第三話 リリスと凛
家に帰った僕は、姉の居るであろうリビングを避けて、部屋に入ってベッドに仰向けに倒れ込んだ。今、何処に行っていたのか問い質されたらたまったものではない。
「すっげえ疲れた……」
「お疲れ様、章。初戦の感想は?」
相変わらず愉快そうな顔をしている。
「こんなに疲れるとは思わなかった……」
「でしょうね」
「魔法練習でただでさえ疲れてたのに、実戦もあったらな……実戦だけに実践か……」
リリスの笑いがひきつっているのが分かった。
「ん?」
僕は一つの疑問が頭に浮かんだ。
「魔法練習で僕は魔力を大分使ったよな?なんで実戦でも魔法が使えたんだ?」
僕は先程のことがなかったことになったかのように白々しく言った。
「そういえばまだ伝えてなかったわね。時に取り残された空間では魔力供給が絶えないのよ」
何か若干リリスのテンションが下がっている気がする。そんな寒かっただろうか。
「何故そうなんだ?時に取り残された空間って掃き溜めみたいなもんだろ?」
「あれは一応御上が定めたバトルフィールドだからね。天界からのエネルギー、要するに魔力を術者に供給してくれるように出来てるのよ」
「天界のエネルギーって無限なのか?」
リリスは少し考えてから、こう言った。
「宇宙のダークエネルギーと同じくらいって言えば分かる?」
「なるほど……それは無限に等しいな……」
溜め息をつくと、それから僕は暫く休憩した。部屋はその間静かだった。
「さてと」
僕はベッドから起き上がった。
「風呂入らないと……」
「行ってらっしゃい。私はここに居るわ」
「そうか……」
部屋から出ようと思ったが、また疑問が湧いてきた。
「そういえば、前にこういう時は視界を遮断するとか言ってたが」
「ええ、言ったわね」
「実体があるのならそう言う言い方はおかしいんじゃないか?」
「便宜上人の姿を借りてるだけで本当は実体があるようでないようなものなの。魂ってそんなものよ」
魂、丸出しだったのか……。
「そうなのか……」
正直抽象的でよく分からなかったが、それを言うと詳しく説明し出しそうだったので返事だけしておいた。何か難しいことを考えると、余計疲れそうだったからだ。
それから、僕はタオルと着替えを用意して風呂に入った。
風呂の中で、ぼんやりと今後のことを考えていると、姉が磨りガラス越しに話し掛けてきた。
「章、章だよね?」
「ど……どうしたんだよ」
風呂で話し掛けてきたのは予想外だったので少々ビックリしていた。
「今日何処行ってたの?随分遅かったのね」
来たか、と思った。まるで夫が浮気してるんじゃないかと疑ってかかっている妻のようだ。確かに僕は最近素行が怪しいが、誰かに見られている訳ではない。多分。だから堂々と嘘をつく。
「ちょっと漫画喫茶に行ってたんだよ。意外と面白くてつい暗くなるまで読んじゃったんだ」
「ふーん。あまり遅くならないようにね」
そう言い残して姉貴は去っていった。
これは親の仕事じゃなかろうかと思った人が居るかもしれない。実は、両親が共働きで遅くまで帰ってこないので、実質姉貴が母親のようなものなのだ。だから、僕は早く姉離れしたいと思っている。
僕は風呂から上がって着替えると、安心してリビングに向かった。もう何も問い質されない……。
リビングに入ると姉は椅子に座ってテレビを観ていた。本当、テレビ好きだよな。僕はテーブルに置いてあったおかずをレンジで暖めていた。
すると、突如としてリリスが入ってきた。ドアを開けていたらとんでもないことになっていた気がするが、リリスはドアを閉めたまま入ってきた。そう言えばアストラル体なんだっけ。幽霊みたいなもんか。
「あら章、ここに居たのね」
リリスが話し掛けてきた。
「ちょっ、馬鹿」
僕はすかさず姉の方を向いた。姉貴は相変わらずテレビに釘付けだ。
「何を焦っているの?私の姿が見えたり声が聞こえたりするのは魔法戦争関係者だけよ」
「ああ……そうか」
姉貴がこっちをチラチラ見てくる。独り言だと弁明しておいた。
「なんでこっちに来た?」
僕は声を潜めて言った。
