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新編 庚寅事変 Episode9  作者: 不死鳥ふっちょ
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第一章第三節<霞太刀>

 聞こえてきたのは、女の声であった。


 禾南は、声のした方へと振り向いた。

 感じられるのは、鋭く鍛え上げられた鋼のような気配。先刻の、上等兵から感じた微弱な気配とは比べものにならぬほどに、強靭なそれ。

 緩慢な拍手の音に続いて、声の主は姿を現した。

 その女性は艶やかな黒髪を結うことなく無造作に流し落としていた。暗がりの中ではあったが、彼女の肌がいささか黒みがかっているように見えた。

 服装は浅梔子あさくちなし色のブラウスに、丈の長い黒いスカートという洋装。一見すれば何の変哲もない女性であったが、禾南は彼女の左手に持っているものを見逃さなかった。

 漆塗りされた、光沢を放つ鞘。僅かに反ったそれは、まさに日本刀ではあったが、それだけなら禾南は一瞥するだけであっただろう

 ―――その日本刀は、妖しい気を放っていた。

 禾南にもし霊能があれば、刀から立ち上る白い煙のような霊気を見ることができただろう。

 黒塗りされた鞘で光っているのは、霞風に乗って舞い遊ぶ蝶の群れ。金箔で捺されたその紋様を宿した刀を掴むその女性は、禾南を見ると頭を下げた。

「申し訳ありません、貴殿を試すようなことをしてしまいましたこと、お詫び申し上げます」

 殊勝な態度にも関わらず、禾南の目が細められた。

 緊張を微塵も緩めることなく、先刻陸軍兵に対峙したときと同じくらいの眼力を女性に叩きつける。

 怒っているわけではなかった。

 禾南もまた、この女性を品定めをしていたのだ。常人ならば怯み、硬直してしまうであろうほどの気を叩きつけ、果たしてこの女性が如何なる反応を示すか。

 視線の先で頭を上げた女性は、しかし気迫に怯むことも無かった。

 年頃の女性らしく微笑むような愛想を振りまく所作こそないものの、女性を包む雰囲気は僅かに緩んでいた。

「私は雁澤(かりさわ)綾女(あやめ)と申します……貴殿は葦原様とお見受け致しますが」

「如何にも」

「ようこそお越しくださいました……(くだん)の封筒はお持ちですね」

 その言葉によって、禾南は理解した。

 綾女というこの女こそが、柳田老からの依頼を取り次ぐ使者なのだと。

 禾南は懐に手を滑り込ませ、そして背広の合わせから茶封筒をちらりと見せる。

 短く頷いた綾女は、先導するように踵を返した。案内役であるにも関わらず、綾女の力量は相当なものだと禾南は読んでいた。彼女の属する団体では、綾女は底辺に当たる位階なのか、それとも腕利きのものを使者とした放ったのか。

 どちらとも取れるその状況で、綾女は動きを止めた。

 背後から追いついてきた禾南はその理由を問おうとして、言葉を切る。

 視線の先に、蠢く影があった。

 皇居の堀に下る坂の終着点に、それはいた。

 ましらのように四肢を張り、ぎらつく瞳を輝かせ、群れを成してこちらを見上げている。言葉を交わしているのだろうか、耳障りな音を響かせながらも牙を剥き、爪で敷石を掻き、威嚇を続けている。

 しかし驚くべきことは、それらが服を着ていることであった。

 今しがた撃ち倒した陸軍兵と同じく、カーキ色の軍服を着ているそれ。人とは思えぬ矮躯を軍服に身を包み、そして相貌は獣のように歪み、四肢はねじくれている。

「……あれは」

 さすがの禾南も驚きを隠せない口調で呟く。

 当然だ。

 軍服を着ていなければまだしも、あれは元は人間であったというのか。

 真夏であるにも関わらず、背筋に寒気を感じつつ、禾南は外套の内側に手を滑り込ませる。

 先刻の攻撃で、Automatique Browning Grande Puissanceの弾倉は空になっている。異形の者たちから視線を離さず、禾南は慣れた手つきで再装填を行う。

「いえ」

 それを攻撃の意志ありと感じ取ったのか、綾女は禾南を言葉で制する。

「それには及びません……奴等は霊力の残滓を食らう下級の魔族」

 攻撃するまでもない、ということか。

 だが、あの群れの数と剣呑な牙や爪を見れば、見過ごしていいものかどうか判断に困る。どうにかして追い払わねば。

 そう考えていたとき、綾女は一歩踏み出した。

 異形を鋭い視線で見据え、そして左手に持った鞘から親指を滑らせ、柄に一番近い刀身だけを覗かせる。

 それを見た異形らは、一斉に綾女に視線を注がせる。

 顔を覗かせた刃は、重く淀んだ空気を引き裂くように鮮烈な殺気を異形らに放っていた。

 敏感にそれを察した異形は、我先にと暗がりの中へと飛び込んでいく。それらは確かに実体を持っていた異形であったにもかかわらず、坂道のあちこちに凝る闇に飛び込んだ瞬間、その躰はまるで溶け崩れるように肉を失い、路面に広がっているだけの影の中へと埋没していった。

 先刻まで、稚児が落した飴に群がる蟻のように蠢いていた異形は、ものの数秒で姿を消していた。

 異形たちが見えなくなったところで、綾女は刀身を鞘に納める。

 それまで溜めていた息を吐き、そして通りは今度こそ無人となった。

 振り返れば、先刻倒した陸軍兵は悉くが消え去っていた。

 まだ命があったのか。

 否、消えたのは彼等の肉体だけだ。残っているのは、銃弾に撃ち抜かれた軍服のみ。その中にあった肉体は、命を断たれたことにより、呪力を失って塵となって四散していった。

 これだけの人間の屍骸があれば、いくら誰でも怪しむだろう。

 それを知っておきながら、あの上等兵は逃げたというのか。先刻の異形といい、上等兵の行動といい、何かが起きていることだけは確かだ。

 それが一体何なのか、それを今の段階で知ることはできない。

 憶測は幻影を生み、肥大していく。まだ情報が揃っていないうちから、あれこれと考えるのは得策ではない。

「では、行きましょうか」

 綾女の声に導かれ、禾南は表通りから細い路地へと、姿を消した。

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