第7話 : 裏切りの夜
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
一人、部屋に残された茜は、部屋の隅で膝を抱えて、上総の言った言葉をひたすら反芻していた。
『その男は、貴方を助けてはくれませんよ』
うそ。
『本当の神津敬悟は、十六年前の事故で母親と共に死んでいます』
うそだ。
『ああ、貴方の親友の高田真希。彼女を鬼人化させたのは、彼ですよ』
うそだよ!
否定して欲しいと、掴んだ茜の手は、静かに外された。
そして、のぞき込んだ瞳に映ったのは……。
赤く禍々しく光る双眸。
あれは、紛れもなく『鬼』の眼だ。
「誰も信用するなって、こう言う意味だったの……?」
茜は、信じていたものが、音を立てて崩れて行くのを感じていた。
『茜ちゃん、大丈夫だよ。僕がいつも側にいるからね……』
遠い幼い日から、絶え間なく注がれていた、優しい眼差し。
いつだって自分の味方だった大好きな従兄――。
あれが、全部偽りのものだったの!?
茜は、抱えた膝に顔を埋めて、叫び出したい衝動をじっとこらえていた。
スッと襖が開く。
夕食用のお膳を持った敬悟が入って来た。
座卓の上にお膳を置くと、敬悟が静かに口を開く。
「食べておけ……」
「……いらない」
「食べておかないと、いざと言う時に何も出来ないぞ?」
その声はごく穏やかだ。
いつもと変わらないその穏やかさが、癇に障った。
思わず立ち上って敬悟の方に歩み寄る。
「いざ? いざって何!? 今以上に、いざって言う時なんかあるのっ!?」
茜はこらえていた感情が、あふれ出してしまうのを押さえられなかった。
言いたいこと、聞きたいことが心の中で渦を巻いて、吹き出す場所を求めていた。
「今まで、ずっと騙して来たの!?」
高ぶりすぎた感情のせいで、声が震える。
「……」
「全部、嘘だったの!?」
黙ったままの敬悟の両腕を掴んで揺さぶる。
「答えてよっ!」
瞳から、つうっと涙が一筋こぼれ落ちた。
一瞬、敬悟の表情が曇る。
「木部…上総の言ったことは、みんな事実だ。……俺は神津敬悟では無いし、高田真希を操ったのも、俺だ」
バシッ!!
茜は思いっきり、敬悟の頬をひっぱたいた。
叩いた手の痛みよりも、心の方が何倍も痛かった。
無言でペンダントを首から外す。
「これが、欲しかったんでしょう?」
ポンと、敬悟の足下に放った。
「あげるよ!」
ぽろぽろと涙があふれ出す。
「茜……」
「一つだけ教えて。真希はどうなるの?」
「……今頃は、目を覚ましているはずだ。元々あれは、軽い暗示をかけただけだ……。彼女には、ごく薄まってはいるが、この木部一族の血が混じっている。暗示でその血を刺激して一過性の鬼人化現象を誘発したが、そのまま元に戻れないと言うことは無い」
「木部一族の……血?」
「ああ。隣町の駐在が言っていただろう? ここは、『一つの一族が占めている』って。それが、木部、……鬼部一族だ」
「そして、茜様。貴方はその正当な血を受け継いだ、最後の一人なのですよ――」
ぎくりとして、二人が声の方を振り返る。
「立ち聞きとは、良い趣味じゃないな」
敬悟が声の主、木部上総を睨め付ける。
「儀式前の大切な、お姫様ですからね。何かあっては、こちらの首が飛んでしまいます」
クックックッと、目を細めて楽しげに嗤う顔が、蛇を思わせた。
茜たちの方に歩み寄って来た上総がすっと、落ちていたペンダントに手を伸ばす。
瞬間、青い閃光が走り、じゅっと肉の焦げたような嫌な匂いが鼻をつく――
「ちっ!やはりダメか。忌々しい。これさえ無ければ、事は簡単だったものを……」
上総の右手は、焼けただれて色が変わっていた。茜が、思わず吐き気を覚えて口を両手で押さえた。
「ご心配なく。これ位の傷はすぐに治ります」
そう言って、左手を焼けた右手にかざすと、何やら念じた。
すると、見る見るうちに、傷が治って行く。それはまるでマジックでも見ているようだった。
「ほらね」
右手をひらひら振りながら、にっこりと笑う。
茜は、あまりの事の成り行きに何も言えずに、ただ呆然とそれを見ていた。
「そのペンダントは、貴方に任せますよ『敬悟』君。元々、それだけが目的では無いですからね。せいぜい、焼かれないように気を付けるのですね。貴方では、自分の傷を治せる力は無いでしょう? 儀式は、明日の夜です。それまでせいぜい別れを惜しんでおくのですね」
そう言って、嘲るような笑いを浮かべて、上総は部屋を出て行った。
敬悟が、落ちたままのペンダントに手を伸ばす。
茜は、先刻の上総の様子を思い出して、思わず目をつぶった。
敬悟は、一瞬の躊躇の後、ペンダントを、ゆっくりと拾い上げる。だが、茜の予想に反して、ペンダントは何の反応も示さなかった。
「どうして……? さっきは、酷い火傷をしたのに……」
「……外さないで持っていろ。これは大切な『守りの石』だろう?」
そう言って、茜の首にペンダントを掛けて微笑む。
そのいつもと変わらぬ笑顔に、心が揺れた――。
「ずるいよ……」
「うん?」
「憎ませてもくれないなんて、ずるい……」
「……そうだな」
その夜、敬悟から聞かされたことは、信じ難いことだった。
それは、神津 茜にとって、今までの自分の存在の根幹を揺るがすような、そんな事実だった――