間章Ⅳ<通達の函>
その日の朝、千代田区にあった東京日日新聞の本社は騒然としていた。
小さいダンボールの箱が届けられていたのだが、差出人は不明であった。箱には文字や記号などの手がかりは一切なく、ただ封書が一通貼られているだけであった。宛名にはただ、「東京日日新聞社殿」とだけ書かれている。一切が不明なその配達物は、出勤してきた社員の手によってオフィスに運ばれてきていた。
しかし早番の社員たちはその箱を取り囲み、喧々諤々と意見を飛び交わせているだけであり、誰もその箱に手を触れようとはしなかった。
その理由は、箱から独特の臭気が感じられたからであった。それが何の匂いであるのか、判別できる人間はいなかった。しかし少なくとも、それは快いと思える類の匂いではなかったのだ。
先輩社員たちに混じり、香納清志が出社したのはとうに騒ぎが大きくなってからであった。自転車を漕いできたためにうっすらと汗をかいていた清志は、額の汗を拭いながらオフィスに出来た人だかりを見つけ、訝しげに眉を寄せる。
ざわめきから、それがただならぬ事態であることだけは理解ができた。
しかしあの人込みの中心に何があるのか、ここからではうかがい知ることはできない。清志は鞄を机に置くと、足早に人壁に駆け寄っていく。
「どうしたんですか?」
一番外側にいた年配の社員に声を掛けると、彼はなおも覗き込もうとするがやはり思うように見えず、諦めて振り向いた。
「小包が届いたんだとよ……何が入ってるか分からんし、誰の荷物かも分からん、それで騒いどるんだね」
その場を離れる男に代わり、清志はその隙間に割って入った。元々人より小柄で細い躰つきをしているために、多少の隙間なら滑り込むことができる。
すみません、と小さく謝りながらも顔を出した清志の目の前に、その箱は現れた。
何の変哲もない、ダンボールの箱だ。違和感があるとすれば、その表面には何も書かれていないということくらいだろう。そして、誰もが手を出すことを躊躇っているその臭気が、清志の鼻に届いた。
ざわり、と躰のどこかが落ち着かなくなるような、不安をかき立てるような匂い。
ずきん、と頭が痛くなる。
清志は目を上げ、互いに根拠のない話を交わす先輩たちの顔を見比べる。
だが、いつまでもこうしているわけにはいかないと思ったのだろう。あれこれ考えるよりも躰を動かすほうが先という直情的な社員の一人が、箱に張られていた封書を掴み、はがし取った。
中には便箋が二枚入っていたが、文字が書かれていたのは一枚だけであった。それを開き、鋭い視線を文面に落としていた男の顔色が、やがて青褪めていく。
表情の変化に気づいたのか、周囲の社員たちが手元の便箋を覗きこもうと首を伸ばす。男はなおも便箋を睨みつけていたが、やがて乱暴に便箋を机の上に叩きつけると、小さな箱に手を伸ばした。
蓋を毟り取るようにして開き、中を覗きこんだ瞬間、男は異音を発して躰を二つに折った。
体格のいい、根性の据わっていたあの男が、床に吐瀉物をぶちまけていた。
手紙などよりも箱の中身が気になる社員たちに押し戻されるようにして、清志は輪の外へと弾かれる。
ふと見下ろすと、先ほどの手紙が足下に落ちていた。身を屈めてそれを拾い上げる。
『過日の斉藤衆院議員の演説における記事において、斉藤を英雄と見做すことと同義と思われる文面を書いた貴社に対し、内務省からの通達があったにもかかわらず謝罪の意を表明せぬ汝らに、破滅を与えん』
たったそれだけの文面だ。しかし清志が読み終わるよりも早く、机を取り囲んでいた社員たちが悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていく。
便所に駆け込む者や外へ飛び出す者もいたが、中には間に合わずに床にしゃがみこんで嘔吐する者までいる。たった一人残された清志は、手紙から箱へと視線を映す。
中には、清志の上司だった男の生首が入っていた。