プロローグ【前半】
1.
自分の世界を邪魔されたくない。
誰にも侵されたりはしたくない。
それが僕の願いだった――はずだった。
そんな僕に転機が訪れたのはある冬の日のことだった。
2.
「こんにちは」
司書さんの挨拶に、無言で頭を下げて返す。もう何年もの付き合いだが、特にお互いに歩み寄ったりはしなかった。ただの、本を借りに来る人と、本を貸す人としての関係。僕にとって対人関係は、それだけで十分だった。
僕はその日、いつものように本を借りに行った。本棚と本棚の間を慣れた足つきで抜けてゆく。すると、ある処で視界に違和感があるのに気付いた。
光の当たり方がどうもおかしい。
そう思い僕が棚の上段に視線を移すと、そこには本が並べてあった。当たり前だと思うかもしれない。しかし、ただの本ではない。背表紙が光り輝いている真っ白な本だった。
あまりに突飛な出来事に、僕はしばらく言葉を失った。
そして、たった一言、やっと言い放った。
「嘘だろ……」
気になるが、本を取るには高すぎて届かない。僕はそこを少し離れて足台を持ってくると、躊躇しつつも、少しずつ手を近付かせ、やっとその本を手に取った。その瞬間――。
『聞こえる?』
「え……?」
突然の声に、僕は素直に驚いた。気のせいだろうか。
最近あまりにも口数が少なかったせいで、幻聴が話し掛けてくる病気にでもなったのだろうか。
『私の声が……聞こえる?』
この声は確かに――聞こえている。そう認識した瞬間、僕はその場で最も普遍的であろう質問をしていた。
「誰だ?」
『聞こえているのね』
声の主は質問には答えず、声が聞こえているかの確認だけをしてくる。
聞こえない場合もあるってことなんだろうか。それってどういうことなんだろう。さっぱり意味が分からない。
しかしそんなことよりも、声の出所が一向に掴めないのが不気味だった。
「出てこい、どこに居るんだ?」
周りを見回すもやはり分からない。
端から見れば完全に気の触れた人だろうなあと思いながら。僕は密かに、この怪奇現象を楽しんでいた。
『姿は見せられないの。ごめんなさい』
姿が見せられない……か。こういうのって姿が見せられないというより、俺の目に姿が見えないと言った方が正しいんじゃないだろうか。
ここで、僕に沸き起こった疑問があった。
「お前は一体、何者なんだ?」
『その前に』
なんだろう。頭の上に疑問符が浮かぶ。というより、さっきから浮かびっぱなしなのだが。
『私の声はあなたにしか聞こえてないから、声で話してると怪しまれるわよ?』
じゃあどうすればいいというのか。僕だって得体の知れないものに話し掛けるのは少し抵抗があるというのに。
『私のように、心の声――要するにテレパシー――で会話した方がいいわ。私はリリス・ヘベネキアート。たった今、あなたの守護天使となった存在』
「守護……」
おっと。
『守護天使……?』
テレパシーは分かった。そんな便利なものがあるなら最初から言って欲しい。しかしながら問題は後半部分。名前は分かるが、肩書きが全く答えになってない。疑問に対する答えでさらに疑問を増やしてはまさに本末転倒じゃなかろうか。
『あなたの名前は?』
つくづくマイペースだなと思いつつ、僕は質問に答えた。
『章、挺水章』
『そう……アキラね。覚えたわ』
どうやら、テレパシーはうまく伝わっているようだ。
そういえば、果たしてこんな怪しい奴に名前を教えてしまって大丈夫だったのだろうか……。言ったあとに後悔した。名前ってオカルト方面から社会福祉方面、はたまた連帯保証人の同意書まで色々なものに利用されるからな……。
『……さっき守護天使って言ったけど、あなたの監督役といえば分かりやすいかしら』
監督役?何故?何の為に? 疑問が新たな疑問を生む。魔のスパイラルに陥った気がした。
『そうね、突然過ぎてわけがわからないといった様子ね』
「…………」
確かに頭の中が疑問で埋め尽くされて混乱はしている。
『詳しくはあとで話すわ。うまく事が運んだらね』
うまく事が運んだら? こいつは遠回しの表現が好きらしい。
『その本を、誰にも見つからずに持ち出しなさい。その本は、元々この図書館にあったものではないの。その本の存在を出来るだけ他の人に知られてはならない』
