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新編 庚寅事変 Episode9  作者: 不死鳥ふっちょ
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第五章第一節<黒い封筒>

 その日、東享はうららかな陽射しが降り注ぐ一日であった。五月の半ばにしては湿気も少なく、充分に陽射しの恩恵を愉しむことのできる陽気であった。

 そのためか、往来を行き交う人々の顔は何処となく緩み、会話を弾ませていた。不穏な情勢や国の動向を伺いながら、不快で微細な緊張を常に空気に感じていた人々の表情を解したのは、たったそれだけの変化であった。

 否、それだけに陽気が人にもたらす影響というものが大きいということだろうか。彼らを包む現実の世界は何一つ変わっていないにも関わらず、人々は束の間の温もりを感じていたのだ。


 銀座にある高級料亭の一室に禾南はいた。

 黒い外套を衣文掛けに吊るし、黒い背広姿で食事をしている禾南は、傍らに置いてある湯呑みから茶を一口啜った。

 こうした食事を出す店も、最近はめっきり数が減ってしまっていた。支那事変による物資の不足は確実に、国民の生活を圧迫してきている。食糧だけでなく、衣類、日常品、薬といったもの全てが、徐々にではあるが商店から姿を消しているのだ。

 この店も、以前とは比べ物にならぬくらいの値をつけている。

 無理からぬことではある、と納得させていても、やはり懐が痛むのは仕方がない。ならばこのような店など、成金の道楽に任せておけばよいと思うかも知れない。

 しかし、禾南はこういった店に、定期的に通っていた。

 味が気に入ったとか、通を気取っているという理由ではない。こうした料亭は、金さえ払えばそれ相応の部屋を提供してくれる。一般の客からは完全に隔離された空間というものは、禾南のような裏稼業を営む者には何にも代え難い価値があるのだ。

 禾南は湯呑みを静かに卓に置くと、座椅子に背を預けて長く息を吐いた。

 この国はどんどんきな臭くなっている。中国との戦争も長期化の一途を辿っており、最早その影響は無視できぬほどにまでになっている。その上、欧州ではドイツが凄まじい勢いで戦局を拡大していると聞く。

 国内においても、陸軍の主戦派の連中の動きが活発になっている。このままでは、この小さな島国は自らその小さな身を獅子の口中に投じることにもなりかねない。

 だが、それを止めることが出来るのだろうか。無論、そんな依頼が彼の元へと来ることはないし、そもそもそんな依頼を出せるほど、この国は自由ではない。

 しかし、だからといって、このまま手をこまねいていることは、果たして正しいのだろうか。


 そのときだった。

 廊下の板が、ぎしりと微かに軋む音がした。

 思考の迷宮へと足を踏み入れていながら、禾南の聴覚はほんの僅かな音も聞き逃さなかった。神経を励起させ、傍らにおいた愛用の銃オートマティーク・ブロウニング・グラン・ピソンスに手を伸ばす。

 そのまま中腰の姿勢を維持しつつ、気配を探る。

 既に食事は済んでいる。わざわざ食器を片付けに来るようなことはないのだ。

 つまり、この部屋に近づいてくるはずの人間はいないことになる。

 だが気配は確実に接近してきている。

 ややあって、板鳴りの音がもう一度聞こえてくる。随分と近い。

 こちらの攻撃範囲は広い。遮蔽物があるとはいえ、この距離なら目標を外すことはない。

 土壁を打ち抜いて相手に傷を負わせることは不可能だが、障子越しなら。

 だが一つ不可解なのは、相手の気配が手に取るように分かるということだ。

 それは即ち、気配を殺すような細工を一切していないことを表す。この業界にいる者ならば、ある程度気配を殺すことができなくては永くは生きられぬ。

 しかし素人であるならば、ここに自分がいること自体を知らぬはずだ。

 相手は何者か。その十数秒の逡巡の間に、相手は障子の向こう側に達していた。

「……何者だ」

 誰何の声に、障子の向こうから発せられたのは女の声。

「葦原禾南様ですね……雁澤綾女です、覚えておいでですか」

 その名には聞き覚えがあった。銃を下ろし、禾南は張り詰めていた緊張を解く。

「よくここが分かったな」

 それを入室の承諾と理解したのか、障子が音もなく開かれた。

 綾女は、あの夜に出会ったときと同じ洋装をしていた。だが今日は、ブラウスもまた漆黒。

「蛇の道は蛇……そう申しましょう?」

 にっこりと微笑むと、綾女は禾南の正面に腰を下ろす。腰に佩いた太刀の柄を掴むと、傍らの畳に静かに置く。

 その所作をしばし立膝のまま見つめていた禾南は、やがて目を伏せる。そして何かに腹を立てているように眉間に皺を寄せたまま、湯呑みの中の茶を一気に煽った。

「何の用だ」

「欧州において、仏蘭西が独逸へ降伏宣言をしたのはご存知ですか」

 知ってはいるが、それは遠い大陸の戦の話だ。小耳に挟んだだけで、禾南はそれを大した話ではないとたかを括っていた。

 だが綾女の話し振りからすると、そうでもないらしい。

「仏蘭西が降伏したことにより、仏蘭西領インドシナが空白領域となりました……陸軍はそこを狙っているようです」

 今度こそ、禾南は舌打ちをしながら湯呑みを乱暴に卓へとたたきつけた。

 なるほど、そうした繋がりがあったというわけか。自分の読みの浅さに苛立ちを隠せない禾南に、綾女は言葉を続ける。

「該当領内には油田があります……中国との関係を即時解決するため、そして強国と互角の力を得るため、その油田を狙っていることと思われます」

「成る程……それで」

 目的は、と重ねて問おうとしたときだ。

「こちらを」

 差し出されたのは、一通の黒い封筒。何も書かれていない封筒の封を切り、中の便箋に目を通す。

 見る間に禾南の表情が固く強張る。

 斜めに読み飛ばし、禾南は視線を綾女に戻した。

「こいつの依頼主は……?」

 直球で問い質された綾女は、躊躇うように口を噤む。

 口止めされているわけではない。だが正直、綾女は禾南という人間を掴みかねていた。

 二人の沈黙は数分の間続き、そして終末は綾女の言葉によって迎えられた。

「高野山金剛峰寺大僧正、明堂圭太郎」

 高野の曼華経の連中か。

 この女のコネクションには正直舌を巻かされる。高野の大僧正との繋がりを一般の人間が持てるはずがない。一体何者であるのかは非常に興味深いところではあるが、現時点でそれを突き詰めるのは得策ではない。

「どうなの、受けてもらえるの?」

 禾南は便箋を封筒に戻すと、それを上着のポケットへと乱暴に押し込んだ。

 返事こそなかったものの、その行動が意味することは明白であった。

 やおら立ち上がり、黒い外套に袖を通すと、禾南はまだ座ったままでいる綾女に振り向いた。

「行くぞ……阿佐ヶ谷の陸軍兵廠、だな?」

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