向かいへと腰をおろした。
僕たちがいつも顔を合わせる食卓と一緒。
でも、今日の席順はいつものそれとは全く異なるもののように感じた。
全てを知る者と、知らされる者。
零一や御影と対峙して座るのも今日が最後。
僕はこの時間を経て、零一の隣へ座ることを受け入れようとしている。
それは僕にとっていったいどれだけの重荷になるのか。検討も付かない。
御影が腰を下ろすのを待って零一が重い口を開いた。
「さて」
零一が今何を思っているのかは分からない。
ためらいも、恐怖も、絶望も感じられない。そう、何も感じられない。
零一、いったい何がそこまで零一を苦しめる?
零一のさびしい顔、もう見たくない…。
「…瀬沙に家族はあるか?」
零一は顔の前で手を組み、その隙間から僕を見た。
家族?
「家族なんていないよ」
僕はあまりにも不自然な質問に笑ってしまった。
「僕たちは零一の置手紙だけで孤児院に捨てられたんだよ。両親の顔なんて知らないし、僕たちがお母さんと呼んだのは孤児院の先生だ」
零一は表情ひとつ変えずにこう言った。
「その手紙を残してた男が父だとは思わなかった?」
えっ…。
僕はゴクっと唾をのむ。そして眉をひそめた。
「私の言っている意味がわからないか?」
零一はなおも表情硬くそう繰り返した。
「零一が僕たちのお父さん?んんっ…と」
僕は口をへの字にして首をかしげた。
御影は何も言わず冷静に僕を見ている。見ているというよりは観察している。
零一の言っていることの意味がよく分からない。分からないというよりは、これ以上思考が先に進まない、という感触。それはまるで一+一が二になる原因を探しているよう。
「瀬沙、もういいよ。」
零一はやはり表情変えることなく、僕の終わらない記憶探索をやめさせた。
「じゃあこれから私たちの話をしよう」
「うん…」
僕は静かにうなずいた。
怖くはなかった。川が海へ向かって流れるがごとく僕はその流れに身を任せる。そしてそれはとても居心地のいいものにも感じられた。
僕たちはもう、自分たちの力だけで進むのに疲れ果ててしまった。この広大な海の中をあてもなく彷徨い続け、僕たちはようやくこの島にたどり着いた。一寸先も見通せないような黒い島。でも僕たちはここに必死にしがみつく。だってここは僕たちの探していた場所だから。万人が恐れる悪魔の地だとしても、僕たちは絶対にここから離れない。手を引かれるままに、このまままっすぐ暗闇の中へ進みたい。もう、これで終わりにしたい。何もかも…。
ね、唖透そうでしょ。
* * *
零一は静かに話しを始めた。
「私にも母がいた。名を浅海と言った。母は陽気で笑顔の絶えないにぎやかな人だったように記憶している。母は大学で遺伝子工学の教授をしていた。遺伝子組み換え技術の進歩や現状を大学生に教えていたんだ。
ただ、母が真に没頭していたのは教育などではなく、自らの研究だった。今の私たちが保管している資料はすべて母が残したものだ。私たちは母の研究を今に引き継いでいるに過ぎない。週に何日か大学で教え、それ以外の時間は全て自宅の研究室で過ごした。母の研究は彼女が学生のときから始まっていたようだが、私たちは当然大学に出勤する母の姿しか見たことがない。
私には五つ上の姉がいた。名を御影といった。母にそっくりでまるで生き写しのよう。でも表情は鈍くあまり笑わない子だった。
私たちは都内私立の中学を出て、そのまま進学校へ進んだが、高校生の頃になるとあまり学業に興味を持たなくなり、母の研究に興味を持ち始めた。いつか母の片腕になれれば、と子供ながらに思っていた。
姉はあまり物事に興味を持たなかったが、大学にもろくに行かず母の研究の手伝いばかりしていた。その姿を見て私も育っているから、自然と姉を追い、母の背中を追うようになったのだろう。姉は物静かで頭のいい女性だったから、私よりも母の目指すものを見据えて冷静に先を読んでいたように思う。
母はもともとゲノムの読解をしていた。ゲノムとは全ての生命体にある遺伝子情報のことだ。豚のゲノムはブタゲノム、稲のゲノムはイネゲノム、そして人のゲノムをヒトゲノムという。詳しい内容はここでは省略する。そのゲノムの読解はコンピュータの発達により、当初の予定を大幅に超えたスピードで進んだ。母は次第に解読から離れ、クローン技術の神秘に取り付かれたようだった。
一九九五年に母はマウスのクローンを作ることに成功していた。一九九六年にイギリスで初めて羊のクローンのドリーが誕生したのがニュースになったのを知っているかい?あの発表がされる一年前のことだ。当時母は大学院生だった。
その翌年彼女は自分の胎内に人体クローンの試験を注入した。
これがどういうことか分かるか?クローンを作る方法は二つある。ひとつは正常に受精した受精卵の初期、すなわち胚に作業を施すもの。もうひとつは成体の体細胞と卵子を結ばせ、そしてその卵子を成人女性の子宮に戻すというやり方。そのうち母は後者の成体の体細胞を使う方法をとった。
