第四章第三節<ダンケルク撤退>
メッサーシュミットBf110のコクピットから大地を見下ろすパイロットは、眼下に広がっている機甲師団の圧倒的な攻撃力と布陣とに舌を巻いた。
まさか、これほどまでに上手く行くとは。
砂塵を巻き上げて進軍しているのは、独逸軍第七機甲師団。指揮を執っているのはエルウィン・ロンメル少将であった。
轟音を立てて発射される戦車の主砲KwK30 L/60は、対峙するフランス軍の中戦車ソミュアS-35の隊列を直撃。
しかし分厚い壁のように視界を阻む砂煙の先にあるシルエットは、いささかも損害を受けていないように思われた。
両者の距離を考えれば、先刻の攻撃が無効化されることはまずありえない。
しかし攻撃を放つドイツ軍は、その事実に何等驚いている素振りは見せなかった。同時に、コクピットから戦況を把握するパイロットは、ヘルメットに施された霊的強化視力によって状況を確認。
フランス軍戦車部隊前面に強い魔力収斂点を発見していた。
対物理破壊兵器の防禦障壁を纏うフランス軍の陣営を破るには、正攻法の攻撃では不可能だ。
障壁を無効化する手段は二つ。障壁の耐久度を上回る破壊力をぶつけるか、もしくは障壁として魔力を束ねてある魔法を解除するか。
前者の方法によって障壁を破ることは、事実上不可能であった。兵器開発の技術に大きな隔たりがある場合ならば可能であるが、同時代における戦争の場合、そうした格差が生まれることは少ない。
戦争は戦力の激突だけではなく、高度の情報戦として展開される場合も多いためであった。
そうなれば、戦車部隊によって障壁を攻略することは難しい。
「こちらSandalphon、これよりフランス軍の結界攻略に当たる……影響範囲は半径4500m、該当車輌は30秒で撤退せよ」
パイロットは無線で呼びかけつつも搭載した弾倉を切り替える。旋回航路を取り、攻撃開始までの時間にドイツ軍戦車が影響範囲外へと離脱するのを見守る。
急激な方向転換に、フランス軍も何かを察知したようだった。
罠が仕掛けられているのか、それとも策があるのか。
フランス軍戦車もまた後退を始めるが、所詮は中戦車。機動力で爆撃機に勝てるはずがない。
「……遅い」
フランス軍上空に突進したメッサーシュミットは、bF110 A-0機関銃を掃射。
だがいずれの弾丸も戦車を捕らえることなく、否戦車を避けるかのように大地へと打ち込まれていく。
隊列の間隙を縫うように着弾した弾痕から、黒い霧のようなものが吹き上がってくることに気づいたときには、もう遅かった。
霧は空中に吹き上がったかと思うと、巨大な骸骨に姿を変える。それは特殊な塗装が施された弾丸によって召喚された、下級の屍魔であった。
最下級の亡者のごとくに、常に渇え飢えることを強要された者たちは、飢餓の呪詛に蝕まれた本能のままに動く。生者をとり殺すだけの力もない彼らが狙いを定めたのは、フランス軍が張り巡らせていた障壁であった。
次々に障壁に襲いかかり、屍魔は牙を突き立てる。元々が対物理攻撃には高い防禦性能を持つそれは、中戦車に呪術的な紋様を塗装することにより、強度と持続時間を飛躍的に向上させる仕掛けを持っていたのだ。
その魔力を食らわれ、障壁は揺らぎ、負荷はそのまま中戦車本体へと逆流した。
紅蓮の炎と閃光が弾け、次々に誘爆していくフランス軍。炎と衝撃に砕かれ、焦土と化したフランスの大地を、ドイツ軍の戦車はゆっくりと蹂躙していった。
一九四〇年五月、それは春めいてきた季節にしては珍しく冷えた朝であった。ドイツ軍はフランス東部に展開されていた英仏連合軍防衛線を突破。
電撃作戦の名で恐れられていたドイツ軍の快進撃は、ついにフランスにまで到達した瞬間であった。
だがこのとき、フランス領内にはドイツ軍の猛攻を食い止めるには充分すぎるだけの兵力が残っていた。
それにもかかわらず、フランスが戦局序盤において圧倒されてしまった理由は二つであった。
一つは、これまでのドイツ軍の凄まじい進撃に戦意を喪失してしまっていたこと。
もう一つは、そのときのフランス軍に航空兵力が皆無であったことであった。
戦わずして降伏することすらほのめかしていたフランス軍部に対し、イギリス首相ウィンストン・チャーチルは策を講じた。
フランス南部の兵力に加え、北部には英仏連合軍の兵力もある。この二つの兵力を使えば、西へと進軍するドイツ軍を迎撃し、また挟撃することによってドイツ軍の一部を完全に本隊と切り離し、孤立させることができるのではないか、と持ちかけたのだ。
