プロローグ【後半】
1.
【初級・魔法の使い方】
任意の血で、図のような魔方陣を出来るだけ正確に描いて下さい。
描き終わったら、魔方陣の一部に手を触れながら、以下に書いてある呪文を滑舌よく言ってください。
ただし、儀式は午前2時から3時の間に行わないと成功しません。
第一の魔法を得る方法は以上です。
2.
僕は近所のスーパーに来ていた。今は夕飯の準備の時間、午後5時。スーパーは多くの人で賑わっていた。
何故こんな所に来ているのかというと、答えは一つ。ニワトリの血の代替物がここにあるからである。
「何本くらい買えばいいんだ?」
『まぁ二本買えば十分ってところね』
「意外と安いんだな」
その代替物とは――
「この歳でワイン買うとか店員に顔覚えられても仕方ないな」
赤ワインだった。しかし何故赤ワインなのか。赤い液体という点で似通っているからなのか。リリスに訊いてみたところ、その通り、まず儀式において代替物を用いることはそれほど珍しいことではなく、酒は昔からこういった儀式には相性が良いのだと言っていた。そういえば、キリストは最後の晩餐で、パンを自分の肉、赤ワインを自分の血として弟子たちに振る舞ったとも言っていた気がする。
『料理用だから大丈夫でしょう。だから酒屋じゃなくてスーパーなのよ』
「なるほど。そこのところも計算済みというわけか。」
そもそも僕は赤ワインなんて買ったことがないから勝手が分からないのだ。僕はワインというものは高級なものだと思っていたが、実際にはワインというものは高いものから安いものまで様々なものがあるらしい。
「ところで赤ワインの質とかは儀式の成功の是非に関係ないのか?」
ワインと同様に、儀式の勝手など知る由もない。そもそも、未だに自分の置かれた状況にすら疑問だらけなわけだが。
そこで、とりあえず、僕は、今、目の前にあることに集中することにしていた。最早疑問が多すぎて、逆に何を質問したらいいのか分からないからだ。
『関係ないってことはないわよ。けど、今はそうも言ってられないでしょ』
「確かに」
言われてみたらそうだ。安い赤ワインでは儀式が成功しない、だから最上級のワインを買ってこいと言われても、金銭的にも年齢的にも用意は出来ない。
「でも一応置いてあるもので一番高いものにしておくか。当分は本買えないな……」
仕方ない、しばらくは図書館で借りてくるか……。
『あら、そう落ち込むこともないんじゃない?あなたは誰がどれだけ望もうが絶対に体験することが出来ないことを体験してるんだから』
一里ある。しかし……。
「僕にとって本を読むことは日課だから読まないと落ち着かないんだよ」
リリスは暫く間を置いてこう言った。
『本当に本が好きなのね。けど、これからはそうは言ってられないわよ』
僕も暫く間を置いてこう言った。
「分かってるよ」
まだどれだけ忙しくなるのかは分からない。もう後戻りは出来ない。したくもない。けれど、戦いが始まるまでの束の間の一時を、儚い日常を、もう少し楽しみたかったのかもしれない。無意識にそんな含めをして言った今の一言を、果たしてリリスは解ってくれたのだろうか。結局、リリスはこの後、一言も話し掛けてこなかったし、僕も話し掛けなかった。気まずいはずの沈黙が不思議と心地好かった。
3.
