言葉だけで、人を好きになる。
好きな小説家がいる。
新刊が出れば必ず買う。読み終わるのが惜しくて、わざとゆっくりページをめくることもある。でも私は、その人のことを何も知らない。顔も、年齢も、どんな場所に住んでいるのかも。SNSもやっていないらしく、著者近影すら見たことがない。私の手元にあるのは、その人の作品だけ。
それでも好きだと思う。だからこそと言うべきかもしれない。
その人の書く文章には難しい言葉がひとつも出てこない。
辞書を引く必要も、眉間に皺を寄せる必要もない。子どもでも読めるような、どこにでもある言葉だけで物語は綴られている。
難しい言葉を使えば知性を示すことができる。珍しい比喩を散りばめれば、独自性を出すこともできるだろう。けれど、その人は決してそうした道を選ばない。
誰でも知っている言葉を、誰も思いつかなかった順番で並べる。そのリズムが心地よくて、気づけば声に出して読みたくなる。情景が目に浮かんで、読み終わったあとには、世界の見え方が少し変わっている。
簡単な言葉だけで美しい世界を作れる人は、実は一番難しいことをしているのだと思う。飾りがない分、ごまかしが利かないのだから。
これはどういうことなのだろう、とずっと考えていた。
言葉だけで人を好きになるとはどういうことか。それを確かめたくて、私は『Lucia, My Lucia』という話を書いた。
1910年代のヨーロッパの架空の国を舞台にした、文通の物語である。海辺の国の令嬢ルチアが、砂浜で拾った古い瓶の中に一枚の紙を見つける。差出人は異国の船乗り、ギルバート。顔も知らない二人は手紙を交わし始める。
この小説を書きながら意図的にしたことがある。二人の容姿を描写しないことだ。見た目で好きになった関係ではないから。どんな目をしているか、背が高いか低いか、そういうことは二人にとって最初から問題ではなかった。
ギルバートはルチアの外見を知らなかった。でも、ルチアが果てしない海を"Oceano infinito"と呼ぶことを知っていた。夕暮れの海が金色の道を作ると感じることを知っていた。そして、ルチアにとってギルバートの手はどんな宝石よりも尊いのだ。美しいからではなく、その手が何を書き続けたかを知っているから。
言葉だけで人を好きになることを軽く見る人もいるかもしれない。顔も知らない、声も知らない、実際に会ったこともない。それは本物の好きなのか、と。
だけど小説を読んでいて考えることがある。顔を知らなくても、どんな人生を送ってきたかを知らなくても関係ない。その人が選んだ言葉の一つひとつが、すでにその人そのものだから。
感性は嘘をつかない。どの言葉を美しいと思うか、どこで句点を打つか、何を書いて、何を書かずに残すか。そういう選択の積み重ねにその人がいる。
その人の文章を読んで世界が愛おしくなるということは、その人の目を借りて世界を見ているということだ。その人が美しいと思うものを、自分も美しいと思えるということだ。これほど深く人と繋がる方法が他にあるだろうか。
好きな小説家の新刊を買うたび少し緊張する。また、この人に会える。言葉の向こうにいるこの人に。
顔も知らない。名前だって本名じゃない。それでもどんな知人よりも親しく感じている。ページをめくるたびに、この人はこういうものを美しいと思うのか、と発見する。その発見が嬉しくて、また次の新刊を待つ。
ページをめくり、この言葉を綴る指先に恋をする。言葉だけで、世界が愛おしくなれる。それは世界で一番贅沢な片思いだと、私は思っている。