「章が遅いからじゃない。それから、テレパシー使えば凜を気にしないでいいんじゃない?」
あ、そういえばそうか。
『でも姉貴が居る前でも喋るのか?正直結構焦ったぞ』
電子レンジが音を鳴らした。
「あの場なら黙るべきでしょう……あの時章が間違って私に口返事でもしたら大惨事よ」
意外と空気は読めるらしい。
僕は暖まったおかずをテーブルの上に置くと、炊飯器からご飯を盛った。
さて食べるか、と思ったら、リリスの姿が見えない。上に戻ったのかな、と思い、大して気には留めずに、テレビを見ようとしたら、僕は口に入れたご飯を噴き出しそうになった。
リリスが姉貴のすぐ横で一緒にソファに座ってテレビを見ている。テレパシーでリリスに呼び掛けたが、何の反応も示さない。テレビの音で聞こえないなんてことがあるんだろうか。近づくのもなんだか不審なので、もう放っておいて、意識的に気にせずに、ご飯を食べることにした。
テレビでやっているのは、バラエティ番組。天使が見て面白いものなのだろうか、と思ったら、リリスの笑い声が聞こえてきて、僕はまたご飯を噴き出しそうになった。
結局僕はそんな状況下で味のわからない夕御飯を食べたのだった。
部屋に戻ろうとしてリビングを出ると、続けてリリスが廊下に出てきた。
「お前さ……もう少し僕のこと気に掛けてくれよな」
リリスは左手で右肘を抱え、右手の人差し指だけを立てて首を傾げた。何が言いたいのか分からないよ、というポーズらしい。
「要するにあなたは私に心配を強要してるの?」
「何処からそんな発想が出てくるんだよ。それに強要はしてないだろ……。お前と姉貴が近付くとはらはらするんだよ。なんか、胃が締め付けられるような……」
「心配しなくても私は別に手は出さないわよ」
「どういう意味だよ。とにかく、今後姉貴の半径一メートル以内に近付くな」
「姉の貞操は自分が守りたいということね」
「いい加減にしろ」
こいつと話していると本当に疲れる……。
僕は部屋に入ると、真っ先にベッドに寝転んだ。
なんで今日はこんなに疲れることばかりなんだよ。泣きたい。
「もう寝るから」
リリスにそう一言伝えると、僕はすぐに部屋の電気をリモコンで消し、就寝した。
次の日、僕は朝7時に起きた。なんだかとても良い夢を見たような気がしたが、起きた時にはすっかり忘れていた。なんだか体がスッキリして、活力が漲ってくる。昨日の朝と同じくらい調子が良い。
「おはよう章、良い夢見れた?」
リリスは僕の勉強机の椅子に逆から座って、相変わらず機嫌の良さそうな顔で言った。
朝に初めて挨拶をする相手がリリスになったのはまだ新鮮だ。
「さぁ……どんな夢だったか覚えてないよ。……そういえばリリスって寝ないのか?」
「アストラル体に睡眠は必要ないわ」
「へぇ、便利なんだなアストラル体って。いつも浮いてるから歩く必要もないんだろ?」
「いっぺん、死んでみる?」
「遠慮しとくよ」
僕は朗らかな気持ちでそう答えて、部屋を後にした。
リビングに入ると、洗面所に行こうとしている姉とすれ違った。
「あら章、おはよう。早いのね」
「いや、そんなには」
リビングに入り、朝のニュースを見ながら朝ご飯を食べていた。すると、いつの間にかリリスが近くに来ていて、話しかけてきた。
「そういえば章、学校はどうしてるの?」
「無いよ。冬休みだから」
「ああ、そういえばそんなものがあったわね」
リリスの台詞に、違和感があった。
「なんで思い出すように言うんだ?」
「天界の学校で習ったのよ」
「て、天界に学校なんてあるのか!?」
僕は吃驚して大声を出してしまった。
「しっ」
リリスは人差し指を口の前に当てた。
「あまり大声出すと勘づかれるわよ」
「あ……ごめん」
ここで少しの間があった。
「天界ではどういう教育をしてるんだ?」
TPOを間違えると一見まずい質問だが、決して責めている訳ではない。
「天界の学校では人間と同じような教育をまず受けて、あとは専門分野について学んでいくの。道徳の比重が人間の学校に比べて多少大きいけどね」
こいつにも一応、道徳観念はあるらしい。本当だろうか?
