第四章第二節<刺客>
一九四〇年一月十六日。
この日、ついに阿倍首相は退陣し、次期内閣総理大臣として米内光政がその座に就いた。
当初の思惑のとおり、これに最も狼狽したのは帝国陸軍であった。彼らの読みでは、阿倍首相退陣までの筋書きこそは同じであったものの、当時陸相を務めていた畑俊六に大命が降下するものとばかり考えていたのだ。
しかしこの人選の背後には、天皇の存在があった。
天皇自らが畑陸相を召喚し、米内内閣の補佐を直々に要望したことにすら、陸軍には天皇と海軍との密約があったのではないかという穿った見方しかできなかったのだ。
しかし米内内閣に期待を寄せていたのは天皇だけではなかった。
支那事変に疲弊していた国力を肌で感じ取っていた国民、そして反戦派の議員たちもまた、陸軍の暴挙に対してこれまではただ、陰で眉を潜めるくらいしかできなかったのだ。
これで日本の迷走は終焉を迎える。米内内閣は、これまでとは違う。
何せ、天皇陛下御自らがお力添えをしてくださっているのだ。誰もが明るい未来を期待し、米内首相に注目を集めていた。
だが、これを快く思わない人間がいた。
帝国陸軍軍務局長、武藤章であった。彼は組閣直後から、陸軍と一部海軍の主戦派を集め、倒閣運動を開始していた。
同年二月二日。
この日、帝国議会衆議院本会議場において、歴史は動いた。
「支那事変が勃発しましてからすでに二年有半を過ぎまして、内外の情勢はますます重大を加えているのであります。このときに当りまして一月十四日、しかも議会開会後におきまして、阿部内閣が辞職して、現内閣が成立し、組閣二週間の後において初めてこの議会に臨まるることに相成ったのであります。総理大臣をはじめとして、閣僚諸君のご苦心を十分にお察しするとともに、国家のために切にご健在を祈る者であります」
そう切り出したのは、民政党の斉藤隆夫議員であった。
支那事変処理に関する質問演説、として始められたその演説は、開始当初こそ静粛であったものの、次第に議場は混乱と驚愕、そして怒号が飛び交う混沌と化した。
隆夫が朗々と読み上げるそれは、まさに粛軍の演説であったからだ。
「二年有半の間において三たび内閣が辞職をする。政局の安定すら得られない。こういうことでどうしてこの国難に当ることが出来るのであるか。畢竟するに政府の首脳部に責任観念が欠けている。身をもって国に尽すところの熱力が足らないからであります!」
混乱の渦の中で、一際拍手が場内を揺るがした。
隆夫の言葉は、一つ一つが凄まじい速度と質量をもって打ち込まれる流星群のように、議場に降り注ぐ。その言葉の一つ一つは、決して大仰なものではなかった。
しかし、それはまさに、人々が胸中に永劫秘めねばならぬと意を決していたものであっただけに、拍手は一層激しさを増す。
「畏れ多くも組閣の大命を拝しながら、立憲の大義を忘れ、国論の趨勢を無視し、国民的基礎を有せず、国政に対して何らの経験もない。しかもその器にあらざる者を拾い集めて弱体内閣を組織する。国民的支持を欠いているから、何ごとにつけても自己の所信を断行するところの決心もなければ勇気もない。姑息倫安、一日を弥縫するところの政治をやる。失敗するのは当り前であります!!」
空前絶後の議会を終えた隆夫は、数名の秘書を従えながら駐車場へと向かっていた。
いまだ興奮冷めやらぬ人々の荒ぶる声が、くぐもった残響となって聞こえてくる。額にうっすらと汗をかいたまま、隆夫は黒塗りの車へと近づいていた。
周囲に人影はない。秘書の一人が車のドアを開け、隆夫が身を屈めて乗り込もうとしたときであった。
静寂に満ちた駐車場に、靴音がこだまする。別の秘書が顔を挙げ、靴音のするほうを覗き込み。
その瞬間、顔が緊張に強張る。
「民政党議員、斉藤隆夫……なかなかの熱弁だったそうじゃないか」
名を呼ばれ、隆夫はゆっくりと身を起こし、車の屋根越しに声のしたほうを見る。
こちらに歩み寄ってくるのは、明らかに帝国陸軍であった。だが、顔をうかがうことはできない。
軍帽を目深にかぶっていたし、広い鍔によって光は遮られている。ただ口元だけが、不気味に微笑みながら動いていた。
かつん、と軍靴が床を打ち、再び静寂が戻る。
「陸軍が何の用か」
「大したことじゃない」
手袋に包まれた右手を振り、男は微笑んだ。
「ただな、今日のあの演説がどういうことを意味するのか……それを理解しているのかどうか、確かめるだけだ」
「意味……そうだな」
陸軍の静かなる脅迫にも屈することなく、隆夫は言葉を続ける。
「お前たちの自由にさせておくよりは、ずっとこの国の行く末のためになる、とは思っているのだがね」
制服の男の背後に控えていた者たちが隆夫の言葉に色めき立つが、それを片手を上げただけで制する。
「成る程……貴様のその力、ただの議員のものではないな」
無論、隆夫の言葉は聞く者の胸に染み渡り、脳裏に深く刻み込まれる。
だが、それだけでは不十分だ。この不安定な情勢の中、人々の心を掴むには、これまでの指導者がそうであったように、強烈な暗示能力がなければならぬ。
隆夫自身がそれを知っているのかどうかは問題ではない。一つ確かなことは、斉藤隆夫という男を野放しにしておくことは、陸軍にとって益となることではないということであった。
制服の男は、やおら右手を振り上げると、鬼のような形相でそれを横に振りぬいた。
目標は斉藤隆夫。
だが車一台を挟み、それ以上に離れているために間合いは優に三メートルを数える。
遠距離から攻撃するには、方法は限られてくる。
男の手には銃はない。しかし違和感を覚えるよりも早く、男の振りぬいた軌跡が白く光を放つ。
まるで男の手刀によって切り裂かれたかのように残る残像の裂傷から、ずるりと何かが姿を現した。
最初に視界に捉えたのは、女の顔であった。髪を振り乱し、狂乱に歪んだ女の顔がのたうちながら亀裂から姿を現し、ついでその白い首がぬるりと続く。それが異形であることには間違いがなかった。
白い首は粘液に塗れ、濡れて光り、そして中途からは蛇の鱗に覆われていたからであった。爛々と赤く輝く狂気の瞳で隆夫を捕らえたそれは、さらに二匹這い出てくる。
それは禊窳と呼ばれる中国神話の悪鬼であった。
何故そんなものを、陸軍の将校が呼び出すことができるのか。そんな疑念を脇へと押し遣り、隆夫は懐に右手をしのばせ、そしてポケットに収めてあった白木の鞘を抜き放った。
海軍士官、桐生雅人より与えられていた護り刀。その白刃の閃光を浴び、禊窳は苦悶の声を上げながら暗がりに凝る闇の中へと飛び込んでいく。
悪鬼の姿が見えなくなってからもなおも数刻、隆夫は小刀を握り締めていたが、それ以上の追撃はなさそうであった。
隆夫は溜めていた息を一度大きく吐くと、静かに鞘に刃を戻す。
そうして、いつの間にか姿を消していた陸軍将校らのいた場所を一瞥すると、隆夫は自ら車のドアを開け、後部座席へと乗り込んだ。
※演説文言につきましては、中公文庫「回顧七十年」 斉藤隆夫著 を参考にさせていただきました。)