第5話 : 夏の嵐
「ええっ!? 木賀暮に行きたい?」
I 県 T 郡にある、木賀暮町の隣町の交番である。
周りには、のんびりとした北陸の農村地帯の風景が広がっていた。
地図上では、この町の隣にあるはずの木賀暮町に、どうしても行き着かないのだ。
「地図上では、ここは隣町ですよね? 山の上のようですが、どうしても町に入る道が見付からなくて……」
ゆっくりと車を走らせて、看板を確認しながら2往復ほどしたが、それらしい看板は見付からなかったのだ。
敬悟の言葉に、交番の壮年の駐在が、少し困ったような表情をした。
「……道は、車の通れる道はないんですよ」
「ええっ!?」 茜と敬悟が同時にハモる。
「18年前でしたか……、大きな山崩れがありましてね。その時に道も埋もれてしまって、そのまま、と言う状態なんです。それに……、あそこの町は、何と言うか少し特殊でして、町の殆どが一つの一族で占めていて、すごく閉鎖的なんですよ」
「でも、人が住んでいる以上、行き来はあるでしょう? 住人はどうやって行き来しているんです?」
敬悟の当然な疑問に、駐在はますます困った顔をする。
「住人は、徒歩で山を下りて来てるんです。週に一度ほど、生活用品や食料を調達にやって来ます。いわゆる『登山道』ですな。かなり急な場所もありますし、慣れてる者でも半日は掛かるでしょう……」
そう言って頭をがしがし掻いた。
「 『18年前に、道が埋もれた』 とおっしゃいましたが、何故、道は修復されなかったんですか? 普通、住民からクレームが付きませんか? そんな状態では不便でしょう?」
「それが、とうの住民側から、道の修復に強行な反対があったそうです……。何でも、山が崩れたのは、よそ者が 『鬼神様の聖域を汚したからだ』と言ってね……」
「鬼神様!?」 思わず、茜が大声を上げる。
「ええ。桃太郎に出て来る、あの、『鬼』です」
駐在が、両手の人差し指を2本立てて、厳つい顔の眉根を寄せる。
「昔は、あそこには鬼が棲んでいて、『近づく者を取って喰う』と言われていましてね。まあ、今でも地元の者は近付きやしませんがね……」
「『木賀暮』と言う名前も、昔は『鬼隠』、鬼が隠れると言う字を書いたんですよ」
押し黙ってしまった二人に、「何、良くある迷信ですよ」 と駐在が、がははと笑って見せる。
茜と敬悟は顔を見合わせて、長いため息を付いた。
『木賀暮=鬼隠』だったと言うのは、目的地が間違ってはいないと言う確信に繋がったが、だからと言って喜ぶ気持ちにはなれなかった。
『何で又、あんな所に?』と言う、公僕にあるまじき駐在の疑問に曖昧に笑いで答えて、半日は掛かるという登山は今日は断念した。
「山登りになるんじゃ、この格好じゃまずいな……」
まさか、ここまで来て登山をするとは思わなかったので、さすがに七月、二人とも半袖とジーパンと言う軽装だった。
「夏なのに、この格好じゃダメなの? いくら、北陸だって言っても、結構暑いじゃない? 靴も、スニーカーだし……」
「ダメだ。夏山をなめちゃいけない。朝夕はかなり冷え込むし、雨でも降ればかなり危ないからな。とりあえず、今日は服を調達して宿を探そう」
「そっかー。敬にぃ、発掘とかで、山にも登ったことあるもんね」
父と敬悟が発掘に行ってしまうと、一週間単位で留守になる。その間茜はと言うと、真希の家に居候していたのである。親友であるとともに、両家は家族ぐるみの付き合いでもあったのだ。
「真希に一体何があったんだ!?」
真希の父親の怒声が蘇ってくる。普段は穏やかで、怒ったと所など見せた事のない人だっだ……。
怖いと言うより、答えられない自分が悲しかった。
真希、待っててね。きっと元に戻れるから……)
茜は、心の中で、病院で眠ったままであろう親友にそっと語り掛けた。
その日は地元の民宿に宿を取った。
