第一章第二節<陸軍霊位>
―――牛込区、神楽坂。
この界隈では随一の繁華街とされてきたこの場所も、この時刻ではひっそりと鎮まり返っていた。
夜半を過ぎてもなお、むっとするほどに立ち込める昼間の熱気と湿気が漂い、じっとしていても額や腕からは汗がじわりと噴き出してくる。しかも、湿気があるせいで汗はいつまでもベタベタと肌を濡らしたままだ。
今夜ばかりは、ささやかな涼をもたらしてくれるはずの虫の音も聞こえない。静寂は夜闇と共に緩やかに、そして重くのしかかってくるようだ。
いくら手を振り回そうとも撥ね退けられないそれにただじっと耐え、安らかな眠りが訪れてくれるのを、夜具の中でただじっと待つだけの、そんな夜。
誰もが辟易する夜の神楽坂を、一人の男が飯田橋へと続く下り坂に添って歩いていた。
驚くべきは、たとえ浴衣を着ていたとしても不快でしかないこの夜に、男は黒い外套を着ているということだ。
外套の下には黒い背広。およそ真夏の帝都を歩くには相応しいとは言えないいでたちの男は、幅広の帽子の鍔に手をやった。
濡れたように月に光っている敷石の向こうに、人の気配がしたのだ。
それがただの通行人であったなら、男とて止まったりはしなかっただろう。
しかし、互いの距離を考えると、気配はあまりにも微かであった。それはすなわち、気配を消すための技術を知る者に他ならぬ。
男の口元に、うっすらと笑みが浮かぶ。
気配を消すつもりならば、もっと完璧にしなければ意味がない。
未熟者か。
男は一端は止めたはずの革靴の爪先を、再び踏み出した。
こつん。
敷石と触れ合う、微かな音が通りに響く。
「……誰だッ」
夜闇の中から誰何の怒号が響き、そして周囲からばたばたと軍靴の音が聞こえてくる。
それまでは静寂が支配していた街角は、にわかに騒々しい音で満たされる。何処に隠れていたのか、それまでは物音一つしなかった男の周囲からは、まるで雲霞の如くに帝国陸軍兵が殺到してくる。
誰もが手に銃剱を携えているのを見た男は、抵抗することなく動きを止める。切っ先を周囲から突きつけられ、逃げ場を失った男は、しかし口元の笑みをそのままにしていた。
「貴様、この時間に出歩くとは何奴か!」
夜の空気の中、上等兵の声はやけに耳障りに響いた。
「……名乗ればいいのか?」
男は溜息をつくように肩を上下させ、そして呆れたような、どこか投げやりな口調で名乗る。
「俺の名は葦原禾南。別に怪しまれるようなことはしちゃいないさ」
自分を囲む兵らを禾南は一瞥する。
誰もが軍帽を目深にかぶっており、その表情までは見ることができない。それでも、この蒸し暑い夏の夜に、物言わず銃剱を突きつけてくる姿は、やはり異様であった。
「……通してくれるな? これでも俺は急いで……」
まともな話し合いが通じる相手ではない。
禾南は意を決し、一歩を踏み出した。
しかし次の瞬間、無言で突きつけられる切っ先が顎に当てられる。刀身のひんやりとした感触を顎に感じ、禾南の顔から笑みが消える。
その反応を怯えと判断したのか、上等兵は先刻にも増すほどの声量を張り上げた。
「待てッ! まだ貴様への尋問は終わってはおらんッ!!」
禾南を中心にして突き出されている切っ先の間から、上等兵はつかつかと歩み寄る。そして、全身黒ずくめの服装を胡散臭げに眺めたあと、やおら胸倉を掴み上げ。
「貴様、懐に何を持っている?」
上等兵よりも頭半分ほどに背の高い禾南は、それには答えず、ただ黙って上等兵の顔を見下ろしているだけだ。
だが、禾南の胸中には疑問が沸き起こっていた。
柳田老から預かっている封筒は別段大きいものではなかった。中身が何なのか知る由もないが、せいぜいが紙数枚程度であろう。つまり、外から見えるわけでもなく、また服が不自然に膨らんでいるわけでもないにも関わらず、この男はどうやって懐にある封筒の存在を見抜いたというのだ。
