序章
気だるい視線を投げかけ、男は窓枠に当てた爪先を上へと滑らせた。
深緑の袷に紺の袴のいったいでたちであり、ぼさぼさに伸びた髪は頭の後ろでしっかりと結んであった。いつも何かを見下しているような、気の弱い者なら威圧感すら感じてしまうような笑みを口元に宿した男だった。
鼻の頭に乗せた丸眼鏡を顔をしかめて位置を直すと、男はさも退屈だと言わんばかりに溜息をつく。
足が上に持ち上がれば、自然と頭は下がっていく。
仰向けのような態勢になった途端、男は眉間に強い睡魔を感じた。
だが、このまま寝るわけには行かない。ここは出窓のようになっているから安定が悪いわけではないが、いくらなんでも窓を開けたまま寝れば転落してしまうことくらいは分かる。
眠気を飛ばすために男は首を捻り、そして外の景色を見やった。
路面電車がゆっくりとした動きで曲がっていく。
整備の悪い電線から火花が散り、可憐な華が夜闇に咲いた。
かといって、外は漆黒に包まれているわけではなかった。人々は猥雑さに漬かるあまり、夜が更けていくことすら気づかぬようであった。原色の電灯が揺れ、正面にある茶楼からはひっきりなしに人が吐き出され、また飲み込まれていく。
どこか遠くの路地からか、銃声が聞こえたような気がするが、男は気にも留めない。
そのときだった。
部屋の扉がノックされ、男の返事も待たずに一人の女が入ってきた。濃い化粧と極彩色の衣装を纏ったその女は、見るからに娼婦であった。
「……何してるのよ」
普段なら、客にはそんな声色など決して聞かせないであろう、地声。
媚をつくり、しなだれかかるように纏わりつく声は、部屋にいるあの男には無縁なものであった。
「別に」
男は振り向くことなく答える。
女は溜息をつき、ふと小卓の上に置かれたきりになっている酒瓶とグラスに視線を落とした。
貴州茅台酒と書かれたそれに、女の眉が寄せられる。
「ねぇ、これ……飲まないの?」
今度の返事は、先刻よりさらに遅れてあった。
「一人にさせろ……飲みたいなら持って行け」
ぱんっと手を叩き、まるで玩具を与えられた幼女のような屈託のない笑顔を浮かべ、女はいそいそと部屋をあとにした。
階段を下りていく軽やかな足音を聞きながら、男はしかし夜闇を裂いて飛ぶ何かを見た。
ひゅん、ひゅん。
風鳴りの音すらさせず、眼前を擦過していく何か。
やおら躰を起こし、男は手を伸ばした。
指先に伝わる、蠢く感触。
力を込め、しかし捉えたものを潰さぬようにして引き寄せる男は、次の瞬間、大きく目を見開いた。
指の間で身をよじっているのは、動物でも昆虫でもなかった。
それは、一枚の紙片。黄色い紙片に、特殊な顔料で碧落空歌と書かれたそれは、明らかに呪符であった。
ただの紙でしかないものが、動いている。風になびいているのではない証拠に、力を入れている指の腹に、蠕動のような感触がしっかりと伝わってきている。
「……ふん」
鼻を鳴らした男の目の前で、呪符はゆっくりと動きを止め。
そして、折りしも吹き付けてきた風に砕け、散っていった。
指先を擦り合わせるようにして滓を払い、男は電灯に照らされ、星など一つも見えない夜空を振り仰いだ。
そろそろ頃合か。
「……騒がしくなってきやがったなァ……」
それだけを呟き、そして微笑んだまま、男は窓辺を下りた。