第1話 : 始まりは雨
その日は、朝から冷たい雨が降っていた。
もう七月だと言うのに、季節が逆行してしまったかのような冷たい雨。
母を焼く煙突から上がる煙は、そのけぶるような雨の中、鉛色の空に溶けるように消えて行く――。
空も、失われた命を悼んでいるかのようだった。
「茜! もうそろそろ時間だ。こっちに来てなさい」
一人、火葬場の待合室を離れ、玄関ポーチの外壁にもたれて、落ちてくる雨をぼんやりと眺めていた神津茜は、父親の呼ぶ声に軽く右手を挙げた。
「あ、うん。今行くよ、お父さん」
慌てて小走りに駆け寄ろうとして、金属製の側溝に足を掛けた瞬間、ずるっと転けた。
ぶるん。
と、ポニーテールの明るい色の髪が、勢い良く揺れる。
「うきゃっ!?」
最悪!
よりにもよってこんな日に、「ドジ」の本領を発揮なんて!
と要らぬ心配をしながら 水たまりに尻餅を付く瞬間、誰かの腕が伸びてきた。
「あ、あれ?」
お尻が冷たくないぞ?
視線をあげると、従兄の敬悟のほっとした顔があった。後三十センチで着水、と言うところで敬悟がキャッチしてくれたのだ。
「サ、サンキュ。敬にぃ」
あはは、と引きつり笑いをして体制を直し立ち上がる。
「サンキュ。じゃないだろ。注意力散漫! ドジも大概にしろ。良くそれで弓道大会全国三位になれたな……」
はぁっと溜息混じりの明らかに、あきれた様子の答えにむっとする。
「弓道は瞬間勝負だから、ドジは関係ありません。悪しからず!」
助けてもらった恩も忘れて「んべっ」と舌をだすと、今度は慎重に父の元に向かう。
神津敬悟は、二十一歳の大学四年生。
茜にとっては四つ年上の父方の従兄、父の妹の子供で、幼い頃から一緒に育った兄のような存在だった。
彼が五歳の時、唯一の家族だった母親が事故で他界したため、伯父である茜の父に引き取られたのである。
当時茜は一歳。文字通り、「オムツも取れていない」赤ん坊である。
五歳の敬悟少年は、突然出来た妹をそれは可愛がり、当時から茜の母・明日香が病弱だった事もあり、それこそ”オムツも替えてくれた”のだ。
それを折に触れ言われるので、一応十七歳、年頃の娘として茜は面白く無い。
「全く! デリカシーがないんだからっ! だから彼女が出来ないのよ!」
とは、”オムツ”の話を持ち出されると茜が必ず言う決めゼリフである。
ただ、敬悟の存在は茜にとっては無くてはならないものだった。
病弱で、入院していることが多かった母。
大学の教授で、考古学の博士でもある父。
父の衛は、若い頃珍しい遺跡を発掘し、それに対する論文が認められ、比較的若くして教授になった。
そのため、発掘や講演などで多忙になり、家に居ることが少なかったのだ。
必然的に、茜と敬悟が二人で過ごすことが多かった。
勿論、ベビーシッターなり家政婦なりの、世話をしてくれる大人はいたが、もしこれが彼がいなくて一人っきりだったら、どんなに寂しい子供時代を過ごすことになっただろう。
そんなことは、良く分かってはいるのだが、今ひとつ素直になれない茜だった。
ガチャンと重い音を響かせて火葬炉の扉が開かれる。
出た来た台車の上には白い骨になった母がいた。
細い、余りにも小さな骨。
それを、小さな骨壺に納めて行く――。
茜はこの瞬間、自分は絶対泣くだろうと思っていた。
でも、何故か涙は出なかった。
”何故、自分は泣けないのだろう?”学校で母の死を知らされた時も、病院で母の亡骸と対面したときも、そして今も……。
「この石は”守りの石”なのよ。あなたを守ってくれているの。だから、外さないでいましょうね――」
遠い幼い日、聞いた母の言葉が不意に甦る。
茜は胸のペンダントを、無意識に握りしめた――。
「疲れただろう、今日は早めに休みなさい」
自分の方がよほど疲れた顔をしている父にそう言われ、茜はただコクンとうなずいて、自室に戻った。着替えもせずに、ベットにごろんと倒れ込む。
――お父さん、一人で泣くのかな?
ふと、そんなことを思った。
二人は誰が見ても仲の良い夫婦で、勤務先の大学では衛の愛妻家ぶりは有名だった。
敬悟が衛の勤める大学に通っていて、おまけに考古学専攻なので、その辺の情報は茜の耳にも良く入って来ていた。
「何で、私は泣けないかな……」
ふぅ、と溜息が漏れる。
確かに、病弱で入院が多かったので、他の家庭のような親子関係ではなかったかもしれない。
でも、幼いころ病室で読み聞かせてくれた童話の本は、今でも本棚に大切にしまってあるし、年頃になってからは、学校のこと、部活のこと、友達のこと、何でも相談した。
どんな話しでも、母はいつも楽しそうに笑って聞いてくれた。
その母が死んだ。死んでしまったのに、涙が出て来ない。
悲しいし寂しい。
なのに何故?
トントン。
ノックの音に、はっとして起きあがる。
「風呂、入って寝ろよ。あ、制服着替えてちゃんと掛けとけよ。シワになるぞ」
ドアから顔を覗かせそう言って、又ドアを閉めて行こうとした、敬悟の表情が固まる――。
いや、”凍り付く”と行った方が良いかもしれない。
「茜っ……、そのまま静かにこっちに来いっ……!」
その表情にただならぬ物を感じて、茜は静かにベットから降りて、敬悟が見詰めている窓の方を見た。
息が止まる。
そこには、何かがいた。
窓は閉まっている。なのにカーテンがゆらゆらと揺らめいていた。
揺れたカーテンと窓の間にいるもの、それは――。
「お、鬼……?」
二メートルはあろうかという巨体に、赤黒い肌。
真っ赤に燃える双眸。
そしてその頭上に生えているのは間違いなく『角』だった。
『一本角の赤鬼』
その姿はまるで日本の昔話から抜け出て来たようで、滑稽ですらあった。
「石ヲ、返セ……」
鬼が、くぐもった声を発した。
「えっ?」
石?
鬼の言葉に、茜の動きが止まる。
次の瞬間、その鬼は茜の目の前に立っていた。
歩いて来たのではない。
瞬きをして目を開けたら、目の前に立っていたのだ。
「石ヲ、返セ……」
そう言うと鬼は無造作に、茜の胸に手を伸ばした。
「!?」
茜が声にならない悲鳴を上げる。
胸を両手でかばい後ろにへたり込む瞬間、青い閃光が走った――。
「茜っ!!」
目も眩む閃光に意識を焼かれながら、茜は、遠くで自分を呼ぶ敬悟の声を聞いたような気がした。