無事買い物を済ませ家に帰ると、姉貴がリビングに居た。
「あら、何処行ってきたの?」
面倒見がいいというか、少々おせっかいの姉だ。名前は凛と言う。家族でありながら、僕はちょっと苦手だ。
小学生の頃は苛められていたところをよく助けられたりして尊敬すらしていたと言って良いが、今としてはただのうざい姉である。
……あいつが居た頃は、そうでもなかったのにな。
「ちょっとコンビニに」
まず帰宅すると何処に行っていたのか訊いてくる。少しでも怪しい部分があると問い質してくる。僕はうんざりしながら弁明をする。実際何も卑しいことをしてないのだから。というのが以前の僕だ。最近はイライラして何も話さないことが多い。
「ふーん。何買ってきたの?」
「別になんだっていいだろ」
僕の反抗期は、姉が相手だった。
「何よその態度。可愛くないわね。でも中身だけは見せなさい」
以前ライターを買ったことをバレたことがあるので少々取り締まりが厳しくなっている。
「別にいいけど」
僕は買い物袋の中身を見せる。
「よし、いいわよ」
中に入っていたのはワックスとポテトチップス。何も怪しい部分はない。
僕は急いで自室に駆け込み、ドアを閉めた。
さて、僕は念のため本当にコンビニに寄ってきた。それくらい要注意な人間なのである。
赤ワインを買った(しかも二本)といえば、有無を言わさず問い質され、本当のことを言ったら、精神病院に送られるに違いない。考えただけでも恐ろしい。
ところで赤ワインを何処にやったかというと、近所にある廃ビルに置いてきた。肝試しの会場にさえ選ばれないほど、存在感のないコンクリートのガラクタ。入る物好きなどそうそういない。居心地があまり良くないので、ホームレスすら一人もいない。赤ワインを盗まれる可能性は、まずない。念には念を入れて、ロッカーの中に隠しておいたが。
「リリス、居るのか?」
椅子に腰掛けて話し掛ける。こういう時、何処を見て話し掛けていいのか分からないから困るんだよなあ。
『いつだって近くに居るわよ。あなたのことを、いつだって見つめてるわよ。寝てても起きててもお風呂に入っていても』
怖い。
「お前はストーカーか」
ん?待てよ……。
「それって僕のプライバシーは!?お風呂に入ってても見つめてるってそれ完全にアウトだよね!?」
『あら、今更気付いたの?別に気にしないわよ、あなたが何をしようと』
「いや僕が気にするから!」
『ふふっ』
笑ってる場合じゃない。お年頃の男子にとっては大問題である。色々と。
『冗談よ。あなたが見られたくないものがあるなら私は視界を遮断するわ。でも声だけは駄目よ。いつ襲われるか分からないんだから』
「ああ……それなら良いんだが……儀式の場所はあそこでいいんだな?」
『人に見られる心配もないし、最上階は天に近いし、問題ないわ。近くに山か何かあったら良かったんだけどね』
最上階が”天”に近い?
「天界って実際に空の上にある訳じゃないんだよな?なんで空に近い必要があるんだ?」
『人々の信仰のせいね。あっちの世界は、こっちの世界の信仰によって形作られているようなものだから。信じる力って、案外恐いわよ』
「はあ……」
相変わらず難しいことを言ってくれる。しかもやたら曖昧なんだよな……。
「そういえば、初めてでも魔方陣って描けるものなのか?」
『少しは練習が必要ね』
必要なのかよ。
「先に言えよ」
本当にいい加減な奴だ。いや、ここは天界らしく曖昧な奴と読んだ方がいいだろうか。
『それも含めて大二本なのよ』
意外と考えられているようだ。こいつにはもう少し自己主張を勉強して欲しい。事前に言ってもらえば何も文句ないのに。でもこういう奴って、訊かれなかったから答えなかったってよく言うしな。
ん? 待てよ。もしかしたら、発言がしつこくならないように気を使っているんだろうか。こいつ変な所で鋭いし。確かに、こいつに現状を一から十まで説明してもらってたら、気力が持ちそうにない。だから敢えて発言を小出しにしてくれているのかもしれない。もしそうだったらありがたいが。
『どうかしたの?』
いきなり無言になったので気になったんだろう。特に話す必要はないか。
「いや、なんでもない。ところで今、儀式の為に出来ることはあるか?」と、話を反らす僕。
『呪文を言う練習でもしたら?』
