第一話 リリスと叶
1.
僕の目の前には、大きな赤いルビーのような眼を持ち、絹のように白い髪をしていて、光沢を放っているのではないかと誤解する程の雪のように白い肌、真珠のような可愛らしい八重歯の生えた、すらっとした体型の、これこそまさに天使であるといえる美少女が、仰向けの僕を見下ろすように佇んでいた。
しかし、僕がびっくりしたのは彼女の美貌にではない。いや正確には、彼女の美貌にだけではない。彼女の顔の作りが、妹そっくりだったからである。
「叶……?それは私のことを呼んだのかしら?」
リリスは腕を組みながら首を傾げた。髪がさざ波のようになびく。
いや、そんな筈はない。ありえない、そんなことは。何故ならもうあいつは……。
「ごめん、何でもない。ちょっとリリスの顔が、死んだ妹に似ていたものだから」
白い髪と赤い瞳を除けば、だが。
僕は上半身を起こしながら言った。
「そう……」
リリスは悲しそうな顔をした。
こいつは、意外と優しい一面があることに気付いた。いけしゃあしゃあとしているように見えて、空気を読む所は読んでくる。最初の印象とは違って、気を使ってくれるところを可愛らしいと思った。
「さて、儀式も終わったことだし、明るくなる前に家に帰るか」
気にしてない振りをして僕は言った。
そうして家に帰ると、姉貴が玄関で仁王立ちをして立っていた。これはまずいと思った瞬間には、姉貴は既に第一声を発していた。
「何処行ってたの?」
恐い顔をしていた。出掛けたのバレてたのか!?
「あ……いや……その……」
僕がどぎまぎしていると、相変わらず強い語調で言った。
「何してたの?」
「いや……ちょっと」
僕が言い終わらないうちに、姉貴に怒鳴られた。
「ちょっとじゃないでしょ!なんでこんな深夜に出歩く必要があるの!?」
「いや……散歩に行ってたんだよ」
「いくらなんでも時間が遅すぎ。あんた何かあったの?帰ってきた時も少し様子おかしかったし」
そこまで看破されてたのかよ……。
「悪い奴らと付き合い始めたとか、お金せびられてるとか、そういうことはないの?」
「そんなことないって!」
僕はこれ以上話を大事にしたくなくて必死の形相で言った。姉貴は深い溜め息をついて言った。
「章がそんな子じゃないって、分かってるよ?でもね、お姉ちゃん心配なの。昔はなんでも相談してくれてたのに、今ではまともに話もしてくれないしさ……」
分かっている。分かっているつもりだ。心配してるだけなんだって。僕にも責任があるってことも。本当の事を言って安心させてあげたい気持ちもある。でも、言えない。こんな危ないことに関わって欲しくない。
「ごめん。寝る」
横を通り抜けようと思ったら、姉貴に腕をつかまれた。
「離して」
「駄目」
振り向くと、真剣な顔をした姉貴が居た。
「約束して。悪いことはしないって」
僕は自然と微笑みながら言った。
「分かってるよ」
僕は部屋に入っていった。
なんだかとても疲れていて、着替えるのも面倒臭かったので、そのまま寝た。
2.
