第三章第一節<白華舞>
空気は、まるで剃刀のように澄み切り、張り詰めていた。
森羅万象全ての存在が眠ったように動かぬ夜。否、それは時の流れすら止まってしまったかのように思えるほどに。触れるか否か、ぎりぎりのところに研ぎ澄まされた刃物がじっと息を潜めているように。
今、微かなりとも風が吹くようなことがあれば、そよぐ梢は恐ろしく鋭い刃に削ぎ落とされてしまうだろうに。それほどの幻影をも生み出すほどに、冬の空気は澄んでいた。
そこは、暗く火の気のない堂内であった。
黒々とした板張りは、まるで深淵か暗渠を思わせるような、不気味な色彩であった。指で触れれば、ちりちりと指の腹が凍えるほどに冷え切っているその上に、一人の男が正座をしていた。
男の身を包んでいるのは、日本帝国海軍の制服。
体格はまるで小山のようであり、筋骨共に隆々としている。袖口から覗く手首もまた太く、男の頑健な性格を表しているかのようであった。
面立ちもまた固く、短く刈り揃えられた頭髪と、額に刻まれた皺が強い意志を感じさせる。真一文字に結ばれた唇と、見事に手入れされた口髭。
男の名は、角田覚治といった。
僅かに眉間に皺を寄せ、鼻からの息を白く煙らせたままに、姿勢を微動だにせぬまま、ただ黙するのみ。その眼差しの彼方には、夜闇の中にひっそりと息衝くように微笑む菩薩像があった。
如意輪観世音菩薩。それがここ、文京区にある護国寺に祀られている本尊であった。
菩薩の名の由来にもなっているものは、如意宝珠と輪法という二つの仏具であった。如意宝珠とは、もとは仏舎利を指す言葉であったが、次第にその霊験だけが注目を集めるようになり、いつしか強大な力を有する仏具となっていったものである。菩薩の掌に載せられた滴型のそれは、炎を纏いどんな願いをも意のままになるという秘法である。
さらにもう一つの輪法とは、日本における曼華経には馴染みが薄いものの、古代印度神話において投擲武具として描かれ、大神ヴィシュヌの聖なる武器とされているものであった。
それら二つの仏具を抱き、膝を立てて座る半跏思惟の形をもって、じっと観音堂を睥睨する菩薩像。半眼の菩薩をひたと見据える覚治の胸中は、しかし静寂をもって美徳とする堂内においてもなお、穏やかならざるものがあった。
これより遡ること、一月余り。
日本の外務大臣野村吉三郎と、アメリカの駐日大使ジョセフ・グルーの会談の結果は、惨憺たるものであった。天津の租界における日本軍の暴挙に対してアメリカは、日米修好通商条約の破棄をもって警告してきた。
さすがにそのままではならぬと感じたのか、日本はこの会談によって、アメリカとの間に通商条約に代わるものとして、新条約締結を申し出たのであった。
しかしグルーからの回答は、思わしくないものであった。中国や東南アジアにおける権益が脅かされることを懸念していたアメリカは、最早日本に対して友好的な顔を向けることはないように思われた。
差し出した掌を打ち払われた形となった日本では、これ以上アメリカに尻尾を振っている態度をよしとはしなかった。
江戸末期の黒船来航以来、日本は常に世界の流れを追いかける立場であった。長年における鎖国が生み出した軋轢は、数十年程度で埋められるものではない。
しかし日清日露の戦勝は、日本もまた列強国の一つとして名を連ねることができるのではないかという自負を抱かせるには充分であった。
かくして、日本陸軍は世界に名立たる国となるべく、アメリカに対して強硬外交を打ち立てんと主張しているのだ。
しかし、それが愚行であることにどうして気づかないのか。このまま列強と戦争をするようなことがあれば、国力に乏しい日本の敗北は目に見えている。
最後に長く細く気息を吐き、覚治はのそりと熊のような巨躯を起こした。
観音堂をあとにした覚治は、鈍色の天空から舞い降りる無数の白片に気づく。どうりで冷えるわけだ、と一人頷き、外套の襟をかき抱きながら覚治は境内から伸びる石段を下り始める。
少し前から降り始めていたらしく、石段を曇らせる程度にはうっすらと雪が降り積もっている。滑らぬよう、一歩一歩を確かめるように踏みしめる覚治。
その足取りは、しかし数段目を降りたところで、不意に止まった。
闇を見据える視線は、猛禽のように鋭い。
ややあって、石段の下に淀む影が、ごそりと動いた。それに伴い、微かに足音も耳に届く。
「やっぱり、こちらにいらっしゃったんですね」
闇の中から聞こえてくる声に、覚治は肩の力を抜く。
「……どうした」
石段を上がって来たのは、眼鏡をした青年であった。浅黒い顔をした覚治とは対照的に、青年の肌は白い。ほっそりとした躰つきは脆弱という印象こそ与えないが、やはり屈強な覚治と比べれば見劣りしてしまう。
だが青年の一番の特徴は、その瞳であった。僅かに青い色彩が混じるその瞳は、決して日本人だけの血筋の中では生まれようもないものであった。
曾祖母が欧州の人間であったと、確か前に聞いたことがあると、覚治は思い出した。
青年の名は、桐生雅人。覚治と同じ海軍の人間であるが、彼は諜報の任に就いている男であった。
「大将がお呼びです」
雅人は屈託のない笑顔で、そう答える。
彼を見るたび、覚治は不思議な男だという感情を禁じえない。彼のような男は、まるで軍隊にはそぐわないのではないかと思うのだ。少なくとも、覚治が知る人間の中で、彼のような軍人はいない。
だが同時に、そのような固められた概念に拘る自分にもまた、覚治は疑問を抱いていた。彼のような人間は、軍隊という世界に新しい風を吹き入れることになるのだろう。
しかし自分を含め、変化をよしとしない人間もまた多いことは確かであった。頭では分かっているのだが、変わることが出来ない。
「済まんな」
覚治は短く答えると、ポケットに手を入れたまま、ゆっくりと石段を降りていく。
雅人もまた、覚治と並ぶように歩調を合わせる。
夜闇は暗幕を下ろしたように二人を包み、そして降りしきる雪は感覚を麻痺させる。黙って歩いていれば、いつしか自分が立っているのか座っているのか、それすらも危うくなってくる。
それもまた、一興か。
寺社という、世俗からは隔離された場所だからこそ、そうした奇妙な乖離をも受け入れられる。
しかし、そのような幻想も長くは続かない。
石段の終点、石造りの鳥居が見える頃には、向かいの通りに停められている車が目に入る。
それによって、意識は現実へと引き戻される。
不毛で、愚鈍で、空虚な現実に。
しかし、そここそが、自分の居場所なのだ。
軽い頭痛を抑え、覚治は自嘲気味に微笑み、最後の石段を降りた。