……ここで、長い沈黙があった。場所が場所だけに、物音ひとつしなかった。
僕にはまるで時が止まったかのように感じられた。
僕はもう半分諦め、詰まる話は後でゆっくりと訊かせてもらうことにした。
『……何か特別な事情があることは分かった……でも、それならなんであの本はあんな人の目を引くような輝きを放ってたんだ?』
ふと手元の本を見ると、さっきまでの輝きが失われていた。
『誰にでも見つけられるようなものではないってことよ。あなたが近づいたからその本は光りだした。この本が、あなたを求めていたの』
本が求めていた……か。どんなシステムなのか気になるが、今はひとまず置いておこう。
『確かに、図書館のこのスペースにはよほどの物好きじゃないと立ち入らないしな』
詰まるところ、僕は本が好きだ。ジャンルは問わない。だから、図書館のどのエリアにどんな本があるのかは大体把握してるし、物好きが入り込むような所も平気で入り込める。まあ、分厚い本が置いてあるような所だ。
『けど、僕が恐れをなして逃げ出していたらどうするつもりだったんだ?』
もう分かっていると思うが、僕は人並み以上に落ち着いた性格である。しかし、人よりも本が好きなので、根暗とも呼ばれる。しかし、もう、そう呼ばれるのも慣れた。
『言ったでしょう。本があなたを求めていたと。恐れをなして逃げ出すような人間を、本は選び出したりしないわ』
この本の裏に一体何が隠されているのだろう。
新たに増えた疑問も未消化のまま、僕は言われた通りに本を盗み(?)出した。
僕は、あの本を下着と服の間、腹部に挟んで隠し、下に落ちないようにベルトで固定した。それから、念のため怪しまれないように一応適当な本も借りた。今回だけ図書館で本を借りていかないのは、不自然とまではいかないが、気を引く可能性があるからだ。
そして、僕は今、図書館の入り口の前に居る。
『じゃあ本題に入りましょうか。私が何故、ここに居るか』
本題?そんなものあったっけ。
僕が我慢していた質問を次々とぶつけ、リリスがそれに答えていくだけかと思っていたのだが。どうやら自分から話したいことがあるらしい。
僕は自宅を目指して自転車を漕ぎ始めつつ、話に耳を傾けた。
『さっき意図的にその白い本を渡す人を選び出したって話はしたわよね。何故意図的に選び出す必要があったかっていうと、この本を「使う」のにふさわしい人間を選び出すためよ』
冷たい風が頬を撫でる。気持ちいい風だ。
『この本を「使う」? それを一体何に使うんだ?』
『魔法を使うことが出来るの。その本を利用して』
『魔法を……?魔法を使って、何をするんだ?』
『戦うのよ』
『何と?』
『もう一つの人類と』
いきなりもう一つの人類と言われてもな……。
相変わらずこいつの話は要領を得ない。苛つく気持ちを抑えつつ、僕はとりあえず話を引き出すことにした。
『一から詳しく説明してくれ』
『まず、その本は預言書というものなの。預言書というのは、神々の意志を書き記したもの。そして、その意志に従い、神を信じる者達への祝福として、その者に魔法を授ける』
『どんな風に授けるんだ?』
『この預言書には大きく二つの部分に分けられるの。神々の意志を書き記した部分と、魔法について書かれた部分。また、この二つは別々の言語で書かれている。神々の意志を理解するほど、魔法について書かれた部分の言語を読めるようになるの。そしてその通りにすると、魔法が使えるようになる』
『つまり魔法習得への近道は、神々の意志を理解することなのか』
分かったような口振りだが、本質的な部分は全く理解出来ていなかったりする。
『そういうこと。次は何故魔法が必要なのかについて話すわね。実はこの世界には、二つの人類が存在しているの。一つは猿人族、もう一つは竜人族』
『竜人族?』
『恐竜から進化した人類よ。恐竜はとても長い期間繁栄したのに、知的生命体に進化できなかったなんておかしいと思わなかった?』
いや、長く繁栄したからって知的生命体に進化出来るとは限らないと思うが……。
『そんなの、想像がつかない……』
『でしょうね。まぁとにかく、その竜人族が地球を侵略しようとしてるの』
『なんだって?』
なんかいきなり話が壮大過ぎないか……?
