第三章第二節<政の結界>
千代田区の三年町に車を停めた桐生雅人は、窓から見える町並みに小さく唇を噛んだ。
この界隈は、政府首脳の邸宅や国会議事堂、また数々の省庁が立ち並ぶ、政治の中枢であった。
夜闇の中に聳えるそれらの建物の窓には、灯りはない。夜半をとうに過ぎている時刻であったし、また雪は幾分強くなってきたようだ。
そんな天気のせいなのか、今夜ばかりは仕事を早々に切り上げ、帰路に就いていたようであった。
だが、雅人が感じたのはそのような孤独感ではなかった。
往来の頭上に覆いかぶさってくるような、威圧的な雰囲気を漂わせる建物たち。
そしてその異様な気配は、錯覚などではなかった。世界のどの方角を向いても、戦争の火種が溢れている昨今、これら政府中枢の区域には幾重にも結界を張り巡らせているのだ。主に中国とアメリカを意識した魔術による遠隔知覚を防禦する目的で結ばれた結界と防禦呪文は、相互に作用することによって、この地の空気を重く淀ませてしまっていた。
それは、魔術的技能を持たない雅人でも感じ取ることが出来るほどに、濃密に、深くこの地に漂う魔力であった。
ドアを開け、積もった雪をさくりと踏みしめた雅人は、コートの襟を指先で強く握り締める。吐く息は白く濁り、そして薄霧のように空中に散る。
助手席から降りた覚治はしかめ面をしながら曇天を見上げる。
「……なんだよ、酷くなってんじゃねえか」
「ぼやいててもしょうがないですよ」
苦笑する雅人は車に鍵をかけると、肩を竦めるようにして歩き出した。
「少々お待ちくださいませ」
夜半過ぎの訪問だというのに、二人を出迎えた執事は充分に暖められた応接室に案内した。
さすがに無礼な時刻だとは考えたが、そもそもここに呼びつけたのは先方なのだ。頭ではそう理解していても、やはり知らずのうちに肩に力が入ってしまう。
それもこれも、これから出会う相手のせいである。
外套を脱ぎ、温められた空気を吸い込み、雅人は溜息をついて窓の外を見やる。細かく散り舞う雪の断片は、そのまま帝都を覆い尽くしてしまうかと思われるほどに激しさを増していた。
外の冷気に晒され、硬く強張った筋肉が徐々にほぐれてきた頃だろうか。
応接室のドアがノックもなく開かれ、一人の初老の男が姿を現した。弾かれたように振り返る雅人とは対照的に、覚治はただ組んでいた腕を静かに解いただけであった。
入ってきたのは、一人の男であった。
温和そうな眼差しと、柔らかい口元が印象的な初老の男である。丸顔のその男は、二人を見るや一つ満足げに頷き、そしてゆったりとした足取りで暖炉へと歩み寄る。
男の名は、米内光政といった。
二年前に海軍大臣に就き、また昨年の夏には海軍参議官となった、帝国海軍の重鎮だ。
昼間の激務もあったろうに、米内はぴしりと糊のきいたシャツにネクタイを締めた格好であった。それが米内の持つ矜持の一端を表しているような気がして、雅人は自然と頭を垂れていた。
米内はしかし、すぐには用件を切り出そうとはしなかった。
ややあって、先ほどの執事が湯気の立つカップを三つ、銀製のトレイに載せて運んできた。恭しい所作で三人の近くにある小卓に白磁のカップを置くのを確かめると、米内はそこでようやく口を開いた。
「陸軍は、ついに阿倍を見限ったのぅ」
現首相、阿倍信行の退陣は既に時間の問題だというのが、誰もの正直な意見であっただろう。何故なら、近年に至り急速に発言力を強めてきている帝国陸軍が、彼を好ましく思っていなかったからであった。
組閣後すぐに勃発した第二次の欧州大戦に対し、阿部首相は不介入を宣言した。その理由としては、日本は数年に渡り支那事変を続けてきており、ここの戦局は既に膠着、長期化の様相を呈していた。
そのような時勢において、さらに欧州に参戦するなどということは愚の骨頂であると言えた。
阿部もまた、同じ考えであったに違いない。
しかし、天命は阿部に味方することはなかった。折りしもの異常気象によってその年は稀に見る不作となり、物価は高騰、物資は不足。阿部は統制令を出すものの思うような効果は上がらず、ついに内閣不信任案が決議するという運びとなった。
混乱する国内事情に対し、予備役大将を送り出した陸軍は問題が自分たちにまで及ぶことを恐れて阿部を切り離す策を取ることとなる。まだ一部の人間にしか知らされてはいないが、その情報は確かであった。
「退陣ですか」
覚治の言葉に、米内は深く頷いた。
「問題はそこだ」
壁に立てかけてあった杖を手に取り、米内は雅人へと視線を移す。
「湯浅がな、次の総理をと……話を持ちかけて来おった」
湯浅内大臣が米内に秘密裏に次期首相に推薦すると話を持ちかけてきたのは、今日の夕暮れ時のことであった。その目論見などは知る由もないが、もしこの話を飲めば、内閣と陸軍との軋轢はさらに深まるであろう。
何故なら、海軍は参戦反対の立場を貫き通していたからだ。
「お受けになるのですか!?」
興奮した口調の雅人を抑え、米内は小さいがしっかりと頷く。
「今の陸軍の暴走を止められるのは、今しかない」
米内は窓の外の雪を見つめる。
「首相交代など、首の挿げ替えのようなものだ……国民も莫迦ではない、その程度で日本が変わらんことくらい、百も承知」
既に二人を乗せてきた車の上にも雪は積もり、遠くからでは白い小山のようになってしまっている。その様子を静かな微笑みと共に見下ろしつつ、米内は厳しい口調で続けた。
「わしは、湯浅の話を飲む……そのときには、お前たちにも影で動いてもらわねばならん」
一時の興奮のまま、日本は今、世界を敵に回そうとしている。
冷静に考えれば、日本は極東の小さな島国でしかないのだ。そのような国が、アメリカのような大国に勝てるわけが無い。それは策略や装備などでどうにかなるという次元の話ではないのだ。
陸軍が何を考えているのかは知らないが、このままでは間違いなく、この国は滅ぶ。
米内の横顔を見つめたまま、覚治はそう考えていた。
そして、陸軍を衝き動かしているものとは一体なんであるのか。
胸の奥に不快な焦燥を抱いたまま、覚治は右手を硬く強く握り締めた。