これに対し、フランスは首を縦に振らざるを得なかったし、またその結果にイギリスも胸を撫で下ろした。何故ならここでフランスが占拠されてしまった場合、ドイツ軍がドーヴァー海峡に到達するのは時間の問題であったからだ。
チャーチルはフランス滞在中の時間をこの作戦立案のためだけに費やし、そして五月二十一日に作戦は決行された。
だがドイツ軍もまた、この英仏連合軍の防衛戦略への対抗策を練っていた。英仏連合軍は戦車部隊による障壁を展開することでドイツ軍の戦力の無効化を図って来た。しかし航空兵力を持たない連合軍に対し、制空権を握ることは容易かった。
ドイツ軍はすぐに呪的強化されたメッサーシュミットを出撃させ、地上戦への補助魔術による連携作戦を実行。地上戦の指揮はロンメル少将、そして上空からの支援攻撃はZSS上級大将の部隊が執行。対空攻撃手段を持たない連合軍の防衛線はずたずたにされ、障壁は呆気なく崩壊した。
戦闘開始からたった四日。
五月二十五日には完全に連合軍の作戦は機能不全となり、撤退するほかに道を失っていた。
受話器を乱暴に叩きつけ、ヒトラーは口髭を震わせていた。
五月三十一日。殲滅戦となってから一週間が経過したにもかかわらず、部隊は最終的な勝利を収めることができないでいた。
戦況はほぼドイツ軍の圧勝であったのだが、連合軍はダンケルクの港から次々にイギリス本土へと撤退を続けていた。
たかが港町一つ、ドイツ軍の兵力をもってすれば容易に破壊できると読んでいたヒトラーの構想は大きく外れた。英首相チャーチルは、彼の持つ強烈な魔力によって残留するフランス防衛軍に魔術を施したのであった。
国教会の流派を汲む洗礼と霊的強化は、疲弊しきっているはずの兵士たちを歴戦の猛者へと変質させた。その予想外の抵抗を受けたヒトラーは、もう我慢の限界を通り越していたのだ。
「総統閣下、落ち着いてください」
Zの声に、ヒトラーは血走った眼を向ける。
「うるさい」
ダンケルクを制圧できないまま、こうしている間にも連合軍兵はイギリスへと次々と渡っている。
一刻も早く、次の手を打たねばならぬ。かくなる上は、航空兵力をもってイギリス本土へ決戦を挑むほかはないのか。
「閣下」
拒絶されたZは、しかし口調を乱さぬままに繰り返す。麻糸のように絡みついた問題をゆっくりと解きほぐすための思考を乱され、怒り心頭に達したヒトラーがZに怒鳴りつけようと振り返ったときであった。
ヒトラーを静かに睥睨するZの瞳孔が、深い赤に染まった。
「総統閣下……よろしいですか、どうか落ち着いてください」
まるで幼子に言葉を教える親のように、Zは緩慢に話しかける。顔を紅潮させていたヒトラーは、やがてゆっくりと大きく息を吸い込んだ。
そこで初めて、Zは言葉を先へ続ける。
「イギリス本土への攻撃は、どうかおやめください」
「何故だ」
間髪をいれず、ヒトラーは切り返す。
「ここで奴等を取り逃がせば、必ず報復の攻撃に来ることは間違いないだろう」
「閣下、よろしいですか」
両腕を背中で組んだまま、Zは部屋の中を歩き始める。
「第一次大戦期のドイツの敗北の原因は、欧州諸国を皆敵として戦ったからです。如何に強い国であろうと、一対複数の戦いで生き残ることはまず不可能だったでしょう」
それでは、お前は私がこのまま敗北するというのか。喉まで出かかった言葉を、ヒトラーは何とか飲み下す。
「現在のドイツの電撃作戦は、欧州諸国の恐怖の対象です。必要以上の戦闘を封じるここまでの戦略は、総統閣下のお力なくしては成功できませんでした……しかし、ここでイギリスを敵に回すことで、英宰相チェンバレンの宥和政策を投げ捨てることは得策ではありませんよ」
ヒトラーの胸中で暴れていた興奮が、見る間に鎮まっていく。
確かに、このままでは第一次大戦と同じ轍を踏むことになるだろう。あの屈辱をもう一度味わうことだけは、なんとしても避けねばならぬ。
「逃がした鼠など、あとで再び完膚無きまでに叩き潰せばよいのです……それに、僕がイギリスへの攻撃に反対する理由はもう一つあります」
唇を吊り上げ、Zはヒトラーに向けて一歩を踏み出す。
「マンチェスターに本部を置く魔術結社<黄金の黎明>……チャーチルの背後には彼らの力があります。現時点で、あの騎士らと剱を交えることは、あまり賢い方法とは思えません……総統閣下、なにとぞ御一考のほどを」