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ふいうち

作者: 昏也

習作。遠吠ポルカ様(http://2st.jp/323222/5/ziman.html)よりお題をお借りしました。

 この三年間、ずっと彼のことを見ていた。

 目を眇めながら眼鏡のチタンフレームをくっと押し上げる中指。にやっと笑ったときに少しだけ見える八重歯。硬質で耳によく引っかかるテナー。シャツの袖をきっちりと折り上げる指先。チョークを持つ、長くて筋張った手。


 1年の一学期、数学の授業にやってきた彼の姿を見て、まずその外見にときめいた。小学校の初恋の頃から、気になるのは決まって知的なタイプだった。彼は私の好みのど真ん中で、しかも大人の落ち着きもあって、一気に目が追うようになった。

決定的だったのは、それから間もない頃、放課後の渡り廊下で中庭のテニスコートに立つ彼を見たときだった。テニス部の顧問だとは知っていたけれど、実際にテニスコートに立つ彼を見たのはそれが初めてだった。それまでの彼の印象は、授業中のクレバーで物静かなもので、そこが魅力的だと思っていた。けれど。私は彼の一面しか見ていなかったのだ。

それはふいうちだった。渡り廊下のガラス越しに見つめる先で、コートに立つ彼が夕暮れの中伸びやかに跳ね上がって力強くサーブを決めたとき、私の中の彼の印象は一変した。思い通りの場所にボールを打ち込む冷静さと、しなやかな野生動物のような思い切りのいい躍動感が同居する姿に、私の中の何かが弾けた。ボールがコートに跳ねる音と共にそれはあっという間に私の全身を染め上げ、動悸を起こし、私はその場に立っているのがやっとだった。あの瞬間、完全に、私は恋に落ちた。


もともと、数学とは折り合いは悪くなかった。中学の頃はむしろ友だちに教えることもある程度には得意な方だった。けれど、理科も英語もそんなもので。

高校に入って、彼に恋をして、私の中の数学は一気にその比重を大きくした。課題が出れば一番に取り組むし、授業で質問したいことが少しでもあれば休み時間に聞きに行った。お陰で数学の成績は常に良く、彼に顔を覚えてもらうまでそう時間はかからなかった。昼休み、職員室に行くと教室よりも少し砕けた表情をしてくれるのが楽しみだった。彼の机はいつもきっちりと整頓され、マグにはコーヒーが常に入っていた。そんな所からも彼の性格や好みが垣間見える気がして、他の子たちは彼のこんなところまで見ていないだろうと、小さな優越感さえ持っていた。1年の最後の期末試験で学年で唯一満点が取れたとき、「他のやつには内緒な」と食堂の自動販売機でバナナオレを奢ってもらった。そのいたずらそうな表情にまた、心臓がはねた。それから自動販売機ではバナナオレばかり買うようになった。



この気持ちを彼に伝えるつもりはなかった。彼のきっちりとした性格は知っていたから、教師と生徒の関係の中で気持ちを伝えられても困るだろうと思って。友だちとの恋バナの中でも、聞かれるたびにはぐらかしていた。この気持ちは、秘めたままにするのだと決めていたから。

けれど、3年のバレンタインだけは。これが最後の機会だからと自分に言い訳して、チョコレートを一箱買った。大学受験の真っ只中だったけれど、塾の帰りにデパートに行き、人混みにもまれながら吟味に吟味を重ね、一箱買ったのだ。彼のイメージに似た、ダークブラウンの箱にシルバーのリボンがかかったチョコレートを。

そうして、メッセージカードに宛名だけ書き、放課後にそっと下駄箱に入れた。同じような箱がすでに3つほど入っていたから、紛れるようにそっと。


バレンタインに勇気を出したことを勲章にして、気持ちに区切りをつけて卒業しようと思っていた、のに。

聞いてしまった。前期日程での合格を報告し、一言お礼を伝えたいと思って行った先の職員室、その扉をノックする直前に。ふいうちで。

「準備進んでますか? 結婚式」

「いやあ、僕は受験対応があってなかなか...。彼女の方に任せっきりで」

担任の女性教師と、間違うはずもない彼の声が。結婚式。彼の...?

「大学の同級生でしたっけ?」

「そうなんですよ。もう10年も付き合って。やっとです」

そういって職員室の窓ガラス越しに見える彼の笑った顔は、私がこれまで見たどれよりも柔らかく、幸せそうで、これが現実なのだと痛いほど思い知らされた。そんな顔は見たことがない。想像したことすらなかった。そこには彼の素顔が覗いていて、私がこれまで見ていた彼の姿が職場用に作られていたものだと思い知らされた。私は今まで、彼の表層しか見ていなかった。他の子たちよりも彼のことをよく知っていると思っていた。彼にもよく目をかけてもらっていると思っていた。けれど、そんな顔は一度も見たことがなかった。結局、私は表層しか見せてもらえなかったのだ。

知らなければ、綺麗な思い出で終われたのに。私の恋心が、ちっぽけで浅いものだと知らずにすんだのに。胸が、抉れるように痛かった。





卒業式の日。前日のショックを引きずり現実感のないまま卒業証書をもらった。卒業アルバムを持って友だちやお世話になった先生方の間を周りメッセージを書いてもらい。だいぶ時間も過ぎて校内の人気が少なくなってきた頃、職員室に彼を訪ねた。他の先生方は教室や卒業生の見送りに玄関に出ており、ちょうど職員室には彼だけが残っていた。遠い喧騒の中、未だに現実感のないまま、私は彼に卒業アルバムを差し出した。

彼が受け取ってペンを走らせるのを見る間、この筋張った綺麗な手を見るのもこれが最後か、とぼんやりと考えていたから。


「そういえば、これ」

彼が机からゴソゴソと小さな箱を取り出し、パタンと閉じた卒業アルバムの上に置いたことに反応が遅れた。

「...え?」

「チョコ、くれただろう。そのお返し」

箱の上部、透明なセロファンから小さなクッキーが詰め合わされているのが見えた。

「なんで、分かったんですか...?」

我ながら間抜けな声が出た。

「お前のノート、何百回見たと思ってるんだよ。文字見ればわかるよ」

そういって、照れくさそうに笑う顔も初めて見る顔で。私だけに向けられた素顔の彼の表情に、私の三年間の恋心と、小さな勇気が報われた気がした。



「先生、三年間、ありがとうございました。それと、ご結婚おめでとうございます」

声が震えないように、腹筋に力を入れて。

「それから、ずっと好きでした」

感謝の気持ちを込めて、ふいうちで唇にキスをした。私に、この気持ちを教えてくれてありがとうございました。私の気持ちのカケラを、拾ってくれてありがとうございました。


初めて触れた彼の唇は、少しカサついて温かかった。

驚いて固まっている彼にそのまま勢い良く頭を下げると、私は職員室を飛び出した。階段を駆け下り、もうほとんど人のいない校内を駆け抜ける。自転車に乗っていつもの下校ルートをこれが最後と思いながら勢い良くペダルを踏む。

なんだかわけの分からない高揚感と達成感でいっぱいだった。

私も大学で、彼と彼の結婚する人と同じような恋ができるかは分からない。けれど。前を向いて進めそうな予感がする。

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― 新着の感想 ―
[一言] とてもおもしろかったです。読んでいてとても切ない。こんな青春おくってみたかったという気持ちになります。惹き込まれました。
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