人体クローンとは言わば、時間差を持って意図的に作られた一卵性双子のようなものだ。
もちろん人体クローンの作成は世界的に前面禁止されている。対外に漏れれば国際政治犯さ。
そうして彼女は二五歳にして一児の母となった。母の第一子はクローン人間だ。
その五年後、今度は性染色体に手を加え、母自身の細胞から男子のクローンを出産した。彼は零一と名づけられた。そう、この私だ。
姉は大学卒業後も、母の研究を手伝っていた。手伝うというよりは既にチームとして母の片腕となっていた。
私が二十歳の冬、姉が二十五の時だ。
母から自分たちが生まれた経緯を聞かされた。
私たち二人は、母のクローン試験体だと。
私は部屋に篭りその事実を拒否し続けた。
自殺も何度も試みた。
死んでしまえばどんなに楽か。
最初はそれしか考えられなかった。
来る日も来る日も、自分が消えてなくなる方法ばかりを探した。でもそれだけでは足りない。自分が生きた証になるもの全てを、ここから消し去らなくてはならなかった。
思い通りに動く指、決して覗かれない私の思考、刺せば痛みを伴って吹き出る鮮血。
いままで何とも思わなかったのに、急に人間としての自分が気味の悪い存在に思えてくる。
自分はヒトか。例え生物学的にヒトであっても、それはヒトという動物に過ぎない。
目を閉じると、幼い自分が震え上がって泣いている。その一方で泣き叫ぶ少年を好奇の目で捉え、決して離そうとはしない男が見える。その男こそ零一と言う名の私。
結局、クローンという生き物に一番執着したのは私自身だった。
人はなぜこの世に誕生する?
誰が何の目的で生産する?
私はどうして作られた?
死への興味はとたんに無くなった。
私の向かう先が、自己の消滅からクローン人間への興味へと変わったんだ。
研究対象として生かしたほうが良い、と思うにいたった経緯は分からない。ただ、自分の中にはふつふつと湧き上がる怒りのような感情が強くあった。
諦めと潔さを導き出そうとすれば、結果として「怒り」を生む。
しばらくして姉が私の元へやってきた。
姉は、自身の出生とその生態を知った後も平然と母の隣で研究を続けていた。
私にはその心情が理解できなかった。
そのとき、姉に感情と思考はないのだと強く感じた。
だから私の怒りは行き場をなくし、形にならない寂しさとなった。
怒りを沈め、憎悪に燃える魂をてっとりばやく静めるのは「寂しさ」だ。
姉は私に、自分たちがいくつかの失敗を負っていることを告げた。自分の問題点については着手できているが、零一の件に関しては未処理だから、と静かに言った。
私に欠陥?
私が失敗作?
私の心はますます深く沈んでいった。
自分は人の手で作られた動物。そしてそれは自分が未完成であり、かつ不完全だとはっきり告げられた瞬間だった。
せめて頭で理解しようとするが、それすらも出来ない自分。
姉のような失敗を抱えてさえいれば、私はここまで苦しまずに済んだだろう。そう思うこともよくあった。
しかし母に対しての怒りはまったくなかった。
母は私のずっと先を行く、偉大な研究家だ。母のしたことを過ちとは思わなかった。むしろ自らの危険を顧みず、これだけ勇敢に人体実験を試みたということは、私にとっても刺激であったし誇らしいことと思っていた。
その後私は大学に復学した。
そのとき私はもうとひりでは無かった。
自身の中に生まれたもう一つの人格。蒼流。
苦悩する毎日から抜け出したい欲求が生み出したものかもしれないが、発生の経緯はとくに興味はない。邪魔でもないし、問題もない。ただ、そのときの私にとってはとても大切に存在であったように記憶している。
寂しさの行き着く先は「罪」だ。
私の心は、寂しさと怒り、そして罪の意識の中をループするばかりだった。
それでも私は十分に救われた。自分を理由付けることが出来たからだ。
蒼流は私と違い楽天家で、打算的で合理主義だ。
底なし沼の苦悩から私を引きずり出したのは、「蒼流」と名づけた私のもう一つの人格だ。
そのとき既に母も姉も、家族も無かった。
母はお母さんではなくなり、姉は姉で無くなった。
その道の権威で第一人者の博士、御影という名の仲間、そして零一。
私は自身のゲノムと向かい合いながら日々を送った。
出口の無い闇に飲まれていたのが信じられないくらい、私の頭の中はさっぱりとしていた。何も考えることはなかった。考えたくなかったのかもしれないし、考えられなかったのかもしれない。
まもなくして御影の老いが止まった。三十歳を越えたあたりから、それ以上肉体の衰えが進まなかった。そして私がその年を追い越そうか、というときだ。私の成長も止まったかのように見えた。そう感じたのではなく、事実私の老いも止まっていた。かつて母と呼んでいた浅海博士だけが時間の恩寵を受け、死に向かっていた。老いる姿はとても惨めで醜いものであったけれど、とてもうらやましく感じた。
博士は自分の衰えを覚悟したとき、いままで蓄えてきた全てのデータを私たちに与えた。
