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新編 庚寅事変 Episode9  作者: 不死鳥ふっちょ
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第二章第一節<複雑怪奇>

 詰問された面長の男の視線は、眼鏡越しに虚空を見つめていた。

 男は表情といったものが消え去った能面のような顔で、ただじっと身動ぎもせずに、斜め上を見やっている。

 視線の先には、当然何もない。もし見えるものがあるとすれば、それは歴代の首相の地位に就いた者たちの肖像画であろうか。

 このような事態に陥ったときにはどうすればいいのか。神頼みに縋る者のように力なく伸ばされたその指先を支える助けは、しかし当然のことながらもたらされることはない。


 昭倭十四年八月二十八日。

 その日、首相官邸に召喚を受けたのは錚々たる者たちであった。

 内閣書記官長、太田耕造。

 外務大臣、有田八郎。

 内務大臣、木戸幸一。

 大蔵大臣、石渡莊太郎。

 陸軍大臣、板垣征四郎。

 海軍大臣、米内光政。

 司法大臣、塩野季彦。

 文部大臣、荒木貞夫。

 農林大臣、櫻内幸雄。

 商工大臣、八田嘉明。

 逓信大臣、田邊治通。

 鉄道大臣、前田米藏。

 拓務大臣、小磯國昭。

 厚生大臣、廣瀬久忠。

 法制局長官、黑崎定三。


 これだけの者たちが集められたのは、それなりの理由があった。

 天津での親日派海関監督暗殺から発展した、天津租界封鎖事件。

 それによって引き起こされた国際問題を有田・クレーギー会議で何とか解決の糸口を見出すも、英米の繋がりから日本の動向を快く思っていなかったアメリカの不信を買うことになったのだ。

 混乱は外交問題だけではなかった。閣内にも存在していた、英米派と独派の対立はこれにより溝を深めることにもなり、日本の政界は混迷の一途を辿ることになったのであった。


 しかし、問題はこれだけでは終わらなかった。

 ノモンハン事件という国境紛争が、大陸では同時に勃発していた。清国の滅亡とモンゴル国の独立により、境界線の所在が不明確な状況が生まれてしまったのであった。

 これについても、平沼首相に不利な情勢が揃ってしまっていた。暫定国境として定められた地域には砂漠と草原が広がり、厳密な国境管理が不可能な地形をしていたせいであった。

 さらには、国境紛争が勃発したときの具体的な方策が定まっておらず、中央部から衝突があった時点まで何の通告もなかった。

 それにより、ついに五月十二日、第二十三師団の独断により、武力衝突が発生。世に言う第一次ノモンハン事件はこうして起きたのであった。

 五月内に一度沈静化した紛争は、しかし八月に再燃することとなる。第二次ノモンハン事件である。

 こうして度重なる戦闘の挙句、日本軍はソ連軍に対し、自らの損害を上回るだけの被害を与えたにもかかわらず、戦略目的を達成することはできなかった。

 日本軍死者約一万七千人、ソ連軍死者約二万六千人。これだけの損害を出しておきながら、目だった戦果を上げられなかった責務は、当然のことながら首相に問われることとなったのだ。 


 何処からか吹き込んできた風が、頭上に垂らされていた長布を揺らす。

 白い長布は紙垂の形に裁断され、遥か頭上の薄闇の中で渦を巻く注連縄から無数に揺れている。見回せば、部屋の四方には白い衣冠に身を包んだ術師がそれぞれ、黙したまま屹立している。

 会議場を霊的監視されるのを防ぐための、それは神祇調の結界行法であった。

 まるで人形のように立ち竦む四人を一瞥し、首相は長く重々しい溜息をついた。

 これより五日前、首相の決断を惑わせる一つの歴史的事実が世界を揺るがしたのだ。

 独ソ不可侵条約の締結。第二次ノモンハン事件の最中に起きたその事件は、日本の政界を大きく震撼させた。

 何故なら、これより前に遡ること三年前、昭倭十一年に日本はドイツと日独防共協定を結んでいたのだ。共産主義国家ソ連を仮想敵国として調印したそれにより、日本はドイツを友好国であると認識し続けていたのであった。

 しかし、今まさに紛争を続けているソ連とドイツが不可侵条約を締結した。

 その事実から導かれるものを、日本は見出すことはできなかった。

「如何なされますか」

 これまで、幾度となく投げかけられた問い。

 その意味するところは既にわかっている。わかっているからこそ、繰り替えされる質問に対して、首相は答えることができないのだ。

 その答えが、日本という国の将来を決定することになるなら、尚更である。

 戦乱の火種はそこらじゅうに転がっているのだ。誤った選択が引き金となり、日本がさらに大きな戦争に飲み込まれる可能性は充分にある。

 そうした責務の重大さに耐え得る精神力こそが、首相に求められるものなのだということを、今改めて知ることとなったのだ。

 ぶるぶると震える指先を隠すかのように、首相は卓上でしっかりと両手を組む。幾対もの眼差しの悉くが、自分に向けられていることは顔を上げなくても分かっている。まるで陸に打ち上げられた魚のように、口を何度も開閉するも、声帯は麻痺したように声を発することができない。

 額に浮く脂汗をしきりに拭っていた首相は、やがて意を決したように立ち上がった。


 誰もが皆、その反応に驚きを隠せなかった。

 追い詰められた小動物のように小さくなっていた首相が、やおら立ち上がり、そして動揺と不安に押し潰されそうな顔を挙げ、虚空を見上げているのだ。

 呆けているのではあるまい。その証拠に、首相の瞳には狂気の気配はない。

「……誠に……」

 唇を割って漏れてきたのは、破滅的に低く鈍い、ともすれば聞き取ることすら難しいほど、弱々しい声。


「誠に、欧州の天地は……複雑怪奇なり……」


 その言葉は、彼が首相という地位が求める供物の前に、屈してしまったことをも、意味していた。

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