間章Ⅲ<旧い記憶>
涅い水面に、小波が広がる。黒曜石のように静かに、そして完璧なまでの平面を成していたそこは、微かな動きが伝わることで曲線を描き出し、滑らかに円が広がっていく。
その動きを見てはじめて、それが巨大な磨き抜かれた一枚岩や鏡などではなく、静かに湛えられた水なのだということが分かるのだ。
では、水面を波打たせたものは一体、何であったのか。
それを問うよりも早く、白い爪先が水面に触れた。
僅かに指の腹を沈ませただけで、水は素足を受け止めた。
もともと、そこは浅い水溜りであったのだろうか。否、覗き込めば遥か水底にごつごつと隆起した岩盤がゆっくりと揺れながら見てとることができる。
その深さは、優に数メートルはあろう。
では何故、足を踏み出した者は沈まぬのだろうか。それを知るには、まず彼が何者であるかを知らねばなるまい。
爪先よりも僅かに上、裾が水に濡れぬ程度の丈の白い袴を身に着けている。ほっそりした体躯は男であることを忘れさせるほどであったが、脆弱だという印象は受けなかった。胸元辺りにまで垂れる髪は白銀色をしていた。
ゆったりした白い着物を纏ったその男は、怖気に震えるほどの端麗な顔立ちをしていた。物憂げな面持ちで項垂れたまま、男はもう一歩を踏み出した。
やはり爪先は僅かに濡れるだけで沈むことはない。男はそのようにして次第に暗い湖を進み、やがて中央のあたりにまで辿り着いた。
そこでやっと男は足を止め、顔を上げた。
視線の先には、天井というよりも洞窟の天蓋のようであった。暗くてよくは見えないが、かなりの高さがあることだけは確かなようだ。
見上げる男の視界に、さらにもう一つのものが入ってきた。
それは、朽ちた鳥居のようであった。
男の正面にあるのは、倒壊した赤い鳥居であった。そのまま崩れて放置されているのか、人の手が施された気配はない。鳥居があるということは、以前は人が通っていたのだろうが、見捨てられてから久しいようだ。
男は小さく溜息をつくと、悲しげに首を横に振る。
男はその朽ちた鳥居に何を見たのか、何を感じたのか。
そのときであった。
「こちらでしたのね……随分と探しましたわ」
少女の声が、背後から聞こえてきた。男は驚く素振りも見せずに、ゆっくりと振り向く。
少女はルネサンス期の欧州貴族に見られるような独特の衣装をまとっていた。肩を露にしたドレスは胸元の谷間をくっきりと際立たせ、そしてウェストを固いコルセットで締め付けている。スカートの裾も大きくファーティンゲールで広げられており、まさに当時の宮殿を描いた絵画の中から抜け出てきたかと思われるような姿であった。
「……聖印の守護者か」
「<杖>の守護者、珠美と申します……沙嶺様でいらっしゃいますね」
沙嶺と呼ばれた銀髪の男は、口元に自嘲気味な笑みを湛えたまま、静かに頷いた。