間章Ⅱ<亡霊>
とうに日付も変わったであろう、夜更け。
人の気配がめっきり減った館内を、早足で歩く人影があった。
磨き抜かれ、光沢を宿しているほどに手入れされている革靴を履いているにも関わらず、足音一つ聞こえないというのは、豪奢な絨毯が室内のみならず廊下にまでも敷き詰められているせいか。分厚く降り積もった雪床のように、絨毯は微細な音などは全て吸収してしまっていた。
夜闇にしんしんと舞い降りる、深紅の綿雪のように。
金髪碧眼の見目麗しい軍服姿の少年は、やや大股で廊下を進んでいた。その歩調は散歩をしているほどには緩やかではないものの、しかし誰かに命じられて急を要しているというようでもなかった。
年端のいかぬ、まだ幼さを随所に残している風貌であれど、少年は下士官の小間遣いのため、深夜に至るまで仕事を続けているのでもなかった。足を踏み出すたびに、綿毛のような前髪は揺れ動き、まるで美神の愛でる彫像のような整った面立ちを彩っている。金糸のような髪が波打つたびに、空中に煌く微粒子が散らばるのではないかと思われるほどに、完璧なまでのノルディック・アーリアン。
やがて少年は、一際豪奢な扉の前で足を止めた。
使いこまれた木製のドアは、これまでにも百年以上もの間、職人の手によって磨き抜かれてきた木材だけが持つ重厚な艶を持っていた。
ドアノブにあたる部分には、真鍮製の取っ手がつけられていた。手足のない龍が大きく口を開き、その牙の間から水流が迸っている情景をデザインした取っ手に手を伸ばしかけた少年は、やや思いとどまると手を離し、それから控え目な音で二度、ノックをした。
少しして、中からうめき声のような、男の低い声が聞こえてくる。
「失礼します」
少年は凛とした声と共に、ドアをそっと開けた。
部屋の中の空気には、特有の香りが含まれていた。白檀の香りだ、と少年は感じ取った。
深紅の絨毯の彼方、窓辺に背を向けて立つ一人の男がいた。
「総帥閣下、お呼びですか」
「Z」
少年の名を呼び、それまで黙考していたヒトラーは向き直った。
だがその顔には重圧がのしかかり、眉間には深い皺が刻まれていた。
対独英仏参戦。
その事実は、ヒトラーの計画を打ち砕くのに充分すぎる一撃であった。
独ソ不可侵条約締結により、ポーランドを電撃作戦で葬り去ったドイツを待っていたのは、欧州諸国の静かなる牙であった。ソ連との間の条約により、その関係は中立を保っているものの、その反面西側諸国に対する処置が完璧に後手に回っていたのであった。
それを嘲笑うかのように、イギリスとフランスがドイツへの参戦を決定。
それはポーランド進軍の二日後という即断によって成された窮地であった。
「私は……」
「ご心配には及びません、総統閣下」
Zは両手を後ろで組んだまま、スキップするかのように軽やかな足取りでヒトラーの傍らまで近づいていった。
「いいニュースを持って参りました」
ポケットから四つ折りになった紙片を取り出すと、まるで級友と交わす秘密の手紙のようにこっそりと、Zはヒトラーに手渡した。
部屋の中には二人しかいない。それを考えれば、Zの所作はまるで子どもじみたものだったのだが、そんなことを指摘する余裕はヒトラーにはなかった。
折り畳まれた書類を広げ、タイプライターで作成された一枚の報告書に目を通していたヒトラーの眼差しは、やがて驚きに大きく見開かれた。
吉報であることには間違いない。しかし、それはあまりにも、彼の予想を超えた情報だった。
「これは……」
「よかったですね、総統閣下」
揺れ動くヒトラーの眼差しは、しかし次第にとある光を帯び始めていた。
そこには、先刻までのような、狼狽の極みにある人間の瞳は既になかった。夜の闇に浸るベルリンの町並みを見下ろすヒトラーの傍らで、Zは新しい玩具をねだる子どものような声色で、言葉を続ける。
「ところで、総統閣下……<Gespenst>の方は……如何ですか?」