第三章第三節<明王調伏>
闇色の凍てつく空気の中に白い靄が散り、そして緩やかに消えていく。覚治の頬は、厳しい寒さに加えて、胸中の不穏な渦に引き締められているようでもあった。
米内邸をあとにした角田覚治は、桐生雅人を一人車で帰らせ、自分はこうして深夜の帝都を歩いていた。
ただ帰るだけならば、車に同乗したほうが賢い選択であっただろう。
しかし今の覚治は、一人で考える時間が欲しかった。
それも、今すぐにだ。
外套のポケットに両手を入れたまま、やや俯きがちな姿勢のまま、覚治は雪に埋もれそうな帝都を一人、歩く。
革靴の下では、新雪がざくざくと小気味のいい音を立てて踏みしめられていく。
それ以外の音は、一切ない。
目を閉じれば、雪の降りしきる世界に飲まれてしまいそうな静寂と冷気が躰を取り巻く。覚治は鼻から大きく息を吸い、そして再び歩き始めた。
米内光政は、湯浅内大臣からの話を飲み、阿倍信行に代わる次期首相の地位に就くと言った。
海軍大臣を務める米内であれば、首相としても充分すぎるだけの手腕は発揮できるであろう。
しかしそれは、国がまともな状態であればこそだ。
陸軍大臣から海軍大臣へ。一国の頂点の首の挿げ替えは、しかしそれだけには留まらない。
米内の言うとおり、海軍大臣が首相となれば、陸軍は黙ってはいないだろう。世界を敵に回しかねぬ奴らのことであるからして、どんな手段をもってしても日本を戦争の中に放り込むくらいのことはする。
それだけはなんとしても食い止めねばならない。
国内情勢がこれだけ不安定であるのだ。足場すらおぼつかない状況で、果たしてまともな戦いが出来るのかどうかくらいは、冷静になれば想像がつくであろう。
そんなことすら理解できぬほどに狂乱の只中で舞い踊る陸軍に、どのような策を打つか。
そこまで考えて、覚治は自嘲気味に笑ってみせた。全く、こんなことをするために自分は軍人になったわけではないのに。
しかし、それではお前は何をするために軍人になったのだと問われれば、返答に詰まってしまう。
人を殺すためではないことだけは確かだ。
しかし、何かを守るためには戦はやむを得ぬことがある。
戦になれば、殺さねばならぬこともある。ならば俺は殺すために軍人になったのか。
際限のない迷宮に閉じ込められたような気分になった覚治は、肩に積もった雪を振り落とそうと、右手をポケットから出す。
その瞬間、彼は感じ取った。
雪夜の沈黙の中、彼は確かに魔の波長を知覚したのだ。千鳥が縁の暗く冷たい水面を傍らにずっと歩いてきた彼の行く手から、少年のものであろう悲鳴が聞こえてくる。
この夜更けに、何をやっているのだという疑問よりも先に、躰が動いた。冷気が見えぬ鎖のように全身の筋肉を縛り上げていたが、鍛え抜かれた覚治の体躯はそれをものともせずに撥ね退けた。
並ぶ街灯の光の領域に、まろびながら少年が足を踏み入れてくるのが見える。恐怖と焦燥に支配されたその表情は、間違いなく自分の力を遥かに凌駕した何かに出会ったことを彷彿とさせた。
それと同時に、少年もまた、覚治を見る。
助けを求める声は、しかし激しい呼気の狭間にかき消された。
雪道を蹴り、数瞬で少年のもとへと辿り着いた覚治は、足を止めることなく少年の肩に手を置き。
「止まるな……走れ」
擦れ違いざまにそう呟き、そして少年が抜け出した闇へと身を投じる。
肌をぴりぴりと刺すほどの瘴気が全身を包む。魔の眷属がいることは、間違いない。覚治にしてみればそれしきのことだが、魔という存在を知らぬものからすれば、それは悪鬼にも等しき恐怖の対象であろう。
先刻までは、等間隔に堀の端に並ぶ街灯のせいで、少なくとも道の周囲くらいは見て取れた。
三十歩も歩けば次の街灯まで辿り着けるだろうに、今覚治を覆っているのは完璧な闇であった。
通常では考えられぬことではあるが、覚治はうろたえなかった。
これしきのことで、気を乱すとでも思うたか。ゆっくりと細く長く息を吐き、心を落ち着ける覚治の視界に、唐突に男の顔が浮かんだ。
闇の中、その部分だけに光を照らしているように。
だが奇妙なのは、見える部分が顔だけなのだ。舞台のスポットライトなどを用いたとしても、顔を強い光で照らせばどうしてもその周囲まで光が及ぶ。
肩や頭髪などが見えてしまうものなのに、覚治の眼前に浮かんでいるのは呆けたような男の顔だけだ。