「分かった」
あまり人と喋らないので、滑舌良く呪文を言うのが難しそうだ。練習しといて損はない。
「でも口に出して言うの恥ずかしいな……風呂で練習するにしてもこの本中に入れられないし……」
『男なんだから我慢しなさい』
「それ、何か使い方間違ってないか……?」
結局、僕は本番までに練習して呪文を暗記するまでに至った。大した長さでは無かったが。時間は余るほどあった。僕はその時間でシャワーと夕食を済ませ、残りの時間は仮眠を摂った。
そして僕はついに近所の廃ビルまでやって来た。警察に補導されないか心配で仕方なかったが、幸い自宅及び廃ビル近辺は治安が良かったので助かった。時刻は午前一時。万が一のことがあった時の為に早めに出てきた。
僕は暇を潰そうと思い、携帯を取り出したが、僕の予想に反してリリスが自分から話し掛けてきたので少しビックリした。
『ねえ、章はなんでそんなに本が好きになったの?』
実はあまり訊かれたくない内容だったが、何故かリリスには素直に答えられた。
「本しか友達が居なかったんだよ」
リリスは何も応えなかった。
「何から話せばいいのかな。まず僕は、昔から頭は良かったんだよ。でも運動は出来なかったから、僕のことを良く思わない奴も沢山居たんだと思う。きっかけは中学受験かな。塾に通わなきゃいけなくなって、それから塾の為に早退したりした。友達と遊ぶ時間も取れなかった。僕は塾の講義で国語が一番好きで、もっと得意になりたくて、本を読みまくった。気付いたら僕に構う人はほとんど居なくなった。まとめるとそんなところかな」
気まずい沈黙の後、リリスは謝ってくれた。そういうつもりじゃなかったと。
明らかにわざと言った訳じゃない。リリスは雑談を始めようとして思わぬ地雷を踏んでしまっただけ。運が悪かっただけ。そう分かっていても僕は何も言うことが出来なかった。
やがて、午前2時になった。
「それじゃあ始めるか」
『……ええ。そうね』
僕は赤ワインのコルクを開けた。
結構複雑な形で、やり直しがあまり利かないので、慎重に描いたら意外に手間取ってしまった。20分くらい経ったかもしれない。それでも、最後までしっかりと描くことが出来た。
『失敗なしか。へえ、意外に器用なのね』
「美術の成績もよかったんだぜ?」
『あとは呪文だけね。ちゃんと言えるかしら?』
「もちろん」
本当は少し自信がない。でも、やるしかない。時間制限もあるし。
僕は魔方陣の真ん中に立ち、魔方陣に手を置いて、唱え始めた。
「天に召します我らが神よ。そなたらの意志を理解せし者ここに現れん。大地に巣くう聖霊どもよ。汝らの主ここに現れん。我が魂に忠誠を誓う。我が魂に忠誠を誓え。我が身体は大岩の如く、精神は大木の如く、血潮は鋼鉄の如く、その闘志は熱く、その装いは冷たく、生ける限り永遠の仕組みに身を置く者也。さあ時は満ちた。今ここに契約を結ぶ。この魔方陣の法則に従いイデアの扉よ開門せよ!」
魔方陣が輝きだし、僕の体を覆い始めた。僕は頭がくらくらしてその場にへたり込んだ。体の中を駆け巡る痺れるような感覚。体が熱い。とにかく熱い。その暑さから解放されると同時に脳味噌を掻き回されるような痛み。同時に夢の中に落ちていくような感覚。痛い痛い痛いイタイイタイイタイ異体……。僕はあまりの痛さに気絶した。
それから、僕は夢の中で、魔法の使い方を覚えた。
体の中を流れる生命エネルギーを操作することによって他の次元(イデア界)からあらゆる現状を引っ張り出し、それを自由に操るのが魔法というものらしい。
例えば何もないところから炎を出すとか。ただし、イデア界に存在する現象の種類や量は、術者の能力によるとのこと。ここでいう術者の能力とはすなわち想像力と精力を意味する。
この二つが魔術師としての力量と言うわけだ。ところで、イデア界の現象を使い果たしてしまったらどうなるのかというと、精力が回復すれば元に戻る。とどのつまり、精力を魔力と言っても良い。このことを夢で感覚的に学習すると、僕は、また感覚的に、目が覚めたら魔法が使えるようになっているであろうことを理解した。と言うより、感じた。
けれど目を覚ますと僕はそんなことを全て忘れてしまうほどの衝撃を受けた。主に視覚から。驚きの中で僕はたった一言、うわ言のように言い放った。
「叶……?」