素朴な農家造りの広い屋敷で、地元の山菜料理を堪能し、温泉だと言うお風呂につかり、『こんなにのんびりしていて良いのかなぁ』と茜は思いつつ布団に入った。
和室の続き間を借りたので、襖の向こうに敬悟が居る。
「何かあったらすぐに呼べ」と言ってくれたが、やはり不安がわき上がってくる。
あの赤鬼の異形の姿が頭に浮かんで、思わず身震いをした。
――何も、起こらないよね? だって、ペンダントを返しに来いって言うからここまで来たんだもの。
疲れているのに、神経だけが異様に高ぶっていてなかなか寝付けない。
頻繁に寝返りを打ってはため息が漏れる。
そんな時にそれは始まった。
ゴロゴロゴロゴロ――。
――うそっ! この音は、まさか……。
意外に近くで雷鳴が響いて、茜は布団の中で固まった。
カッと、稲光で豆電球だけの薄暗い部屋の輪郭が浮かび上がり、きっかり三秒後、地響きと共に特大の雷が鳴った。
「うぎゃっ!?」
茜が布団から飛び起きて、枕を抱える。
子供の頃から雷が大の苦手なのだ。
雷が好きな人間は少数派だろうが、茜の場合は怖いのだ。どうしようもなく恐怖を感じる。
落雷が怖いのもあるが、あの神経を逆撫でるような『轟音』が生理的にダメなのだ。
おなじ理由で、飛行機の音も雷を連想させるので苦手だ。
ぴかっ――。
「うひっ!」 枕を抱えて、すっくと立ち上がる。
ドッカーーン! と言う音とともに隣の続き部屋の襖をガッと開けて、駆け込んだ。
「け、け、敬にぃ〜〜」
枕を抱えて世にも情けない声で呟く茜を見て、運転疲れで半分うとうとしていた敬悟が、額に手を当て盛大なため息を付く。
「……布団、こっちに持って来いよ」
自宅であれば、他に気を紛らわす方法はいくらでもあるのだが、ここではそうも行かない。雷が何より苦手な茜には、一人で寝ろと言っても無理だろうと敬悟は判断した。
「ご、ゴメンね敬にぃ……」
「いいから、もう寝ろ。明日は朝一で山登りだからな」
「うん……」
ぴかっ。
「ひゃっ!」
「大丈夫だから、寝ろ」 まるで小さい子供をあやすように、ポンポンと布団を叩く。
「う、うん……。お休みなさい」
ポン、ポン、ポン。
規則正しい、優しいリズムがゆっくりと続く。
『何だか、お母さんみたいだなぁ……』 恐怖心がすっと、消えていく。
小さい頃は良くこうやって、一緒に眠ったっけ……。暗闇がどうしようもなく怖くて眠れない夜は、ずっと手を繋いでいてくれた。そうすると安心して眠れたものだった。
そんな事をぼんやりと考えているうちに、茜は眠りに落ちて行った。
敬悟は、茜が眠ったのを確認すると、起こさないように布団をそっと抜け出した。
窓辺にもたれかかり、滅多に吸わないタバコを吸い込みながら、雨にかすむ山陰を見詰める。
「木賀暮……鬼隠の里か……」
見詰める眼差しに迷いの影が揺れる。
ここまで連れて来てしまったが、本当にこれで良かったのか?
ここに来るように、そうし向けたのは自分だ。
このまま放っておいて、どうにかなる問題ではないのだ。
根本を絶たねば、何度でも茜に危険が降りかかるだろう……。
いっそ、
いっそこのまま、何処かにさらって逃げてしまえれば、どんなにいいか……。
「逃げ切れるものなら、な……」
何処に逃げても『奴ら』は追って来るだろう。今、自分が出来ること、それは―― 。
「守るさ。何に替えたって……」
何を、失おうとも――。
一瞬、稲妻に照らされた敬悟の双眸に、妖しい赤い焔が揺らめく。
もしそれを茜が見ていたら、あるものを連想しただろう。
母、明日香の葬儀の夜に、茜を襲った『赤鬼』
明日香に似た『鬼女』
そして、変貌した親友『真希』
それは、それらが茜に向けた、あの禍々しい双眸に似ているのだ。
これから起こることを予感させるような雨が、激しく窓を叩いていた。