「何なのその目は。私にも道徳観念くらいあるわよ」
いつの間にかジト目になっていたらしい。それにしても勘がいい奴である。
「でもこれからの時代は個性が重視されるからね。私も個性は磨いてきたつもりよ」
悪趣味も個性のうちか。
「だからその目は何なのよ。いい加減呪うわよ」
「怒る通り越した!?」
お……恐ろしい。道徳観念はどこにいった。
「茶番はさておき今日の予定から言うわよ。食べながら聞きなさい」
切り替えが速すぎるだろ。僕はもぐもぐとパンを食べながら思った。
「今日は基本の確認と、より正確な水流制御の方法、余裕があれば水流の応用の練習をするわよ」
どうやら僕のスケジュールは最初から無かったことにされているらしい。尤も、僕のスケジュールなんてあってないようなものだが。
「また帰りがけに襲われるようなことはないよな?」
「否定は出来ないけど、この前は運が悪かっただけと言って支障はないわ」
なんか言葉を選んでいるような気がするのは気のせいだろうか。リリスは続けた。
「それに、疲れた所を突くような奴に大したものは居ないわ」
「いくら雑魚だからといって、この前みたいな奴と戦うのはもう懲り懲りなんだけど」
「ああいう神にあまり好かれてない奴等は戦争の序盤で駆逐されるから、もう会うことはないと思うわよ。その代わり、敵はどんどん強くなっていくけどね」
「何故そう言えるんだ?」
「普通の戦争は、戦争をする為に生まれてきたような天才を除いて、死は誰の身にも平等に訪れるわ。次は敵、その次は味方、そして敵……というようにね。でも魔法戦争の場合は、与えられた能力を如何にうまく活かし、磨いていくかでサバイバーが決まるの。運ももちろん絡んでくるけどね。だから、最後に残るのは魔法をうまく使えて尚且つ運の良い奴、ってことになるのよ」
「なるほど……」
ここまで筋の通った話はない、そう思った。
「だから章も毎日鍛練しないとね」
うまくまとめやがった。
それから僕はご飯を食べ終えると、例の廃ビルに向かった。廃ビルの一室に着くと、早速リリスが話し始めた。
「まずは基本の確認からね。章、魔法防御をしてみて」
「了解」
僕は生命エネルギーのイメージを頭に思い浮かべると、魔法防御を発動させた。
「章、一つだけ問題があるの」
「え?うまく出来たと思ったんだけど……」
「気付いているかどうか知らないけど、章はいつも目を瞑って魔法防御をしているの。でも出来れば、目を開けたままで魔法防御を完成させた方がいい。昨日のようなことを防ぐ為にもね」
僕は竜人との不意打ちを受けた瞬間のことを回想した。確かに、あんなことはもう避けたい。
「それに、単純な魔法防御の次の段階を行う上でも、重要になってくるの。今はまだ教えられないけどね。では章、やってみて」
身体中の生命エネルギーの制御……。エネルギーが染み出すイメージ……。
何か白いものが体の周りを覆っているのが見えた。どうやら成功したらしい。
「やれば出来るじゃない。でもちょっと薄いわね。やり直し」
それから、数回かやって、なんとか最初の課題をクリアすることが出来た。
まだお昼まで時間があったので、水流の制御の方法を学ぶことになった。
「章は細かく水流のイメージをして、やっと出せるようになったわけだけど、イメージ以外にもある程度魔法を制御できるものがあるの。それはね、”言葉”よ」
「言葉?」
「そう。世の中に呪文と言うものがあるでしょう。言葉の力って、意外と怖いわよ」
デジャヴ。何処かで聞いたような気がする。
「それでその呪文なんだけど、基本的に自分のイメージにあったものがいいのよ。出来れば自分で考えてみて欲しいんだけど、思い付かないようであれば、宿題ってことにして、とりあえずはこちらで用意した呪文で制御の練習をするわよ」
いきなり言われて吃驚したが、実は一つだけ思い浮かぶ呪文があった。
「微微放流射……でいいか?」
「ビビホウリュウシャ?」
もし吹き出しがあったなら、リリスの頭の上にはクエスチョンマークが書かれていたことだろう。
「既に考えがあるのは予想外だったわ。でも、自分らしい呪文があるのは良いことね。いつ考えたの?」
「小学生の頃に考えた技の名前を元にしてみたんだ。いつかは言いたいと思ってた」
リリスはくすくすと笑った。
「それじゃ、実践してみてもいいわよ」
今更ながら少し恥ずかしくなってきたが、こうなりゃヤケだ。
「微微――」
「言い忘れてたけど、大声で言わない方がいいわよ」
「放流射……」
デクレッシェンド。声が尻すぼみになってしまった。おのれリリス。僕の掌からはちょろちょろとした水流が流れ始めた。
それを見てリリスは愉快そうに笑い始めた。
「なんで邪魔するんだよ!」
「だって、ここで昨日の戦いみたいに暴発したら、壁に叩き付けられて救急車ものよ」
確かにそれよりはマシかもしれないが……。
リリスは一頻り笑い終えると、咳払いをして話し始めた。
「ただ魔法を使うだけじゃ呪文を使う意味なんてないの。何故呪文を使うのかって言うと、魔法をより正確に制御するため。声量で威力を調整するのはその一つ。今日は三段階くらい制御できるまで鍛練するわよ。それが終わったら水流の応用について話すわよ」
途中で昼食を挟みつつ、その日は暗くなるまで鍛練をして、家に帰った。