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新編 庚寅事変 Episode9  作者: 不死鳥ふっちょ
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第一章第一節<翁の手紙>

 既に日はとうに暮れ、日中の暑さも幾分は和らいだように感じられる頃合になっていた。開け放たれた縁側からは、時折頬を撫でるように涼風がゆっくりと書斎へと忍び込んでくる。

 目には見えぬ、その流れを感じ取ったのは、軒先に吊るしてある風鈴であった。青く澄んだ美しい硝子で作られたそれも、光のない夜には涼しげな音色でしか、その存在を感じることはできぬ。

 


 時は昭倭十四年、七月二十八日。

 二日前に米国から言い渡された日米通商航海条約の破棄通告は、日本国民を驚愕させるには充分であった。

 米国のその強硬な態度は、しかし当然の結果でもあった。

 遡ること二年。昭倭十二年七月に北京で起きた、盧溝橋事件。

 これを契機にして、日本軍は中国大陸を凄まじい速度で進軍を続け、北京、上海、南京を占領。さらには日本軍が天津にある英仏租界と日本租界との境界線をバリケードで封鎖するなど、日本軍のやり方に米国は中国権益を脅かされていると感じたのだろう。

 米国からの条約破棄は、こうした日本軍部の行き過ぎた行動に対する忠告であるとも言えた。日米の緊張が次第に硬化していく世情も、しかしこうした日々の生活には無縁のものではなかった。

 空気が変質していくのを、誰もが胸の底では感じていたのだ。それまでの平穏な気配はなりを潜め、昨日までは感じられなかった微細な緊張が、ふとした折に神経に触れるのだ。

 目を閉じていても、耳を塞いでいても感じられるそれ。知らずのうちに肩には力が入り、歯をいつしか固く食いしばっていることに気づいたのは二度や三度ではない。

 遠くない未来に、何か禍事が起きるのではないか。

 人々はそうした不安を押し殺し、一日一日を送っていた。


 そんな夜であった。

 虫の音が心地よく響くその庭から、微かに足音が聞こえてきた。

 下生えの枝を踏み折る僅かな音。

 だがそれに反応したのか、草の葉の陰で楽を奏でていた虫たちは一斉に声を潜めた。

 唐突に訪れた静寂。

 その中で、足音はやけに大きく、そして妖しく聞こえてきた。

 門戸が開いた音などしなかった。では、足音の主は、どうやってこの庭に入ってきたというのだ。


 


 この―――淀橋区にある柳田邸の庭に。


 


「……よう、おいでなすった」

 暗い書斎の方角から、しわがれた翁の声が聞こえてくる。

 影のようにひっそりと立つ長身の男は、まるで夜闇を纏うが如くに、無言のまま立っていた。

「爺の目にはよう見えんでのぅ。名前を呼んだほうがいいじゃろか、それとも……」

 國男の言葉に答えるように、かちりと音がした。その音の意味を理解した國男は、さも愉快そうに笑って見せた。

「おぅおぅ、恐ろしい恐ろしい……この老いぼれを撃つというか」

「……ふん」

 人影が初めて声を発した。

 といっても、それはただ鼻を鳴らしたに過ぎないのだが。

「まあよい」

 ぎしり、と籐椅子が軋む音がした。

「あんたを腕利きと見ての依頼……引き受けてくれるの?」

「用件は」

「ほれ……そこの石塔の中にある」

 人影は、傍らにある石塔のくぼみの中に、一通の茶封筒が入れられているのを見た。手を伸ばし、封筒に触れた瞬間、國男の声が飛ぶ。

「これ、中身は見るでないぞ……届けるのが、わしからの依頼よ」

「……届ける?」

「そう」

 籐椅子が軋る。

「お前はそれを届けるだけで良い……報酬は前回と同額だけ支払おう、それでよいな」

「見縊るな」

 人影は低く押し殺した声で、短く応える。

「その程度の使い、何も俺に頼まずともよかろう」

「ふむ」

 國男は無理強いすることを避け、一端は引き下がる。

「では聞くが……お前さんにただの使いを頼んでいると、本気で思っておるのかの?」

 人影は動かない。

 だがその周囲で、空気が僅かに変わった。肌を刺す電流のような気配が、ぴりぴりと人影を包み込む。

「よかろう」

 男は幾許かの沈黙ののち、頷いた。

「届ける先は何処だ」

「東享市牛込区……まずはそこに行ってほしい」

 なるほど。それ以上を聞くほど、無粋ではない。

 正確な目的地をここでは明かせないというのは、どうやら依頼が本物である証拠だということだ。

 もしここで、柳田老が店の名前なり人の名なりを口にした瞬間、自分は封筒を石塔に押し込めて立ち去るつもりだった。幾重にも人を介し、たとえ勘付かれたとしても、依頼主までの道のりを決して辿らせないという手法は、使いこまれてはいるが最も効果的なものの一つだ。

「承知した」

 人影は短く頷くと、茶封筒をスーツのポケットへと仕舞う。


 そのとき、一陣の風が庭の草を揺らし、桜の梢を揺らした。海鳴りにも似た葉擦れの音が、まるで幻の世界へと誘うように人影を包み込む。

 あたかも、こじんまりとしたこの庭が、虚空の只中に忽然と現れた幻影であるかのような錯覚すら起こさせる。

 しかし、人影はその幻術に陥る愚挙は犯さなかった。

 自らの精神を叱咤し、襲い来る幻惑の触手を振り払う。常人であれば、小一時間は呆けたままその場に立ち尽くすであろうほどの力を振りほどいた人影は、しかし小さく舌打ちした。


 先刻まで柳田老が座っていたであろう場所には、既に人の気配はなくなってしまっていたのだ。

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