『そもそも、その竜人族っていうのはこの世界の何処に隠れているんだ?』
『実はどこにでも居るのよ。見えないだけで』
「は?」
思わず声が漏れた。
『彼らはフォトンベルトによって、宇宙初のエーテル生命体になったの』
『フォトンベルトって一時話題になったあの光子に満ち溢れた空間の事か?』
『そう。フォトンベルトは実在するのよ。宇宙の生物はフォトンベルトによって急激な進化を遂げるの』
流石にもう驚かない。というか、驚く暇もなく話が進んでいく。
『2012年12月23日にも一度地球を通過しているのよ。尤も、進化したのは一部の人間だけだったけどね』
『本当か?あまり変化があったとは思わないけど……』
『一部の人間は第六感が進化したのよ。人間は第六感を使う機会が少ないから、気付かない人が多いけどね。貴方だって進化しているのよ』
『僕が?』
あまりに実感がない。いや、実感がある方がおかしいんだ。
『その証拠に、今、私の声が聞こえているでしょう?』
そう言う割には何回も確認した癖に。
『その理屈だと、僕以外にもテレパシーが聞こえる人が居るんじゃないか?』
『安心して。波長を合わせないとテレパシーは聞こえてこないわ。意図的に盗聴っていうのは可能ではあるけれど、第六感の研究もまだ進んでない今の段階でそんな高度な技術を使える人は居ないわ』
『第六感の研究か……』
研究の仕方が想像もつかない。何もないところから何かを生み出す先駆者と言うものは、偉大だなあと思った。
『で、話を戻すけど、次にあなたは何故竜人族が地球を侵略しようとしているのか疑問に思うでしょうね』
色々な方に話が飛びすぎて、話を整理するのに精一杯で、疑問を感じる暇もなかったのだが。
『竜人族はね、とても信心深い種族なの。神を絶対として生活しているのよ』
『それって資本主義と相性悪いんじゃないか?』
ちなみに僕は話の脱線は大の得意だ。
『そうかもしれないわね。間接的な原因はそれよ』
うまく話をまとめてくるのが意外で、内心少しビックリした。
『竜人族は資本主義に疑問を持ったと?』
またもや分かった振りをしてみる。
『正確には資本主義がもたらす環境破壊にね』
『環境破壊か……』
『神は人間を信じて他の生物の世話を任せたのに、人間は神を裏切った、もう人間には任せておけない、地球を侵略しよう、ってね』
一部の国が原因で地球ごと危機に晒されるなんて迷惑な話である。
『で、何故それを天使が妨害するんだ?』
天使としては竜人族の肩を持つのが筋って気がするが。
『天使にも色々な考え方の奴が居るのよ。大きく分けて人間の成長をゆっくり見守ろうっていう穏健派と、竜人族に任せて、人間は滅ぼしてしまおうっていう急進派が居るわ。私は穏健派ね』
『なるほど、天使も二極に分かれているのか』
冷戦時のロシアとアメリカが頭に浮かんだ。
『で、密かに戦争をして……』
どうやら情勢は冷戦どころの話ではないらしい。
『勝った方の意見を受け入れるのが妥当と神様は判断したの』
神様って何のために世界を作ったんだろう。そんな哲学的な疑問が頭に浮かんだ。まあ、分かるわけもないのだから考えても無駄な話だが。
『なるほど……それで……他に話すことは?』
なんだか他にも色々な疑問があった気がするが、それはまた今度の機会に問うことにしよう。そうしないと、話の整理が追い付かない。
『魔術師として、なるべく早く成熟しなさい。そうしないと、あなたの命が危ないわよ。……あと』
リリスは一呼吸置いた。その意味は分からない。
『随分飲み込みが早いのね。普通少しは疑ったり信じられなかったりしないの?』
思い返してみると、自分でも不思議になるくらい素直に受け入れている気がした。
『多分な……』
僕も一呼吸置いてみた。白い息が出た。
『……こういうの、ちょっと憧れてたんだよ』
『そう……』
納得したのか、理解できないのか。一言で済ましたが故に、何を思ったのかよく分からなかった。
『それから……最後に訊きたいことがある』
これは別にあえて最後にした訳じゃない。
『何かしら?』
『この預言書の名前は?』
『それは――』
僕は自宅に到着した。
3.