気が付くと僕は姉貴の部屋に居た。
「お兄ちゃん!」
振り向くと叶が居た。眩しい笑顔だった。ああ、ここは叶の部屋でもあったか。
「どうした?叶」
朗らかな気持ちで尋ねる。
「遊んで!」
「いいよ。何して遊ぶ?」
「おままごと!」
苦手なんだよなあ、人形遊びの次に。でも可愛い妹の為なら仕方ないか。
「いいよ。役はどうする?」
「私はお嫁さんね、お兄ちゃんはお婿さん。お姉ちゃんは姑」
後ろに振り向くと、椅子に反対側から座って、微笑みながら僕達を見守っているお姉ちゃんが居た。
「私が姑かぁ。ナイスな配役よ叶ちゃん」
「なんか恐いなー」
茶化すように僕は言った。
「何よぉもう!私が叶ちゃんを苛めるわけないでしょ」
お姉ちゃんは僕の頬をつつきながら言う。
「じゃあ、道具出そうか」
と言った時には既に叶はおままごとの道具を引っ張り出してきていた。
「もう出したよ!じゃあおままごと始め!」
よく笑う奴だった。
ここでいきなり視界が途切れた。
「ここでパンをちぎって投げてごらん」
お姉ちゃんの声がすると、視界が開けた。近所の自然公園の池の前だった。
「お兄ちゃんはいいの?」
「僕はもうやったことあるし、大丈夫だよ」
叶はパンをちぎって半分僕にくれた。なんだか貰わないのも可哀想な気がしたので、僕は素直に受け取った。
「ありがとう」
「叶ちゃんは優しいのね」
「えへへ……」
照れたような笑みを浮かべる。叶が世界で一番可愛いんじゃないかと思った。
「それじゃ、投げてごらん?」
叶はうん、と頷くと、持っていたパンを小さくちぎって池に投げた。すると、周りに居た水鳥たちが集まりだし、一番速かった奴がパンを口でつまんでもぐもぐと食べた。
「可愛い!」
叶の方が可愛いよ、と思った。完全に駄目なお兄ちゃんである。
叶はパンを千切っては投げ、千切っては投げを繰り返した。それに合わせて僕もパンを千切って投げた。
ふと気付いたのだが、叶はパンを色々な方向に投げているようだった。僕の真似をしたのか、自分で考えてやってるのかは解らなかったが。
色々な方向に投げると色々な水鳥たちに餌が回り、平等になる。また、水鳥たちがよく動くので面白い。同時に、水鳥の力関係も分かる。
叶は優しくて、頭も良かった。
また視界がぼやけていき、何も見えなくなった。
もう少し見ていたい。そう思っても、無意味だった。
3.
鳥のさえずりが聞こえる。もう朝か……。僕はベッドに起き上がった。なんだかとても幸せな気分だった。
「あら、おはよう」
リリスが言った。その目は微笑んでいるようにも見えたが、元々そういう顔の作りをしていたので、よく分からなかった。
「おはよう」
と僕が返事をすると、リリスは口の近くに手を持っていき、今度は明らかに、笑った。
「余程いい夢を見たのね。顔、にやけてるわよ」
僕は思わず顔に手をやった。その様子を見てリリスはまた笑った。
「嘘、嘘。でもとても幸せそうな顔をしてたのは確かよ」
「は?」
なんだ嘘か……。リリスの奴、嘘つきやがって。
「叶に似てるのは顔立ちだけだな」
僕が嫌味を言っても、リリスはまだ微笑んでいた。よく笑うところだけは似てやがる。
さて、朝食を食べに行くか。
僕はベッドから離れて部屋を出ると、階段を降りてリビングに行った。
すると、姉貴が居ないのに気付いた。あれ、と思って時計を見ると、もう午前10時だった。姉貴は部活に行っているようだ。
机には目玉焼きと焼いたウィンナー、サラダがあった。僕がパンをトーストしに行って、テーブルに戻ると、リリスがテーブルに座って足を振りながらテレビを見ていた。
「おい、行儀悪いぞ」
僕が注意すると、リリスは振り返って僕を一瞥してから、素直に椅子を出して座った。
「下界のテレビは面白いわね」
「天界にもテレビあるのか?」
「いや、ないわよ」
「ないのかよ」
そうして、二人で一言二言話しながらテレビを見ていると、パンが出来上がったようなので取りに行った。
戻ってくると、リリスはこっちに向き直って言った。
「今日は魔法の練習をしに行くわよ」
特に予定もないので、了承した。
「でも何処でやるんだ?」
「例のビルでいいじゃない。あそこなら炎を出しても焼けないしね」
「なるほど」
こうして、今日の予定が決定した。
4.