足を止めた覚治は、その顔をひたと睨みつける。鋭い眼光に射抜かれたのか、男の顔がぐらりと傾ぎ。
半回転し、顎を上に向けた状態で静止した。
だしぬけに瘴気が濃くなっていく。本格的な敵意を露にする魔であったが、それよりも早く覚治は相手の姿を霊的な視力によって捉えていた。
男の顔は、喩えるならば疑餌であった。この異常な空間で、自分と同じ人間の顔が姿を現したならば、見る者は少なからず動揺する。中空に浮かぶ能面のような顔に恐怖するか、それとも一縷の望みを託して縋りつくか。
どちらにせよ、それらの行動は魔にとっては好都合なのだ。
何故なら、感情の起伏それ自体が、魔にとっては活力となるのだから。
街灯の柱にねじくれた四肢を絡みつかせ、男の顔を中心にして無数に巨大な蛭が蠕動するような外観を持つ魔が、そこにはいた。
本体は球体を成している。絶えず蠢く濁った血の色をした触手たちを支えるように、節くれだった細い昆虫のような足が六本、突き出して支柱にしがみついているのだ。
その魔は覚治を認めるや否や、細い肢で思い切り支柱を蹴りつけ、一直線に覚治へと飛び掛ってきた。
身の毛もよだつほどの異形に迫られれば、常人であれば昏倒もしくは発狂するであろう。
しかし覚治の鍛え抜かれた精神は、そのような負荷をものともせずに撥ね退ける。その場に仁王立ちに踏みとどまった覚治は、外套のポケットから両手を出し、それを胸の前で組み合わせた。
親指を交差させ、人差し指を突き出し、中指をあわせ、残る二指を互いに組み合わせる印形だ。
「唵 瑟底哩 迦羅魯婆 吽欠 娑訶ッ」
大威徳明王呪が覚治の口から迸る。死と冥府の国の王、閻魔を司る神の力が勧請され、覚治の周囲の闇が幾つもの渦を成す。鎧のように魔が身に纏っていた闇を逆に利用し、覚治の周囲には五本の闇色の剱が切っ先を魔に向けて出現していた。
一拍の隙を置いて、次々に射出される剱。
飛び掛るために跳躍していた魔に、逃げ場などなかった。
水風船を踏み潰すような、胸の悪くなるような音をさせて剱に貫かれ、魔は身をよじって奇声を上げる。
どうと撃ち落された魔に近づき、覚治は真言を絶やさぬままに突き立つ闇の剱を一つ、引き抜く。
闇色の剱からはまだ紫色の蒸気のような気が立ち上っている。それらはまるで意思をもっているかのように覚治の手首、腕、肘までに絡みつく。
文殊菩薩の眷属ともされているこの大威徳明王は、一人の僧が使役できるような存在ではない。その名の意味は「閻魔を殺す者」。死界の王をも超える力をもつともなれば、隙あらば術者すらも未熟者と一喝し滅しようとするだけの暴力的な力であった。
ごぼりと溢れる黒い体液を振り払い、覚治は肩までを紫の焔に包まれながら右手の剱を男の顔に向け。
「貴様の力だけで、この地の結界が破れるはずがなかろう……主は誰だ」
魔はそれには応えず、ただぎぃと鳴くだけだ。
覚治はそれが脅しではないことを見せ付けるかのように、切っ先を横に薙ぎ、男の顔面を切り裂いた。がくがくと痙攣を起こし、男の顔が黒い体液に染まり濡れる。
「今一度問う、主は」
だが、覚治はその言葉を最後まで口にすることはできなかった。
背後から、先刻の少年のものであろう悲鳴が再び上がったのだ。
はっとして背後を振り向き、そして眼前に伏す魔を見下ろす。鼻梁を深く切り裂かれながら、男の顔がにぃと笑った。
まさか、もう一匹いたとは。
怒りに任せ、男の眉間に剱を深く突き立てると、覚治は身を翻して背後へと向かう。
彼の手によって倒された魔の結界が解け、周囲の闇が払われていく。次第に明瞭になる視界と共に、覚治は自分の呪力ではない、もう一つの力を感じた。
しかもそれは、二度目の悲鳴の上がった方角から、つまり自分の行く手から伝わってくるものだ。
「神の御息は我が息、我が息は神の御息なり。御息を以て吹けば穢れ在らじ、阿那清々し阿那清々し」
一陣の風が吹き巻き、周囲に淀んでいた瘴気が見る間に晴れて行く。先刻打ち倒した魔の残滓も、呼び起こされた風によって既に痕跡すら感じられぬ。悪鬼魔物を調伏させる覚治の曼華経の呪力とは異なり、見事なまでの神祇調の祓であった。
しかし、一体誰の手によるものか。いまだ警戒を解かぬ覚治に、行く手から幾分若い男の声が聞こえてきた。
「やあやあ、これはどうも、お世話になりました……さすが帝国海軍きっての曼華経僧のお力ですな」