敢えて付け加えるならば、もし封筒が何かの拍子に見えたのだとしたら、男は間違いなく封筒という言葉を口にするだろう。
この手の人間は、相手を追い詰めることに快楽を見出す類の人間だ。相手を言い逃れ出来ないところにまで追い詰め、そして自分に与えられた力に陶酔しつつ他者を踏み躙る人間だ。
そんな性情であれば、何かを持っている、などという曖昧な言い方はしまい。
黙考を続ける禾南であったが、上等兵は禾南の態度を不遜であると判断。後ろ手に組んだまま、上等兵は包囲の壁を抜け、そして振り返り。
「よかろう、答えぬとあらば妖しきは罰してくれる……者共、撃てぃッ!!」
夜闇を引き裂く銃声と閃光。
だがくぐもった呻きを上げ、仰け反りたたらを踏んだのは、他ならぬ陸軍兵らであった。
中央に包囲していたはずの禾南の姿は、何処にも無かった。
しかしそれは、禾南が妖術を用いたのではなかった。僅かに身を捻り、禾南は上等兵の号令とともに身を沈ませただけであった。
目標を失った銃口から放たれた弾丸は、至近距離で対峙している正面の兵の肉を穿つ。包囲しているからこそ、獲物は何処にも逃げられないという慢心が生んだ愚命であった。この間合いであれば必中であろうと放たれた弾丸は全て、互いに同胞を傷つけあうことにしかならなかった。
ぐらりと傾ぐ兵らの足下で、身を屈めている禾南は異変に気づいた。
誰一人、苦鳴を上げぬのは何故だ。この距離で弾丸を食らえば、恐らくは丸太で殴られたような衝撃が躰を襲うはずなのに。
しかし軍靴は崩れることなく躰を支え、そして態勢を乱すことはあれ、うめき声すら上げず、その場に踏みとどまっていた。
警鐘が胸中で鳴り響く。
ただならぬ気配を感じ、禾南は懐に両手を交差させるようにして忍ばせる。
ぱんぱん、と手を打ち合わせる音が耳に届く。
「見事、全くもって見事」
その声は、今しがた射撃命令を出した上等兵のものであった。
「だが貴様は死ぬ。どう足掻こうが、それは変わらん」
銃剱のうち幾つかが下へと向けられる。
まだ動けるか。
兵らが引き金を引くよりも早く、禾南は懐から両手を抜き放つ。
その手には、それぞれに拳銃が握られていた。
Automatique Browning Grande Puissance、9mm自動装填式ピストル。
禾南はしゃがんだままの姿勢で構え、引き金を引く。咄嗟の判断で、こちらに攻撃を向けた兵士の太腿だけを打ち抜き、怯んだ隙にたわめた膝で敷石を蹴りつける。
常人離れした脚力で跳躍し、黒い外套が舞い上がるその姿は、まさに凶鳥が如く。何の補助もなく、二メートルの垂直跳躍をこなしてみせるとは、やはりこの男は尋常ではない。
禾南は包囲した兵の肩を踏み台にして、さらに高く跳ぶ。
そして跳ぶ瞬間、禾南は見た。
兵らの眼光が、病的に鋭いことを。
霊的能力が全くない禾南であっても、それが異様な光景であることくらいは分かった。銃創を受けてもなお、怯まぬだけの力を込められた兵らは、最早人ではなかろう。
二回目の跳躍で、禾南は躰の天地を反転させる。空中で倒立をするような格好になった禾南は、何の躊躇いもなく引き金を絞る。
左右のマガジンに装填された弾丸数はそれぞれ十三。計二十六発の弾丸は、目標を見失った兵らの頭を次々と撃ち抜いていた。
如何に呪的強化された兵士であっても、脳を撃たれれば無事では済むまい。恐るべき連射でほぼ一瞬のうちに包囲網を殲滅した禾南は、元いた場所へと着地を決める。
銃剱を突きつけていた兵は全員が絶命し、立っていたのは上等兵一人のみ。とうに弾切れをしているにも関わらず、禾南が銃を向けると、上等兵は悲鳴を上げながらよろめきつつも路地裏へと逃げ込んでいく。
「……ふん」
所詮はその程度か。
禾南は拳銃を懐のホルダーに戻すと、ポケットに収めている封筒の所在を確かめ、顔を上げる。
そのときだった。
「貴殿の腕前……失礼とは存じますが、拝見させて頂きました」
聞こえてきたのは、女の声であった。