舞台は廃ビルに移る。
「まずは自分の生命エネルギーの制御の仕方から始めるわよ」
リリスは真剣な顔をしている。僕もそんな顔が出来ているだろうか、と思った。
「まずは防御の練習からするわよ。全身の気孔からオーラを湧かせるイメージをしてみて」
言われた通りにやってみた。すると、何やら白い蒸気のようなものが身体を包み込んでいるのが見えた。これも第六感の為せる業なのだろうか。
「筋がいいわね。もっと広げられる?」
僕は全身に力を入れた。すると、身体全体を包み込んでいたものが、少しだけ広がった。でも、すぐに疲れてしまった。
「まだ最初はきつそうね」
なんだか少し休めば大丈夫なのだが、続けるのが難しい感じだった。リリスから、身体から五センチ広がるのを三分維持出来るまで続けるわよと言われた。
「身体の生命エネルギーを元に現象を引きずり出すのが魔法よ。もう知ってるとは思うけど。だから、資本の生命エネルギーがないと意味がないの」
リリスは僕が防御の練習を続けている間に言った。
「僕は元々運動神経は良い方だったけど、長年本だけ読んできた俺に体力なんかあると思うか?」
「分かってる筈でしょ?魔法に必要なのは精力と想像力。疲れてるのは身体じゃなくて精神なのよ」
言われてから気付いたが、よく考えると汗を一滴もかいていない。でも身体は疲れている(はず)。疲労しているというよりだるい感じ。不思議な感覚だった。
防御の練習は午後2時頃まで続いた。最終的に課題はクリアした。それからお昼の休憩に入った。
僕は予めコンビニで買ってあったおにぎりを食べながら、部屋の角で片足を立てて座っているリリスに話し掛けた。
「そういえばお前、食べ物は食えるのか?」
リリスは下に向いていた目をこちらに向けた。
「食べられないことはないけど。必要はないわ」
「そうか。何か好物とかあるのか?」
リリスは上を向いてしばらく考えた後、答えた。
「ショートケーキ」
こいつ、意外に女子力高いなと思った。
ご飯を食べ終えると、今度は何の能力が得意なのか試すことになった。
まず、好きな色を聞かれた。青かな、と答えるとイメージ通りねと言われた。何の関係があるのか訊いたら、人間は自分の潜在イメージを色に変換して好む性質があると答えた。
今度は、青と言われたら何を思い浮かべるかと訊かれた。水だと答えた。安易な発想ね、と一蹴りされた。うるさいな。
次に水の持つイメージについて訊かれて箇条書きにされた。さらさらなイメージ、冷たいイメージ、物が浮くイメージ……。さんざん考えさせられた。
それからやっと、魔法らしい練習をした。
箇条書きされたイメージを元に、実際に水を出してみろと言われた。
「手に生命エネルギーを集中させるのよ。それから水をイメージするの」
僕は出来るだけ正確にイメージした。すると、手の先から水が噴き出した。やった、と思ってリリスを見ると、微笑みかけてくれた。僕も笑っていたと思う。
その日の修行が終わる頃には、手から水鉄砲のように、水流を噴き出させることが出来るようになっていた。その代わり、もう何もしたくないという気持ちで一杯だった。これが精力を使い果たすってことなんだな、と理解した。
その日の修行が終わり、廃ビルからの帰り道でのことだった。僕は感じていた違和感を、リリスに話した。
「なあリリス……これって……」
「…………」
リリスは辺りを警戒しているようだった。
ビルを出た瞬間から何か違和感はあった。疲れていたせいか気付くのが遅れたが、周りに人気が全くないのだ。それも尋常じゃない。人が一人も通りかからないのは然ることながら、車が一台も通りかからない上に、辺りはもう暗いのに、どの家に明かりがついていない。異常事態だった。
「どういうことなんだリリス」
リリスは考え込んでいるようだった。僕が待っていると、しばらくして話し出した。
「これは“時に取り残された空間”ね」
「時に取り残された空間?」
「ええ。この世界は時間の流れの中で捨てられた空間なのよ」
「なるほど。だから人が一人も居ないと。で、なんで僕たちはそんなところに迷い込んじまったんだ?」
「多分竜人類の力ね。人間に事が公になると面倒だから、こういう場所はよく使われるの。何処かに潜んでいる筈よ。私たちをこんな所に引きずり込んだ張本人がね……」
僕は息を飲んだ。