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新編 庚寅事変 Episode9  作者: 不死鳥ふっちょ
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間章Ⅰ<忌みし碑銘>

 それは、淡い光を受けて妖しく煌いていた。


 紫の台座の上に鎮座しているのは、大粒の宝石。深い暗赤色をしたその宝石は、見る角度によっては鮮烈な紫にも、鈍く脈打つ蒼にも見える。恐らく腕利きの職人の手によるものなのだろう、宝石には微細な、それでいて正確な平面が無数に刻み込まれていた。気が遠くなるくらいの細工は、しかしそれが施されたことによって、この宝石に至高の輝きを宿らせることに成功していた。

 並の職人では、この細工をするよりも前に、この宝石に鑿を振るうことさえも躊躇うであろう。繊細な、そして無比の美しさと魅力を持つこの宝石を前にして、自分の至らぬ腕がこの美を失わせてしまうだろうと躊躇するのは、誰しも同じ。

 それでもなお、逡巡に打ち勝つだけの精神力を持つ者は少ない。

 否、それは最早強靭なる精神力ではなく、自惚れと称すべきものかもしれぬ。それほどに蟲惑的な吸引力を持つその石は、透明な硝子ケースの中に収められていた。


 それを覗き込む視線があった。

 美しい黄金色の頭髪と、深海を魔法で閉じ込めたかのような完璧な青い瞳。

 年はまだ若く、青年というよりも少年といったほうが相応しいか。あどけなさすら残る相貌が宿しているのは、、しかし年頃に相応な微笑みではなかった。暗い部屋の中、少年はSchutz(シュッツ)staffelシュタッフェルと呼ばれるナチス親衛隊の軍服に、上級大将を示す勲章を提げていた。

 紅の石を見つめる青い瞳。

「アリシア・ミラーカ……お前は愚かだが、実に面白い女だったね……」

 年に似合わぬ口調で呟きを漏らす少年。


 だがその声は、彼の背後にいる者たちまで届くことはなかった。


「そろそろいいだろう、こちらへ来て……挨拶をしたまえ」

 少年に後ろから声を掛けた男がいた。小柄な男は、鼻の下にだけ髭を生やし、左腕に鉤十字の腕章を付け、頭髪はきっちりと香油で撫で付けていた。

 彼の名は、アドルフ・ヒトラー。彼に呼ばれ、少年は振り返った。

 男の指差すその先には、二人の軍人が立っていた。

 一人の名はヘルマン・ゲーリング。少年に鋭い視線を注いでおり、一時たりとも表情を崩さぬ、透徹した意志を見せ付けるような男であった。

 もう一人の名はルドルフ・ヘス。ヘルマンとは対照的なこの男は、少年に対しても怯えたような、崇敬の眼差しを向けつつ所在なさげにしていた。

 手を組んだり、汗を拭ったり、立ち位置を変えたりと落ち着きのないルドルフに苦笑した髭の男は、少年の背を優しく押した。


「僕のことは、ツェットとでも呼んでくださいね……よろしく」


 まさか眼前の少年からそのような言葉が放たれるとは思っていなかったヘルマンは、眉だけを神経質そうに動かす。

「どんな人脈があるのかは知らんが……あまりいい気にならんことだな」

「おや、僕のことを気に入らないんですか?」

 口調こそ穏やかだが、少年は明らかに自分を見下している。総統閣下より、第一後継者として任ぜられたばかりのヘルマンは、そんな少年の態度を見過ごせるほど寛容ではなかった。

「貴様、いい加減に……」

「ヘルマン」

 ヒトラーの一喝は、興奮して頭に血の上ったヘルマンを制するには充分だった。

「ではZ……君の力を見せて上げなさい」

「わかりました、総統閣下」

 にっこりと微笑んだ少年は、先ほどまで覗き込んでいた宝石の収められていたケースに向き直った。

 その姿に、ヘルマンはふんと鼻を鳴らす。何をするつもりかは知らんが、あの宝石に触れる者などいやしない。あれがどんな経路で運ばれてきたのかは知らんが、ナチスの魔術騎士たちが数人がかりで挑んだ代物だ。

 それでも、かろうじて彼等の霊力をもってしても宝石の纏う結界を幾許か緩める程度のことしかできなかったのだ。

 見守る視線の先で、少年はすいと右手を伸ばす。あまりに自然なその動作は、見るものに宝石との間に硝子ケースがあることさえも失念させるほどであった。

 何の変哲もない、その所作。

 笑顔で振り返った少年の掌には、先刻まで台座の上にあった宝石がしっかりと握られていた。

「……なんだと」

「これはね、ああやって飾っておくものではないんですよ」

 挑みかかるような視線をヘルマンに向け、少年は笑みを浮かべる。次いで隣のルドルフと視線が合うと、臆病そうなその男は予想に違わず、びくりと身を固くする。


 含み笑いをそのままに、少年は指を握り込んだ。

「これの名は、<Verdammt(フェアダムト) Grabin(グラヴィン)schriftenスクリフテン>……極東に散った女性からの手土産、有り難く使わせていただきます」


「それでは」

 重々しい声を放ったのは、その様子を黙って見つめていたヒトラー総統であった。

「ポーランド侵攻は、一週間後とする……それまでゆめゆめ準備を怠ることのないように」

「Heil Hitler!」

 三人の声色が、同じ敬句を斉唱した。

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