告知義務
[プロローグ]
正直、結婚なんて、まだしたくなかった。
でも、学生時代から十年も付き合ってるし。
最近は、文乃からのプレッシャーもキツかった。
とりあえず、お試し同棲しようとなり、いくつか有名な不動産会社のサイトを使って、賃貸物件を探した。
ああでもない、こうでもない、と話し合い、条件に合致する物件を見つけた。いや、理想的な物件と言うべきか。
人気の場所。駅近。若干、築年数が気になるが、まだ綺麗な建物。
なのに、破格の家賃。
俺はパソコン画面をスクロールし、最終行の一文を拡大した。
『心理的瑕疵あり』
⑴
不動産会社への道、文乃はとても嬉しそうだった。
「ノブが、ようやく結婚する気になってくれて嬉しい」
「長いこと待たせてゴメン。結婚するなら、フミって決めてたんだけどさ」
心にもないことを言ってしまった……。
「舩本宏伸様と小瀧文乃様ですね。今日は、ありがとうございます」
不動産会社では、若い男性社員が待っていてくれた。彼は、タブレットの画面を俺達に向けて尋ねてくる。
「この物件で、お間違いなかったでしょうか?」
俺と文乃は額を突き合わせ、画面に見入る。最後の一文は、何度見ても消えるものじゃない。
文乃の顔は曇っている。
その後、男性社員の案内で、マンションの内見に訪れた。
広々とした2DKで、管理費込み家賃5万円。
「人気のエリアですしね、相場の半額以下の家賃なんですよ。他の入居者は、若いカップルが多いです。……事件があったといっても、もう3年近く前のことですし。皆さん、全然気にされてませんよ」
この部屋が “事故物件” となった経緯を、男性社員が説明し始めた。
⑵
「殺人事件が、この部屋の前で起きたんです」
部屋の前? 共用通路?
「それで、何故、ここが心理的瑕疵物件になるんです? おかしいじゃ」
「差し支えなかったら、事件のことを詳しく教えていただけますか?」
文乃が、俺の言葉を遮って口を挟んだ。
「別れ話のもつれで、若い女性が恋人を刺してしまったんです。この部屋の住人が被害者だったわけですが、助けを求めて部屋の玄関口で倒れて……。奥さんがその後、ちょっとおかしくなってしまいました」
社員は眉を顰め、ため息混じりに言う。
「奥さん? 別れ話のもつれって、誰と」
どういうことだ?
「加害者の若い女性は、被害者と不倫関係にあったんです」
俺と文乃は、顔を見合わせる。
「事件後、被害者の奥さんは、『あの人達、ここの部屋にいる』って泣き喚いたりして、大変だったようです。気の毒ですし、可哀想ではあるのですが、正直こちらは迷惑というか。困りました」
⑶
「ねえ。やっぱ、やめようよ」
不動産屋さんと別れてからの帰り道、文乃がポツリと言った。
「なんで? こんな優良物件、ないよ? 事件後に入居者もいるし。そもそも、幽霊なんているはずないじゃん!」
「でも……」
「会社にも近いし、あんな綺麗なマンションで破格の家賃。俺は気に入ったけどね」
「綺麗、かなあ」
「ウォークインクローゼットも広くて使いやすそうだし、部屋も水回りもリフォームしたばかりっていうし」
「うーん」
俺はイライラしてきた。
「なら、もうやめよう。別にお試し同棲なんてしなくていいんだし。てか、文乃がこんなイラつくタイプだと思わなかった。……俺達、結婚自体を考え直したほうがよくね?」
結局、文乃が折れて、俺達は一緒に “事故物件” で暮らし始めた。
⑷
マンションで暮らし始めて半年も経たないうちに、宏伸が死んでしまった。
この部屋ではなく、会社で。心不全で突然。
「だから、やめようって言ったのに」
部屋を片付けながら、私は宏伸に話しかけるように呟く。
「ノブもさ、浮気してたんだもんね」
私は知っていた、宏伸が会社の後輩とも付き合っていたことを。
二股かけられてたわけだけど、最終的に私を選んでくれたと思っていた。でも、実際はどうだったのだろう。
あの日、内見に来た日、私は見たのだ。
この部屋に幽霊がいるのを。しかも、複数体。
幽霊を見たのは、その一度きりだ。
クローゼットで、膝を抱えて座っている人。風呂場には、うつ伏せに倒れている人。
他にもいろいろ。
彼らは、ヴェールが掛かったように薄ぼんやりとしていて、音も立てずにひっそりとしていた。
不思議と怖くなかった。
不動産屋さんの言葉。
被害者の奥さんは、『あの人達がいる』って言ってたんだよね?
この部屋って、一体、何人の人が不審死を遂げてるの?
⑸
不動産業者には告知義務があるから、事件後3年間は、“瑕疵” について説明しなければならない。会社で亡くなった宏伸のことは、告知する義務はないだろう。
今後、この部屋を借りたい人から、『開示請求』でもされない限りは。
もしかしたら、あの幽霊達は、私達に警告してくれたのかもしれない。
私以外には見えなかったのが、不思議なことだけれど。
全て片付いて、キャリーケースひとつ持って部屋を出た。
玄関扉を閉めようとした瞬間。
奥の通路に宏伸が現れた、音もなく、静かに。
私は慌てて、彼と目が合う前に扉を閉めた。
[了]




