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新編 庚寅事変 Episode9  作者: 不死鳥ふっちょ
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導章

 春は名のみの 風の寒さや 谷の鶯 歌は思えど 時にあらずと 声も立てず 時にあらずと 声も立てず


 


 何処からとも無く、風に乗って子どもたちの歌声が聞こえてきた。

 近くの小学校の児童たちであろうか。

 歌詞はまだ見ぬ春の気配を謳ったものであったが、空気はもうずいぶんと温もりを育んでいた。目の前の川面には光が踊り、さざめきを立てながら横切っていく水面にひとひら、桜の花弁が落ちた。

 見上げれば、傾れ落ちてくるかのような、薄紅の天蓋。幾重にも折り重なった枝ぶりが見事な櫻が、どっしりとした幹から太い枝を伸ばし、頭上を覆っていた。


 


 氷解け去り 葦は角ぐむ さては時ぞと 思うあやにく  今日もきのうも 雪の空  今日もきのうも 雪の空


 


 だが、空気の中には、微細ではあるが、はっきりと感じられる緊張があった。

 それは、大気が宿しているものか。それとも、立ち並ぶ櫻が、嘆いているものか。

 かつてこの道も雪に覆われた冬のある日に起きた、あの出来事。

 昭倭十一年二月二十六日に起きた混乱による、目には見えぬ漣は、いまだ消え去ってはおらぬ。陸軍の一部皇道派将校らによって引き起こされたこの事件により、日本の政党政治への復興は絶望的なものとなったのだ。鎮圧部隊として派遣されたのは、昭倭天皇により激励し、神器(ジンギ)天叢雲剱(アメノムラクモノツルギ)の加護と神気を賜った、皇軍と呼ばれた特務陸戦隊であった。

 かくして事件そのものは迅速な対応により鎮静化を見せるものの、既に日本の行く末は、誰の目にも明らかであった。

 今は、昭倭十四年。時の首相は、平沼麒一郎。

 前年に発布された国家総動員法に象徴される、前首相近衛文麿における、日中戦争時の強硬姿勢を修正することができぬまま、時はその砂塵を零していく。


 


 春と聞かねば 知らでありしを  聞けば急かるる 胸の思いを いかにせよとの この頃か  いかにせよとの この頃か


 


 川べりの道を、一人の軍人が歩いていた。

 軍帽をかぶり、襟元を正した軍服姿は、その男の痩身によく似合っていた。カーキ色で統一されたその姿は、今や帝都東享でも珍しいものでもなかったのだが。

 男の足元を、二人の子どもが笑いながら走り抜けようと、正面から駆けて来ていた。恐らくは母親に縫ってもらったものだろうか、筆箱を鳴らしながら走るうち、一人が男の軍服に気づき、指差し足を止める。

 少年らは年に似合わぬ神妙な顔つきで男を見上げ、一礼した。男はまた、強張った表情を崩し、子どもたちの頭を優しく撫でてやった。

 その態度に安心したのか、二人はまた楽しげに笑いながら、川べりの道を走っていく。

 男は微笑を宿したまま、再び歩を踏み出そうとしたが。ふと視線を泳がせ、そして素早い動きで振り返る。

 視界には、走り去る子どもたちの背中だけが映っている。


「……気のせいか」

 男は溜息をつき、歩みをはじめた。


 


 男の背中を見守る者がいた。

 白い衣を纏った、銀の髪をした青年。まるで櫻の幹に隠れるようにして、ひっそりと立つその青年は、ひらりと舞い落ちる櫻を見上げる。

「浅草寺の櫻も、また咲いたか」

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