それから現在にいたるまで、住処を代え、生き方を誤魔化し、世界に同化するように歩んできた。
母と呼んだ女性は七十歳で亡くなった。私はこの世に生を受けてからちょうど四十年が経っていた。ただ、私にとって時間の経過と肉体の衰えは比例せず、二十代のような青年の姿を保ったままだった。
博士が死んで三年後のことだ。今から二十年ほど前になるだろうか。
蒼流が「新たなクローンを作る」と言い出した。私は激しく反対した。これ以上の人体クローンは必要ないと考えたからだ。
しかし私たちは学者だ。先に進み、まだ見ぬものに手を伸ばし続けねばならない。完璧なクローンを作る、という蒼流の試みは研究者として当たり前の行動だった。
しかし、蒼流が新たなクローンを作りたいと持ちかけた真の理由は、また別のところにあった。
私たちは世界が持つ時の流れから逸している。それゆえ、家族も持てず、死から生じる人のぬくもりや慈悲を知らない。愛することや愛されることを嬉々として実感しない。
その点で蒼流は極端に絶望していた。
蒼流は寂しかった。だから自分の息子となるようなクローンを強く所望した。
私はそれが許せなかった。
己の寂しさを紛らわす為に、自分のような呪われた存在を生み出すのか。
蒼流が感じる幸せが如何ほどかは分からないが、生まれてきた子たちがどれほどの運命を背負っているか。考えただけでもゾッとした。
しかし私には蒼流を止めることが出来なかった。
蒼流の主張する未知なる科学への探求は、私の最大の興味でもある。
だから私は、新たな人体クローンを作ること「黙認」という形で許した。その研究に主力的に関わることはしない、というのが蒼流との交換条件だった。生まれてきた子供の存在も認めず、許すことはないと釘をさした上で、御影の身体を使うことに同意した。
当の御影はやはり意思表示をすることなく、黙って承諾した。
私は心配でならなかった。
御影の身体も、生まれてくるクローンも。
人間に劣ることも優れることもなく、まったく違和感のないヒトが出来上がればそれで問題ないということではない。
人体クローンは国際的に禁止されている。
それから蒼流は御影と共同で人体クローンの作成に取り掛かった。私はほとんどノータッチだから、どんな風に準備が進んだのかは分からない。ただ、蒼流は、「母の細胞を使った男子」と「〈零一〉の細胞を使った男子」、二体の作成をしているようで、御影の胎内には二卵性双子のような状態で戻されていた。
母の成体細胞を使うことに対してはあまり違和感が無かったが、私の生体細胞を使っての人体クローン作成にはどうしても恐怖心を拭い去れなかった。
ただ、私はもうかつてのような底なしの闇に沈むことは無かった。
私の心が強くなったのか、それとも複雑に入り組んだ人間の心を私が失ったのか。
そしてその一年後、御影は男の子を二人生んだ。
母の体細胞を元にした子を「瀬沙」、私の体細胞から作られた子を「唖透」と名づけた。
私たちはこれ以上日本に留まるわけにはいかなかった。年を取らずに同一の場所に住み続けることは出来ない。私たちは以前からイタリアへの移住を考えてした。
私たちは子供を日本の孤児院へ預け、十七歳になったときにイタリアへ戻すよう手紙を残し日本を出た。
イタリアの外れにちょうど良い物件を見つけ、職を探し、東京にあった膨大な書類も移動させた。日本ですんでいた家は研究の匂いを完璧に消し、売り払った。
それから十七年が経った。
二人が帰ってきたのだとすぐに分かった。でも私は彼らの存在を許したわけではない。
蒼流の作ったクローンのうち、一体は死んでいた。その事実が私たちに与えた衝撃は計り知れない。
帰ってきたものへの調査が始まった。
死んでいたのは私のクローンだ。肉体が衰えない自分は、死に対する憧れを持っていた。でも唖透の死を間近で見たとき、好奇心よりも死に対する恐怖の方が強まった。
私もいつか突発的に死ぬのではないか。
新たに生まれた恐怖は、帰ってきた者への憎しみに混ぜて和らげた。
残された瀬沙は、必死に自分の存在意義を探しているようだった。来る日も来る日も私の側を離れず、私の姿を見つけては駆け寄った。
瀬沙は自身のルーツを追って私を付け回ったが、その行為が自分の終わりを早めるだけのものとは思っていなかったようだ。自分の欲しがっている未来が「絶望」という世界であるとは夢にも思っていなかっただろう。
瀬沙の姿はいつかの自分自身と重なって見えるようになった。
彼を見ていると、何も知らなかったころの自分を思い出す。
彼らに抱いていた憎しみの感情は大きな「哀れみ」に変わり、そしていつしか小さな「優しさ」に変化した。
瀬沙はここへ来てだいぶ成長したようだ。だから皆で判断して全てを打ちうける準備を進めた。
そして今夜、生きて帰ってきた瀬沙は私たちと同じ世界へやってくる。
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