リフレインクロニクル 第零章「エリュシオン」
遠い昔、人は神に愛された人だけがその存在を赦されるという楽園に身を置いていた。アダムとイヴである。神々は退屈しのぎに人類を作り、ペットのようなものとして人々の行動を観察していた。
ある日のことである。とある蛇はアダムとイヴに話し掛けた。
「ごきげんよう」
彼らは挨拶を返した。
「君たちに伝えなければいけないことがあるんだ」
「一体なんだい?」
アダムは応えた。
「実は神様が禁断の果実を食べてもいいと仰ってるんだ」
アダムとイヴは顔を見合わせた。
「でも神様は絶対に食べてはいけないといつも仰っているよ」イヴは言った。
「神は禁断の果実がとてつもなくおいしいものだから、独り占めしようとしていたんだ」蛇は応えた。
アダムは息を呑んだ。
「何故神様は気が変わったんだい?」とアダムは言った。
「それは今日が君達の記念日だからだよ」蛇は応えた。
彼らはまた顔を見合わせた。
「今日を逃してしまったら、もう二度と食べることが出来ないかもしれないよ。神様の気が変わらないうちに、さっさと食べちゃいなよ」
それでも彼らは躊躇った。
「きっと神様が見ているに違いない。神様が見ている前で、そんなことをしたら、お怒りになるだろう」
「神様は君達がそう憂慮するのを見越してお出掛けになっているんだ。神様がここまで気を使って下さってるのに、君たちはそれでも果実を食べないというのかい?」
結局アダムとイヴは蛇にそそのかされ、禁断の果実に手を出してしてしまった。そしてアダムとイヴは知恵を得た。そして自分たちが裸でいることが急に恥ずかしくなり、木の葉や枝などで身体を隠した。
やがて神様は戻ってくるとこの世の終わりかのように激怒し、アダムとイヴを楽園から追放した。
そしてアダムとイヴは地球に追いやられ、我々人類の祖となった。
4.
僕は本を置き、壁に掛かっている見馴れたコルクボードを意味もなく見つめた。
「ほとんど旧約聖書そのまんまじゃないか」
『その内容が真実だったってことよ。預言書は歴史書も兼ねるんだから』
「にわかには信じがたい内容だよ」
『ダーウィンの進化論に従えば、人間は猿から進化しているものね。けれど、ダーウィンの進化論には根本的な間違いがある。それは神を進化に組み込んでいない点ね』
「神なんて居るかどうか分からないからな……」
僕はベッドに寝転がり自室の天井を見上げた。
「そう言えば、もう魔法は使えるようになっているのか?」
『本の後半部分を開いてみなさい』
僕は言われた通りにしてみた。すると、今だかつて感じたことのない感覚が僕を包み込んだ。
「読める……」
見たことのない文字の筈なのに、読めてしまう。それは不思議な感覚だった。
『それも第六感が影響しているのよ』
これなら何でも信じられる気がした。
ここで僕は、リリスの声が幻聴でも何でもなく、重みのある現実だということを確信した。
5.
【初級・魔法の使い方】
まずは魔方陣を書いてみましょう。
書くときには、なんらかの動物の血を使わなければなりません。
出来るだけ新鮮な血を使いましょう。ニワトリの血がお奨めです。
6.
「おい待てリリス」
突っ込みどころは一つしかない。
『あら、どうかして?』
「俺が、こんなふうに、新鮮な生物の血を用意できると思っているのか」
『それは著者に言ってちょうだい』
なんとも無責任である。
「じゃあこいつはついさっきまで一般人だった奴がニワトリの血で魔方陣を書けると思っているのか」
『書いてあるってことは、そうなんじゃない?』
僕は呆れるしかなかった。こいつ全く天使っぽくない。
「なんか偉く適当だな……」
『で、どうするの?』
僕は一時沈黙した。
「……代用品とかないのか」
『まあ、あることにはあるけど……』
あるのかよ。
「一体なんなんだ?」
『それは――』